日満連絡・日本海汽船

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File.4  日満連絡・新潟北鮮直行船 その2 日本海汽船株式会社の時代


       

政府命令航路の決定

日本海汽船株式会社の誕生
昭和10年3月28日、政府補助金による新潟北鮮航路を経営するため、政府指示により「日本海汽船株式会社」が設立されます。敦賀を拠点に日本海航路を運航していた北日本汽船(大阪商船系)と新潟北鮮航路で実績があった嶋谷汽船が共同で出資してできた会社です。
嶋谷汽船の航路を継承する形で運航開始となりましたので、政府からの年2万円の補助金のほか、新潟県市からも9600円の補助を受けました。この航路は新潟=清津・羅津・雄基を、月に3往復するものでした。

就航船と航路、回数の概要

年度昭和10年度昭和11年度昭和12年度昭和13年度
起点地新潟新潟新潟新潟
寄港地清津・羅津清津清津清津
終点地雄基羅津羅津羅津
使用船鮮海丸(5月まで)
嘉義丸(6月から)
嘉義丸嘉義丸(8月まで)
満州丸(8月から)
満州丸
天草丸(9月まで)
月山丸(9月から)
航海回数年36回年36回年44回年88回

昭和11年1月には新潟港の埠頭に満鮮貨幣の両替所が設置されます。 旅客や貨物の増加とともに就航回数は年々増え、そして新造の優秀船が就航したりと新潟港は大変華々しく活気付きます。
政府は明治末期以来、横浜・神戸・敦賀を重要港湾と認識し、河口港で浅い新潟港は注目されていませんでした。 新潟港は大正時代に築港工事が完成し、その後も官民の努力で港湾施設が整備され、この頃やっと舞台に上がったと言えるかもしれません。

     

新潟経済界の満鮮進出

航路運動だけでなく具体的な経済進出も
新潟は政府命令航路の実現のために官民あげての一大運動を行ったことは前回ご紹介しました。 そして航路運動だけでなく、昭和5年と昭和14年の経済視察団派遣。また満鮮の主要都市での頻繁な県産見本市の開催など、人や物の交流が活発になる試金石も打ってきました。 新潟財界での満鮮への具体的な経済進出をいくつかあげます。
・株式会社愛隣社(本社:第四銀行内)=白勢春三、齋藤喜十郎らが出資し、北鮮で植林事業を行っていた。
・株式会社新潟商会(本社:大連市)=新潟製氷株式会社の対満輸出会社。新潟製氷の清涼飲料水を関東軍や満鉄消費組合に納めていた。
・新潟青果株式会社(本社:新潟市)=県産青果の販路拡大と農村振興のための会社。朝鮮軍や関東軍へ納めていた。
これらの他にも多くの事業家が満州を目指し、関係商社会社の設立が増加したといわれています。
ちなみに現在の北朝鮮のインフラの基礎は、日本がこの頃整備したものが多くあります。水豊ダムを代表に大規模な水力発電施設の数々は有名ですね。

    
当時の船会社や宿のシールが貼られたトランク

国策統制会社としての「日本海汽船」の誕生

複雑な企業統制を経て
昭和12年の盧溝橋事件以降一般情勢はますます混沌。準戦時体制と呼べるようになってきます。 昭和13年8月の閣議で、新潟港を「日満連絡」と「満州開拓民の送出港」として国策港とすること(対岸の羅津港は満鉄が満州奥地への人員貨物輸送の拠点として整備)、更に日本海横断航路を統制会社で経営することが決まります。
こういった企業統制の時流で、昭和14年1月31日、北日本汽船は日本海汽船を買収し事業を継承します。ここで一旦日本海汽船という会社は消滅します。

合併時に各社から出資された船舶
北日本汽船 月山丸4515トン
満州丸3053トン
はるぴん丸5167トン
さいべりあ丸5167トン
気比丸4505トン
北鮮丸2256トン
大連汽船
河南丸3292トン
河北丸3310トン
泰安丸3670トン
煙台丸3461トン
朝鮮郵船
金剛山丸2119トン

難産だった“新”「日本海汽船」
日本海横断航路の国策統制会社の設立は、その後難航します。
逓信省では、北日本汽船に統合されてきた日本海横断航路の流れを尊重、北日本汽船を主体とし大連汽船と朝鮮郵船を吸収させようとしますが、特に大連汽船の抵抗が大きく話し合いが進みません。
大連汽船は満鉄の関連会社で、満鉄の主張は「満州の開発は大連汽船の拡充強化にあり」というものでした。この頃の交通情勢は船車連絡しかり、開拓民に対しての鉄道運賃逓減しかり、満鉄の顔色というものが重くあったのですね。
度重なる交渉で、昭和15年1月30日やっとのことで国策会社が設立されます。
北日本汽船、大連汽船、朝鮮郵船の共同出資(船舶及び現金)で「日本海汽船株式会社」とされました。これは昭和10年から14年までの同名会社とはまったく異なる会社です。
航路は新潟=北鮮、伏木=北鮮、敦賀=北鮮、敦賀=ウラジオストクでした。

昭和15年2月12日、“新”日本海汽船の新潟北鮮航路第1船として天草丸が新潟=羅津に就航。この航路には他に月山丸と満州丸が就航しました。隔日の運航で40時間の船旅でした。 昭和16年9月には新造の最優秀船「白山丸」が加わります。


   
月山丸の絵葉書。左下は新潟港出港の様子。

昭和16年7月8月の時刻表

オリジナルの額に入ったポスター。白山丸就航の頃は世情も戦時色が強く、いわゆる販促物のようなものが他船に比べ少ない。

気比丸の遭難

清津から敦賀へ航行中に浮遊機雷にて沈没
隔日運航で活況を呈する新潟港でしたが、昭和16年11月5日に発生した敦賀=清津航路の気比丸の遭難は大きな影を落としました。 気比丸は清津から敦賀へ航行していましたが、浮遊機雷に触れて沈没。乗客乗員446人のうち156人が遭難しました。
太平洋戦争はまだ開戦していない準戦時体制化で、日本海に浮遊機雷とは?と疑問に思う方も多いかと・・・ これはソ連製のもので、独ソ開戦後、潜水艦対策として沿海州の主要港一帯に敷設されたものが設置技術不備(おそらく)により流出したものでした。 ソ連側ではこの事実から無線により日本海の航行には危険ありと警報は行っていました。
日本政府はソ連に対し、公海の自由航行権を侵害する大事態として厳重抗議を申し入れ、遭難に対してもソ連側の責任を質していますが、 その後まもなくの太平洋戦争開戦の混乱などからソ連側の誠意ある回答はありませんでした。

月山丸と白山丸が敦賀航路へ移る
この事故により花形の月山丸及び白山 丸が敦賀航路へ回航し、新潟北鮮線航路には一時的に河南丸と貨物船煙台丸が配船され、貨物輸送に重点が置かれました。 新潟県の統計資料によると新潟北鮮間の乗降客数は昭和17年度には落ち込むのですが、 昭和18年度には事故前とほぼ変わらない数字に回復し、敗戦まで旅客輸送があったことが分かります。しかし配船状況の資料がなく、何という船が就航していたのかが不明です。 煙台丸は終戦後まもなく新潟港で触雷し沈没したことがわかっていますので、煙台丸はずっと新潟北鮮航路に残っていたと推測されます。

新潟日日新聞 昭和17年2月7日の記事。“復活近し”となっているが、復活したことを示す資料を探し出すことができない。

船舶の徴用 そしてその後

昭和17年3月の戦時海運管理令の施行、同4月の船舶運営会の設立により、日本の船舶はすべて国家徴用か国家使用のものとなりました。日本海汽船から徴用された船も多くが戦没しました。

戦没年月日船名理由戦没場所
昭和17年1月10日はるぴん丸雷撃海南島三亜沖
昭和17年5月4日金剛山丸雷撃志摩半島大王崎沖
昭和18年2月29日泰安丸雷撃南洋群島
昭和18年6月8日河北丸雷撃パラオ島北方
昭和19年6月21日河南丸雷撃北緯3度58分 東経116度35分
昭和19年9月9日満州丸雷撃北緯19度45分 東経120度53分
昭和19年9月24日さいべりや丸空爆南緯4度53分 東経117度40分
昭和20年8月15日月山丸火災釜山港
昭和20年8月22日煙台丸触雷新潟港外突堤灯台
船舶運営会資料より

終戦時に残っていた船舶
月山丸と白山丸は昭和19年8月までは敦賀北鮮航路に就航していたようです。その後両船とも徴用されます。
■月山丸は昭和19年10月22日済州島西方(北緯32度56分 東経125度54分)の地点で触雷。大破するが曳航されて済州島に接岸。その後釜山港へ曳航されて修理に入るが物資不足でそのまま放置されていたところ、8月15日終戦直後に原因不明の火災により全損。
■白山丸は徴用され兵員輸送任務の他、赤十字の人道物資などの運搬にも従事する。その後一旦徴用解除され復帰する(おそらく敦賀港へ)。しかし終戦3日後の8月18日、博多湾において触雷で沈没。 その後引揚げられて修理。昭和22年7月に完成し日本沿岸航路に就航し新潟へやってきます。昭和28年には中国大陸からの抑留者引揚げ輸送に従事。昭和36年に東洋汽船に売却。インドネシア政府にチャーターされて、ジャカルタを拠点にインドネシア各港間に就航。チャーター契約の終了後に日本に戻り、昭和40年解体。
■煙台丸は終戦直後の8月22日に新潟港外突堤灯台付近で触雷により沈没。
■北鮮丸は無事終戦を迎えその後いくつかの船会社を転籍・改名され昭和35年に解体。

昭和22年 修理の後、新潟港へ姿を現した白山丸

新潟日報 昭和22年10月21日の記事


新潟北鮮航路の実績が示すもの

輸送実績は全体の数パーセントでしかなかった
日本と対岸を行き来した人たちの利用港の割合は、おおよそ釜山7割、大連2割、北鮮1割です。新潟北鮮航路のウリは満州国に重きがあったわけですが、結局のところ満州国は“これから”であり“未完の大器”だったわけで、実績としてはまだまだだったのです。満州の夢を追う政策、首都からの近さ、強力な政治運動などにより政府命令航路に指定され新鋭船が配備されるなど新潟港は輝きをみせたのですが、少しでも状況が変化すればその輝きには翳りが見えました。 気比丸を失った敦賀北鮮航路の輸送力確保が、新潟北鮮航路の輸送力よりも重視された結果がそれを示しています。港湾施設が整っている敦賀はやはり使い勝手がよかったのです。
現在の航路誘致運動に似ていないか
現在新潟県は中国北東部との輸送強化を旗印に、当時の新潟北鮮航路とほぼ同じルートの航路開設に力を入れています。とはいっても北朝鮮の港は使えませんから、北朝鮮国境に近いロシアのザルビノ港を利用します。
日本と中国の貿易は、日本側は横浜・神戸。中国北東部からは大連が主要港です。港湾施設が整っていることや消費地に近いこと、出入りする船舶が多いので何かと融通がきくこと、たとえ少しくらい最終目的地や出荷地が遠くても陸送の便がとてもよいこと等々、繁栄には理由があるのです。
・日本と中国の間を貿易するのに、わざわざロシアの通関処理が必要なルートを使いますか。 ・寄港地が多い船を使いますか。 ・月に数回しか航行しない航路を選びますか。少し陸送すれば毎日たくさんの船が行き来している港があるのに。 ・コンテナ処理能力がないロシアの片田舎の港の整備をいったい誰がしますか。ロシアは受益者に負担を求めます。
今の日本海横断航路は、戦前の新潟北鮮航路の実態と根は同じに感じます。歴史を振り返り、他のルートと比較の視点で見てみれば、新潟港活性のための優先順位は、今の県や市の政策とは変わってくると思うのですが。


新潟美人と満州美人

まだまだ心に余裕があった頃、船旅が楽しかった頃・・・
沈没した船の話しと、政策への意見で終わるのも味気ないので・・・ 戦局が悪化する前は、こんな絵葉書もありました。きっと夢のある船出だったのでしょうね。