県政記念館大時計修復のあらまし

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県政記念館にある大時計の由来には・・・

白山公園に隣接した県政記念館(新潟県議会旧議事堂)は、明治初期の洋風建築として建築史の観点から貴重なものであり、明治初期の府県議会創設期における現存唯一の議事堂として国の重要文化財になっています。 この建物は明治16年3月の完成以来、昭和7年に旧県庁内に議事堂が出来るまで県政の殿堂でした。その後は郷土博物館、海軍施設、県庁分館などに使用されてきましたが、昭和44年、国の重要文化財指定により永久保存されることになり、昭和48年に復元工事が行われました。 その後、昭和50年からは県政記念館となり広く市民に親しまれています。また平成16年にも修復工事を行っています。 議場には明治初期のモービエクロック(大時計)がありますが、この時計も幾多の困難を生きてきた歴史の生き証人で平成元年に修復復元されたものです。しかし、修復復元にあたってのその由来には、今となっては数々の錯誤がありました。


新潟県会議事堂の大時計の歴史

旧パンフレットに見る大時計の説明

最近まで使われていたパンフレット(今は使われていない)
数年前(平成20年頃)まで使われていた県政記念館のパンフレットからの引用です。
・・・議場にある大時計は、県会創始期(明治12〜14年)に県会書記を勤めた尾崎行雄によってロンドンから取り寄せられ、明治16年から昭和7年まで県議会の運営に用いられた。平成元年2月に修復復元された。・・・この後のくだりは、後に“憲政の神様”と言われた尾崎行雄の功績が書き綴られています。
新潟の近代史を研究している当新潟ハイカラ文庫では、様々な調査過程でこの説の矛盾を発見し、訂正を申し入れてきました。
現在のパンフレットでは「海外から輸入された」(正確には機械だけが輸入された)となっており県政記念館では修正されていますが、いまだに県関係のホームページでは尾崎行雄エピソードが紹介され、郷土史研究家の方が講演で同様の説明を繰り返しており非常に残念に感じています。

明治16年に設置された大時計
この時計は、明治16年4月県会議事堂竣工と共に内部備品として導入されました。議場正面の壁に設置され昭和7年5月、新県庁竣工により議場が移転されるまで議場内で活躍しています。
このような大時計は、フランスのモービエ地方で機械だけが製造され、それが世界中に輸出されていました。時計の大きな印象となる外箱はその国その地方のキャビネットメーカーが独自のその国好みの箱を作っていました 。日本では横浜を中心とした明治初期の商館貿易時代にスイス商館(ファーブルブラント商会、コロン商会)によってフランス製の機械が輸入され、国内の家具職人の手によって箱(ケース)が作られ、機械と一緒に組み立てられて販売されていました。直輸入と言っても、和洋折衷の国内組み立て時計なのです。日本で機械が作られる時代はもう少し待たなくてはなりません。また、あの大きな筐体すべてを輸入するのも、・関税や輸送方法の問題 ・それぞれ使われる場所(国)の建物事情やデザインの向き不向き 等々の理由で主流ではありませんでした。

新潟新聞 明治16年4月28日記事
明治16年4月27日に大時計が設置され、その代価は50円だったことが記されている。

  
明治中期の東京の時計商のカタログ
大スリギル掛時計及置時計というのが大時計にあたり、30〜60円で販売されていることがわかる
自身で「海外から取り寄せ」などしなくとも日本で購入できる物です。

大時計導入時に尾崎行雄は新潟に居ない
尾崎行雄が新潟に赴任していたのは明治12年〜明治14年までの1年半ほどであり、大時計導入時には既に新潟に居ません。尾崎行雄が赴任していた頃の新潟県議会は東中通一番町にあった県庁内にあり、その庁舎は明治13年8月の大火で焼失しています。そして新議事堂(現県政記念館)の建設着手も尾崎が新潟を去った後の明治15年5月です。
尾崎行雄を研究する「尾崎行雄記念財団(東京都)」でも「時計を購入したとされる時期には東京に帰っており、新潟の県会議事堂の備品を購入したとは考えにくい」と説明しており(2008年3月28日新潟日報夕刊)、この時計を「尾崎行雄がロンドンから取り寄せた」とする説は根拠が乏しいといえます。

昭和9年 旧議事堂は中野財団経営による新潟郷土博物館として開館

中野財団 新潟郷土博物館当時の全景
博物館当時の展示場絵葉書「大時計及水壷」
説明文には「本館が県会議事堂であった際使用されたもので(明治16年頃英国より購入)県会史50余年を物語る(本館蔵)」 とあり、キャプションがイギリス云々と説明しているのが分かります。この頃から既に「尾崎行雄がロンドンから取り寄せた」ということになっていたのでしょうか。すでに時計のケースの一番上の飾りや文字板下のツイストピラ―の下と台座の左右上のギボシが欠落しているのが見て取れます。これらの飾りは容易に取り外せるようになっていますし、また木の伸縮などにより自然と取り付けがゆるくなってきます。50年ほどの間に紛失してしまったのでしょうか。

大時計のその後 戦中から戦後
昭和20年、太平洋戦争急迫により郷土博物館は廃止され、建物は海軍宿舎となりました。その際、大時計は寄居町の県立図書館に移管され使用されていました。しかしその後、県立図書館が白山公園隣に移転した時に、大時計は裏手倉庫に格納されてしまいます。

新潟日報 昭和33年6月10日記事
図書館に保管されていた昭和33年当時の大時計の悲しい現状が見て取れます。 この大時計のケースの構造は機械部分、振り子部分、台座部分と3つに分かれる構造になっているため、いつしかバラバラになってしまったものと思われます。 すでに文字板の両脇に付くツイストピラ―と呼ばれるねじり棒が脱落しているのと振り子とそのケースが見当たらない?などかなりの破損状態が分かります。

昭和39年6月16日新潟地震、マグニチュード7.5。倉庫に保管されていた大時計は、液状化現象による出水のため泥の中に埋没しました。後日後片づけで文字板と機械、ケースの一部が拾われました。

昭和51年4月1日 県政記念館へ旧議事堂ゆかりのものとして大時計の残存物が引き渡され、その後たびたび大時計の復元の機運が高まります。

倉庫の砂の中から拾われた大時計の残存部品(全部でこれだけしかなかった)
昭和63年6月17日県政記念館にて撮影
フランス製モービエクロックの特徴的な機構と鐘と振り子が欠損している様子がよくわかる。

歴史的考証があいまいなままの復元作業

復元の嘆願書に錯誤
大時計復元の機運が高まり、昭和63年に柏崎の田中留作さんという時計屋さんが復元の嘆願を起こします。県会議員を通じての強力な嘆願で、いよいよ復元の歩みが動き始めます。当時の嘆願書には「この時計はグラスホッパー脱進機を使った日本に一台しかない貴重なイギリス製・・・」と記載されています。正確には「この時計の機械はアンクルやフランス特有のピンホイール脱進機が使用されたフランス製で、明治時代に商館を通じて多く日本に輸入されたもの」です。また、当時復元予算として時計400万設置費50万が見積もられています。
そして大時計修復事業はスタートしましたが、事業委託を予定していた嘆願者の柏崎の田中留作氏が急逝されたため、長岡の角屋祥次氏が修復を継承して平成元年に完成しました。

この大時計の特徴
この大時計は、フランスのスイス国境地帯のMORBIER地方一帯で作られたためMORBIER CLOCKSと呼ばれています。(メーカーはあまり知られていません) また、ジュラ山脈沿いのこの地域は古い歴史のFranche-Comte地方とも呼ばれているためComtoise Clocks(コムトワーズ クロック)という名前でも知られています。 この機械は18世紀から20世紀初頭まで似たような機械が造り続けられて来て、世界中同様に機械だけ輸出され、外箱はその国、その地方のキャビネットメーカーが独自のその国好みの箱を作っていました 。日本では横浜を中心とした明治初期の商館貿易時代にスイス商館(ファーブルブラント商会、コロン商会)によってフランス製の機械が輸入され、国内の家具職人の手によって箱(ケース)が作られ、機械と一緒に組み立てられて販売されていました。直輸入と言っても、和洋折衷の組み立て時計といった方が適切かもしれません。機械は、いわゆるポステッドムーブメントと呼ばれ4本柱の鉄枠中に手際よくまとめられたシンプルなものです。アンクルやフランス特有のピンホイール脱進機が使用され、旧式な機械ながら堅牢で良質の機械です。機械の上に載った鐘を毎時に打ち、2分後に追い打ちするものも多いです。鐘は1個〜4個まで色々あり、にぎやかに15分毎に打つものもあります。箱(ケース)も洋式のスタイルと和式のスタイルが有り、西洋時計が日本文化として同化していく経過を垣間見ることが出来ます。

新潟には当時のままの時計が他にもある



こちらの写真は2011年6月に県政記念館(他市内2会場)で開催された「新潟古時計物語展」時の様子です。この2台の時計は新潟県内で今でも現役で活躍している明治時代の大時計です。 向かって右の大時計は箱は勿論国産ですが洋式スタイルで外観が県政記念館の大時計に大変よく似ていて正に兄弟時計ではないかと思わせます。頭の上の破風飾りや上下のギボシの位置や数などオリジナルのデザインの姿をよく保っています。 県政記念館の大時計も本来このような姿で有ったと思われます。県政記念館の大時計は、機械の一部以外はすべて平成元年に作成された部品です。外観も光沢よく厚く塗られていますが、本当の姿はこのようなしっとりとしたものだったのですね。左の大時計はこちらはまぎれもなく日本の家具職人が日本向けデザインで製作したもので、杉や桐などの素材を多用して、総彫と呼ばれる日本嗜好の強いデザインとなっています。


歴史研究の錯誤が後日訂正されるのはよくあることです

この大時計は新潟の近代化の丁々発止の議論を見守ってきました。そして泥中に没した中から復活してきました。このような歴史研究の錯誤も「大した事ない」と構えているようなゆったりとした動きの振り子です。現在は“イギリス製”や“尾崎行雄云々”はこの時計の説明から外されています。全国的に見ても貴重な県会議事堂と、一世紀余の風雪に耐え、震災をへてよみがえった大時計を開港地新潟の開化期遺産として、大切に顕彰していきたいものです。