新潟電話の歴史

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File.5  文明開化のハイカラもの=「電話」が新潟へやってきた

新潟県で最初の電話は佐渡鉱山
電話がアメリカ人のアレキサンダー・グラハム・ベルによって発明されたのは明治9年3月のことです。 翌年の明治10年には日本にも渡来します。
新潟県で最初に電話が使われたのは、明治17年の佐渡相川鉱山の私設電話といわれています。その次は明治19年の直江津・牟礼間の鉄道電話。 新潟市では明治24年に地方裁判所と警察署の間に官用電話が架設。続いて明治26年に新潟越佐汽船会社が本社と難破船救助人夫詰所の間に私設電話を架設。その後次々と海運業者らが私設電話を申請し架設しました。
しかし中小の商工業者には私設で電話を架設する力はなかったので、官営による電話交換局の開設が望まれるようになりました。明治33年には新潟商業会議所から逓信大臣への陳情書が提出されました。

新潟電話交換局の開局
明治34年3月、官報に新潟電話交換局開設の逓信省告示が掲載されます。まずは市役所内に事務所がおかれ3月28日から加入申し込みが始まりました。全国では21番目の交換局でした。
加入申し込みは大混雑で、徹夜組やらヤジウマやらで大変ごったがえしたと当時の新聞は伝えています。この日だけで362件の申し込みがあり、そのうち168件が第一回の加入者となりました。 この第一回目の加入者は新潟の有力者が名を連ねており、当時の商工業の一端がのぞける興味深いリストです。 5月には市役所裏手に交換局が新築され機器の据付が行われました。そしていよいよ7月21日電話交換業務が始まりました。

交換局開局時の概要
加入区域:普通加入区域=新潟市。特別加入区域=中蒲原郡沼垂村、西蒲原郡下坂井輪村、同五十嵐浜村五十嵐浜(小字上新田、同山五十嵐除く)
特別加入区域の加入者は附加使用料が必要で、架設時にも割増金が徴収された。沼垂へは萬代橋にケーブル敷設。
電話線や電話機の費用、工事代などは不要だった。加入登記料=5円。電話使用料=年額48円の定額制。(郵便切手で支払う)(この年額は小僧一人の年給より若干高いと云われた。現在の給与水準で考えれば結構な金額ですよね。)
電話機は壁掛け型が支給されたが、附加料金を払えば卓上電話機も使えた。
交換機=磁石式百人付単式交換機、1台に70加入を収容、3台設置。加入者の電話機はデルビル式電話機。交換手8名。

「デルビル磁石式甲号卓上電話機(後期型)」

磁石による手廻し発電装置(交換手を先ず呼ぶための電気を作る)兼呼出信号発生装置がついているものが磁石式。当時の「電話の使い方」によると、・二三回すばやく廻す・廻しすぎてはいけない・廻しても交換手が出ないときは少し待つ、等々が記載されています。そして通話が終わったときも受話器を置いたら二三回廻すこと、そうしないと交換手が通話終了を確認できません。となっています。また通話中に廻すと通話終了と認識され切断されるとも書いてあります。映画やドラマの電話シーンでも、通話終了の廻しは演技が省略されていると思いません?


「デルビル磁石式乙号卓上電話機」
卓上型とはいっても甲号も乙号も結構重たく、置いたらその場から動かさずに使用したようです。
甲号は現在の受話器のような一体型のものが付いているので便利ですが、乙号は送話器に向って話さなくてはなりません。
モダンでハイカラなデザインですよね。乙号はベルが目玉のようについていてユーモラス。

公衆電話の設置
また、交換局が開設されたこの年は、白山の旧県庁付近で一府十一県聯合共進会が8月から9月にかけて開催されました。これは産業振興見本市のようなもので、文明開化と近代化を広く知らしめるイベントです。
文明の利器「電話」はこの会に間に合わせるように新潟に開設されたのでした。そしてこの会場には新潟初の公衆電話が設置されていました。 硬貨を投入すると音が鳴る仕掛けで、その音を電話を通して交換手が聞くと「よしお金をいれたな」と確認し接続してくれたそうです。
この年は西暦だと1901年、20世紀の始まりの年でした。きっと市民は文明開化のハイカラ物の数々と新世紀到来にウキウキびっくりの毎日だったのではないでしょうか。

電話所と呼出電話
交換局には「西堀通電話所」も設置されました。これは電話をもたない市民のための通話室で、これも一種の公衆電話のようなものです。料金は一回15銭で5分以内。郵便切手で納めました。 他に当時ならではのシステムとして「呼出電話」というサービスもありました。電話を持っていない人と話しをしたい時に、電話所へ申し込むと、その人を呼び出してきて通話をさせてくれるサービスです。 「呼出通話券」という紙を、呼び出される人に配達し、その人はその券を電話所へ持ってきて相手を呼び出してもらい通話するのです。これは新潟市全域(普通加入区域ということ)がサービス対象でした。

明治41年の大火 〜仮庁舎や近代までの交換局の変遷

場所名称
明治34年5月明治41年5月西堀6 市役所裏新潟電話交換局
明治41年5月明治41年9月西堀5新潟郵便局 電話分室数ヶ月で大火被害
明治41年9月大正2年2月西堀5 赤煉瓦造りの倉庫新潟郵便局 電話分室 仮庁舎
大正2年2月大正15年3月柾谷小路 東堀角
現在の新潟中郵便局
新潟郵便局 電信課複式交換機導入
線路設備一部地下化
大正15年3月東堀7 郵便局裏手新潟郵便局 電話課共電式交換機導入
電話課専用庁舎新築
明治から大正にかけて、電話局は大火や設備更新などにより上記のように移転をしています。

新潟郵便電信局 明治41年春に竣工になった電話分室もこの一角に
屋根に時計台があり素敵な洋館だったが大火で焼失
新潟市之図より郵便局 石版、明治34年改版 澤井清次郎刊

明治41年は春の「若狭屋火事」、秋の「菊の湯火事」と二つの大きな火事がありました。秋の火事で電話交換局(新潟郵便局電話分室)は局舎も設備もすべて焼き尽くされてしまいます。数ヶ月前に新築したばかりの局舎でした。この局舎の裏手にあった赤煉瓦の倉庫は焼け残ったので、そこへ新たな交換機を持ち込み、大火の24日後には復旧開通しました。電話交換を除く郵便局の業務は、柾谷小路と本町の角に焼け残った白壁土蔵造りの4階建ての洋館を仮局舎として復旧しました。
郵便局仮局舎(柾谷小路と本町の角)
絵葉書 新潟市街 小出倉庫 明治43年10月実逓

この絵葉書(明治43年実逓)は「新潟郵便仮本局」となっているが、資料を調べると「新潟逓信管理局庁舎(西堀5)」のようだ

明治43年4月に全国13都市に逓信管理局が新設されました。それまでは各地の一等郵便局が逓信に関する現業と管理を担っていましたが、この時に管理事務が逓信管理局の仕事になりました。この裏が“赤煉瓦倉庫”で、たくさんの電話線が引き込まれているのが見て取れます。そして西堀沿いには等間隔で新たな樹木が植えられているのも見えます。まだひょろひょろとした頼りない状態ですが、大火からの復興を象徴するようです。
新潟の電話七十年のあゆみより 当時の様子
新潟逓信管理局 木造二階建(洋風建)となっているのが絵葉書の建物です

東京とつながる
明治41年12月、電話が東京とつながるようになりました。三国山脈は険しく伝送路を架設できなかったので長野経由のルートでした。当時の技術では距離が長くなった際の伝送ロスが大きく、長距離通話には長距離用の電話機を使いました。逓信省が「長距離通話区間」と指定した区間を通話しようとする加入者は、別回線を引き「ソリッドバック式電話機」という専用の電話機を設置しました。もちろん附加使用料がかかりました。

「ソリッドバック式電話機 壁掛型」
壁掛型と卓上型があった。こういった長距離用電話は通信社や銀行、大きな商店などで使われた。

郵便開設50年記念絵葉書より(明治4年開設大正10年4月まで満50年)
記念印には万国郵便連合加盟50年記念昭和2年仁川とあり、
図柄は最初の加入者名簿と最初の電話交換局と加入者に使われたガワーベル電話機
ガワーベル電話機は電話黎明期に使われたもので新潟の一般加入者の時代にはデルビル式に役を譲っていた

 

大正から昭和へ

沼垂の合併
大正3年4月、新潟市は沼垂町と合併します。新潟と沼垂は昔々からことあるごとに対立してきていたことは皆さんもご存知のことと思います。 電話に関しても沼垂は「特別加入区域」ということで差をつけられてきていたのですが、この時普通加入区域となりました。 沼垂の合併は単に新潟市が広くなったということだけでなく、その後の新潟港の築港のための大きな礎でした。

共電式交換機の設置
加入者の増加にともない、大正15年に新潟交換局の交換機が「共電式」に入れ替わります。これで、加入者の電話機へは常時通電がされることになり、受話器を上げれば交換局につながるようになったわけです。
そう!グルグル回して発電しなくてもよくなったのです。加入者の電話は、共電式の電話機が間に合わず当面は旧来のままだったようですが、まもなくすべてが入れ替えられました。 グルグル廻す電話機は、発電装置と蓄電池を備えていたので、係員が加入者宅を訪問しての定期メンテナンスが必要でした。この共電式の導入でそういった点でも便利になったといえるでしょう。
また、県内の他の交換局でもその後、随時改式が行われました。そして全国最後の共電改式は糸魚川局で昭和32年12月のことでした。

「2号自動式壁掛型電話機」

大正15年に東京の京橋局と本所局でダイヤルによる自動交換が始まりました。これはその時から使われた電話機で今でも現役で使用可能です。しかし今の電話と比べると感度が悪く、やはり聞きづらい。当時はわざわざ電話室を設けた家も多かったようです。後述しますが新潟では自動交換が戦後になりますので、このようなダイヤル付の壁掛電話は使われませんでした。

昭和初期の新潟郵便局電話課 交換室
左側に見える台が共電式交換機
郵便・電信・電話は明治36年から昭和19年まで「新潟郵便局」が統合機関として実務を担っていた。

こちらは昭和8年に型式認定された「3号自動式卓上型電話機」
新潟ではダイヤル装置がなく、その部分に蓋がついていた「3号共電式卓上電話機」が使用されていました。
黒電話の元祖です。おしゃれな形だと思いません?

火事にまつわるエピソード
前述の通り新潟は大火が多くありました。私たちも市史の話題で話をしていて「大火のときに・・・」と話しを振られると、一瞬「いつの大火のこと???」と戸惑うこともあるくらい。 「何年の大火」なんて言われても・・・「その年は火事が多かったし春かな秋かな」なんて思ったり。 電話の架設柱はもちろん木でしたので電話工事の方たちは大火などの災害のたびに復旧工事に忙殺されたそうです。
これは昭和初期の話。火事の鐘が鳴ると交換局へ「火事はどこだ?」という電話が殺到(電話って誰か相手に通話目的で掛けるものと思ってましたが、こういった使い方もアリだったんですね)。 とはいえ、これは交換手の本来の業務ではなく色々と支障がある。そこで火事が起きると交換局の係員一人がひたすら 「火事は何処そこです。火事は何処そこです。火事は何処そこです・・・。」と喋り続け、問合せの電話はすべてそこへ繋いだそうです。相手から何か聞かれてもひたすら同じことを繰り返したそうです。テープなどなかった時代の話。

電話の供出
戦時中は電話にも供出運動が起きました。よく鉄の供出などと聞きますが、電話は素材としてではなく電話そのものが必要だったそうです。資材不足で電話機が作れない、でも軍需工場や関係先に電話が必要。 ならば既設のものを撤去して転用しようとのことで、スローガンは「電話は兵器」。しかし電話機が作れないほどの資材不足や労働力不足なら、電話線の架設もできなかたのではないかと思いますが。 料理屋や芸者置屋のものが不要不急のものとしてまず槍玉にあがったとのことです。

昭和初期の電話の使用案内

戦後 いよいよ電話が自動で相手につながるように

自動交換の開始
今のように電話番号を廻す(廻すも廃れて・・・押す?)と相手に繋がるようになったのはいつ頃かというと、新潟交換局では昭和27年3月のことでした。これを「自動改式」といいます。
これに伴い加入者の電話はすべてダイヤル式のものに変更となり、そして電話番号が皆変わりました。電話番号は4桁になり、2000番台から使用することになりました。 これは他の地域でも同じことで、下4桁が2000番台で若い番ほど電話加入が早かった人といえます。地方へ行くと役場は2001番、郵便局が2002番、駐在さんが2003番なんて所が多くありますね。 電話番号が変更になるのは今の世でも面倒だし、特に商店などは困ったことだったと思います。「新潟の電話七十年のあゆみ」には電話番号370番だった寿司屋さん(港すし)が、番号変更をかなり嫌がったというエピソードが載っています。 港すしさんは、今では3710番になり屋号と揃っています。港すしホームページ
そしてこの時から電話料金が度数制になりました。

「4号自動式卓上型電話機」
新潟が自動改式した際に、加入者へ設置された当時最新鋭の電話機(カールコードを最近修理)
技術が向上し明瞭になった。
後姿が可愛らしい
4号機にはカラーバリエーションがある。これは「うすねず」

地方での自動改式はそれから十数年かかります。びっくりするかもしれませんが、日本全国で自動改式が完了したのは昭和54年、ダイヤル即時通話が全国で可能になったのは昭和58年のことです。 昭和30年代でも特に農村部などは電話の普及が遅く、それを解消する仕組みとして1回線を複数加入で共用する「農集電話」というものを憶えている方もいると思います。 各家庭に電話機はあるのだけれど地域の誰かが使っていると電話が使えない、しかも他の人が話している内容が聞こえてしまう。 という今から考えると不便このうえない仕組みでしたが「家に電話がついた!」と嬉しくて仕方がなかったそうです。現在の新潟市域では西区の山田地区や中野小屋地区、江南区の大江山地区や丸潟地区に農集電話がありました。


1990年に発行された記念切手
描かれている電話機はデルビル式

通信手段の進歩は目覚しいです。最近新潟バイパスを走っていて思うことですが、女池の電話局の鉄塔のアンテナの数が減ってスッキリしたように思います。伝送手段が変わってきていて役目を終えているということでしょうか。

参考:新潟市史
信越の電信電話史
新潟の電話七十年のあゆみ