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新潟市歴史博物館みなとぴあ開館20周年記念企画展「北前船と新潟」開催によせて


新潟市歴史博物館みなとぴあ開館20周年おめでとうございます。

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みなとぴあ開館20周年。そして記念企画展「北前船と新潟−廻船と日本海海運の時代−」の開催おめでとうございます。新潟ハイカラ文庫も様々な史料で展示協力しています。
記念企画展によせて、私どもが史料協力している廻船問屋前田松太郎について少しご説明したいと思います。展示図録とあわせて読んでいただければ幸いです。


北前船船主の前田重松(松太郎)
前田松太郎はもともと当銀屋重松を名乗る廻船主でした。白山丸など五、六艘を有しその出しは一九。北前船稼業で築き上げた資金を元手に、安政六年に新潟町の廻船問屋の株(営業権)を取得し廻船問屋業へと進出しました。その際、名前を重松から松太郎と改名し、屋号も一上としました。この時購入した株はもともと若狭屋市兵衛のもの。若狭屋は新潟町の老舗廻船問屋でしたが唐物抜荷事件に関わった頃から経営が弱体化しついに廃業に至り、その株を取得したのが前田松太郎でした。


若狭屋が抱えていた優良顧客
老舗廻船問屋若狭屋の顧客には、江差の村上三郎右衛門、越後荒浜の牧口庄三郎、能登赤神の小橋屋彦七といった北前船経営の有力船主たちが名前を連ねており、営業権とともにそれら顧客を引き継いだ前田松太郎の廻船問屋業のスタートはまさしく順風満帆にみえるものでした。しかし、荒波の日本海で命をかけて稼いだ大金を投じて取得したこの若狭屋の廻船問屋株はいわくつきのもので、その後の経営はかなり苦しい状態が続きました。なお、この株の問題については『新潟の廻船問屋』第二部に詳しく説明をしています。若狭屋から前田松太郎への廻船問屋株譲渡の周囲で起きていたことからは、時代の流れの中で株仲間という制度に矛盾や動揺が生じつつも、その枠組みを維持しようとしてきた新潟町の商人たちの駆け引きが浮き彫りになります。
若狭屋から引き継いだ時期の入船帳は展示で実物をご覧いただけます。

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隠岐布施の熊屋熊右衛門の春日丸
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松前江差の村上屋三郎右衛門の万悦丸。沖船頭の六右衛門の出身地は村上市間島。


廻船業から廻船問屋業という選択
皆さんは、前田松太郎が業種転換した決断をどうとらえるでしょうか。北前船経営であれば儲けた資金を元手に、さらに船を増やしたり大型化していくことで売上を伸ばしていくということができます。株仲間のような参入規制はなく、自由に諸湊を行き来しながら売るも買うも自由です。一方で廻船問屋は株仲間に守られた独占商売という点は有利かもしれませんが、廻船業と比べればどちらかといえば受け身の商売。入津してくる廻船の都合に売り上げは左右されます。前田にとって廻船業はノウハウがあり、現実に収益を再投資していくだけの実力を備えているわけですから、敢えてここで廻船問屋業に進出した意図はやはり新潟町の一商人としてのステイタス、上層町人として認められるためのこだわりだったのではないかと思います。廻船問屋業は安定した収益をあげていくためには資金力と時間が必要ですが、前田には、当時の日本海海運において名が知れている有力廻船主たちを抱えていた若狭屋を自分が引き継ぐという勝算もあったことでしょう。
この時の顧客リストは展示で実物をご覧いただけます。

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今、大湊と阿ら浜(荒浜)の間にあるのは柏崎刈羽原発
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皆月、五十洲、鹿磯は能登
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鹿磯漁港は能登半島地震で4m隆起した


晩年の前田松太郎
のちに前田松太郎は手船を建造し廻船業も兼営しますが、商売の軸足は廻船問屋業にありました。時代が明治になると日本海海運には遠距離を買積航海する百石積み程度の小型廻船が多く見られるようになります。前田の顧客もそのような廻船が多くなっていきます。

晩年の前田松太郎は汽船業にも進出し越佐汽船の社長も務めます。しかし、経営基盤がつねに脆弱な状態が続いていた前田松太郎は、幕末以降に急激に力をもった齋藤喜十郎に越佐汽船を金融取得されてしまいます。齋藤家ももともと廻船業で幕末期に急激な資産蓄積をした商家であり、その姿はまさしく前田にとって若い頃の自分、廻船問屋業に経営の舵をきる前の自分の商売の姿でした。

こんな前田松太郎の人生は、まさしく「北前船と新潟」そのものなのではないかと思います。