政策やビジョンに・・・新潟の文化を語るキーワードの一つ「北前船」
■交易により多様な文化が新潟へもたらされた
北前船とは、蝦夷地(北海道)と大阪の間を商いをしながら往来し、各寄港地で積み荷を売り買いした買積廻船という“動くデパート”でした。
北前船は最大の寄港地であった新潟に様々な物産や情報とともに、多様な文化をもたらしました。
それらは、衣食住全般に及び各地の文化と交流し、さらに新しい文化へと発展させてきました。現在の新潟の多様な衣食住の文化はまさに北前船の遺産と呼べるものです。
■新潟市には他の開港地と比較しても古い歴史がある
新潟は、江戸後期に天領となり幕末の開港地へと変貌をとげていきます。
湊新潟は、現在の日本文化のルーツといえる江戸時代から栄え、さらに開港地として日本の近代化に貢献し、古くて新しい江戸から今に繋がる歴史文化を検証できる稀有な立地でもあります。
開港地、横浜は政令都市の先輩とはいえ、歴史的には明治以降の新興都市の一つです。
しかし、新潟はそれより200年も前から北前船に育まれてきた歴史があります。
■海の道で大陸へ。河の道、信濃川・阿賀野川を経て、また北国街道を経て、隣県にまで大きな影響力を持っていた新潟
新潟県は長い海岸線を持ち、北前船の多くの寄港地があります。大きく有名なところでは、新潟、小木、直江津などがあげられますが、
この他にも、時代や季節、積荷などによりいろいろな港が北前船交易で成り立っていました。
各地の港近くの神社に残る船絵馬は、現存している収蔵数では新潟県が群を抜いています。わかりやすい遺産として歴史的建造物や神社なども多くあります。
しかし、この交易による文化伝播は海岸線の各地域や新潟市だけに限ったものではありません。
そこには河の道である舟運や各地に伸びる街道の存在があります。
■新潟が他の地方、広域に影響をあたえたもの、新潟にもたらされ影響をうけたもの
新潟文化物語から引用
・・・新潟県の主な港は、北から岩船、新潟、出雲崎、柏崎、今町(現在の上越市)。佐渡は小木。
そのうち最も取り扱いが多かったのは新潟湊(にいがたみなと)です。
信濃川、阿賀野川の舟運と直結していることにより、魚沼、長岡、越後平野全域と会津藩、米沢藩も新潟湊を利用していたからです。
積み荷はほとんどが米でした。諸藩は徴収した年貢米の一部を売って現金化するのに、大坂などできるだけ高い値段で売れる土地で米を売りさばこうとします。
米は白山、沼垂、関屋などに建てられた各藩の蔵に保管され、販売は藩が直接行うのではなく「蔵宿(くらやど)」と呼ばれる商人に委託されていました。
米の輸送で新潟湊が栄えた元禄時代には、諸藩の蔵が新潟町内に69棟あり、港から出された年貢米が34万4000俵(元禄10年)でした。
年貢米とは別に、農村から商人が集めた米が、諸藩の年貢米の総数よりも多い36万5000俵(同年)。合計すると1年間で80万俵の米が新潟から船で運ばれました。
当時新潟湊に入ってきた船は40か国から年間3500艘あまり。年間といっても冬場は海が荒れ、どの船も港に入って春を待ちますから、一日平均で150艘近くが入ってきていたことになります。
米の他に新潟から出て行ったものは、農村で作られる雑穀、大豆類。
新潟湊は江戸時代を通して主に米を積み出してきましたが、佐渡の小木はなまこなどの海産物(中国への輸出品として長崎へ)のほか、
稲作ができないため藁のない北海道向けの藁製品や竹などを出していました。
諸国の産物も新潟に入ってきました。西からは木綿や塩。木綿は当時西日本で盛んに栽培され、江戸時代に一気に広まったものです。
そして塩は、今でも「赤穂(あこう)の塩」が有名ですが、これが北前船で全国に安く流通するようになり、各地にあった塩田が大きな打撃を受けたといわれています。
越後国内では各地に塩田があり、塩は豊富に採れましたが、新潟湊に入った塩の多くは米沢や会津に運ばれました。
また、三条の金物の原料には出雲からの鉄が使われています。東北、北海道からは紅や材木が入ってきました。
越後国内に陸揚げされた量を別とすると、日本海を航行した船が積んでいた荷物は、米、鰊(にしん)、昆布が主なものでした。
松前藩の開発が進むと、盛んな鰊漁によって、主に西国に運ばれます。西国では木綿栽培などの肥料として鰊を使っていました。
昆布も北海道の産物で、これは中国への輸出品として長崎に集まります。
・・・引用元サイト・・・新潟文化物語
■それだけ・・・ですか
こういったメジャーな物資は、廻船問屋や諸藩の交易の記録から明らかになっています。
が、もう少し運搬物や交易物を掘り下げてみることも必要だと思います。
例えば民謡・芸能・音楽など。新潟各地に残っている郷土芸能は他地域(特に西国)の影響を受けているものが多くあります。
海から川を遡った小千谷では夏祭りにからくり万灯が登場します。こういった山車からくりは西国から伝播し小千谷が北限ともいわれています。
例えば酒の容器。酒は新潟の産物として有名ですが、その後ろには酒を詰める陶器を焼いていた窯業があります。新潟の窯元の陶片は今、北海道で多く見つかっています。
帳簿には載らない品物たちですが、生活に深く根を下ろしているもの。
こうやって見渡して見ると、新潟県内広域、自分たちの足元にあるいろいろなもののルーツが、往時の海運(北前船)・舟運・街道によってもたらされたものだということに気付きます。
多様な文化の影響を受けながら育った土地だということがわかります。
■温故知新は普遍の考え方だ
京都や金沢の人にたずねると、多くのお国自慢の答えがかえってきます。
三国や庄内は、新潟と比較しても少ない北前船遺産を上手に資源として生かし、観光や街づくりに奮闘されていてその結果が明らかに出ています。
新潟はどうでしょうか。他県の方に新潟のイメージを聞いてみても、返答が漠然としたイメージでしか返ってこないことが多いですね。
でもその悲しい答えは、我々の姿勢の対なのです。
・古くから数多くの災害があり、古い建物などがあまり残っていないこと。・恵まれた自然の恩恵をうけ様々な意味で豊かだったので、客観的に自分たちの足元を見つめることが少なかったこと。
・比較文化の視点が根付いていなかったこと。
いろいろ要因は考えられると思いますが、現状はやはり残念です。
■あらゆるものは連続している
積み重ねてきた郷土の歴史、地元の生い立ちと文化を知ることは今後の新潟の人々や子供たちにとって、大切な財産に必ずなります。
そしてその歴史と文化は、地域という水平軸、時間という垂直軸で多次元に繋がっているということ。
近世のその繋がりは、海運(北前船)・舟運・街道がキーワードだということ
政策であったり街づくりであったり、これからのビジョンには「温故知新」の考え方を積極的に取り入れるべきであると思います。
■我々の活動と具体的提言
当新潟ハイカラ文庫では、個人収蔵品を中心に「海運(北前船)・舟運・街道による繋がり」「温故知新」を考え方のベースとした展示や研究を行っています。ご賛同、ご協力いただける皆さんも増えてきておりますが、一市民団体だけの力では、どうしても限りがあります。小さく、ゆっくりとしたペースであることは、めまぐるしい経済活動が行われている物質主義の現代では、か弱いものです。
そこで、特に観光政策に携わる官公庁や議員の方、施策に携わる各種団体の方へ、当グループからの提言です。
■新潟のイメージが「米と酒」オンリーではもったいない。
地域に対しての普遍的な価値観。地元への誇りと郷土愛。一過性ではない賑わいのためにもっともっと掘り下げて考えよう。
■食べ物以外の「郷土の質の高い文化」をもっと積極的に政策に生かしてほしい。ともに考えてほしい。
1980年代後半から、我々は地域活性化の一つの手法として「食」を主眼にしてきました。産物も料理も季節もすべて括ることができ、老若男女すべてに受け入れられやすく、携わる人々に即効的な収益を出すことができました。しかしその間、新潟では、風景や印象をガラリと変えてしまうようなマンションが節操なく建ち、郊外型大型店舗の利便性がもてはやされ旧市街地にシャッターや空地が目立つようになりました。
■学校教育や生涯学習の中に、郷土の歴史や文化について知的好奇心を刺激する工夫がもっと必要。
「文化でメシは喰えない」という例えがあります。我々が地域の特徴や賑わいを考えたときに「食」に頼ったことは間違いではありません。受ける側にわかりやすく収益事業として成立しやすかったことで勢いをつけることができました。苦労は数々ありますが単体事業としてみて「食文化の発信」はメシの喰える活動です。
しかし、今、我々を含めた様々な地域コミュニティやサークルが取り組んでいる「自分たちの足元を考える=温故知新で」といった活動は、即物的ではないため盛り上がりや勢いが弱く、活動そのもので分かり易い収益が得られるものではありません。そのため、携わる人々の意識や危機感が原動力であり、活動原資は寄付やボランティアによる「つぎ込み」が頼りの“もろい”ものです。新潟のこれからを考え、こういった活動を継続し価値観を共有していくためには、世代を越えて住民一人ひとりが意識を高めていくことが何より大切です。
■観光政策は、一過性のブームや限られた地域だけを引き上げたものでは大変残念だ。
・・・新潟県は「海運(北前船)・舟運・街道」で連続・連携しているのだから。
様々な北前船文化の顕彰が動き出した2011年夏に・・・
新潟ハイカラ文庫