新潟湊 北前船と廻船問屋

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「北前船最大の寄港地=新潟湊」について

皆さんのイメージは
「北前船」・・・この言葉の響きに何かを感じる人は多くいると思います。 日本各地で北前船に絡めた地域おこしが盛んに行われていることからもそれは云えます。 皆さんが北前船について持つイメージはどのようなものでしょうか。
■大きな和船 ■江戸時代から明治時代 ■日本海航路 だいたいこのような共通イメージがあると思いますが、今回は「北前船最大の寄港地」と呼ばれた新潟湊の廻船と廻船問屋について少し考えてみたいと思います。


復元北前船「みちのく丸」
2011年8月 新潟港沖での展帆航行の様子

近世から近代の日本海海運の概略

江戸時代初期までの東西分割の時代
現在でもこれは変わらないことですが、上方地域の日本海側の玄関は敦賀や小浜です。敦賀や小浜は、陸路・琵琶湖・淀川を経て京都や大阪へつながっています。 中世から江戸時代初期にかけて、支配や権力は変わろうとも、地方から大都市への物資輸送の流れに大きな変化はありませんでした。 日本海側の海運は、上方の玄関=敦賀・小浜へ、東側からも西側からも船が集約する形になっており、北陸の船が敦賀・小浜を越えて山陰へ行くことは少なく、その逆も少なかったと言われています。

西廻り航路確立の時代
1600年代の半ば頃、寛永から正保の時代にかけて、加賀藩が廻米の大阪直送を成功させます。 これは敦賀での陸揚げ、積み替えを嫌い(経費、手間、破損、各地通行上の面倒などが理由と考えられる)、山陰、下関から瀬戸内海を経由し直接船を上方へ乗り付けるものです。 長距離航走となるこの方法にも数々のリスクはありましたが、結果的にはこの方法が有利と判断され、加賀藩だけでなく諸藩がこれに倣うようになります。 各藩の廻米などの記録を参考にすると、これらの輸送に携わったのは上方船が中心でした。
これらの動きが契機となり、河村瑞賢の「西廻り航路開拓」となるわけです。 とはいえ、日本海側から瀬戸内を経て上方への流れは、それ以前からあったわけで、河村瑞賢の事業は「開拓」ではなく「整備・確立」と呼ぶのがよさそうです。 また、河村瑞賢が西廻り航路における年貢米輸送の船として指定したのは瀬戸内海の船でした。これは、この地方の船が技術的に優れていると考えられていたからでした。
この頃から、敦賀・小浜によって東西に分割されていた日本海側海運の傾向が消え、瀬戸内や上方の船が長距離航海をして敦賀・小浜以東(以北)の北陸や東北へやってくるようになります。 これは「今迄とは異なる遠くから船がやってきた」というだけでなく、船によって「今迄とは異なる物資や文化や情報もやってきた」という側面も忘れてはなりません。

新潟湊にみる「北国船」と「西国船」
1700年代の半ば頃、享保の頃の新潟湊の記録では、入港した船を「北国船」と「西国船」というように分類しています。 「北国船」は北陸以東(以北)の船、「西国船」は山陰や瀬戸内、上方の船を指したと考えられています。「北国船」は200〜300石積みが多く、「西国船」は500〜1000石積みが見られます。 ここからも、大規模で遠距離を航海する船は、瀬戸内や上方の船であった様子が窺い知れます。

関西人が北陸から来た船を「北前船」と呼んだ
では「北前船」とは何なのでしょうか。「北前」は瀬戸内や上方の人たちが北陸方面を指して言った地域名称です。 1700年代後期になると、今迄の傾向とは異なり、北陸地方の船が瀬戸内や上方へ入るようになります。 それを「北前船」と称したと言われており、「北前船」は新潟や北陸で使われていた言葉ではなかったのですね。

「廻米」から「蝦夷産物」へ
日本海側で古くから活躍しながらも、上方への長距離航海としては後発と考えられる北陸地方の船が、積極的に関わったものが「蝦夷地産物」の輸送と「買い積み」だと言われています。 傭船として「廻米」輸送に携わるのではなく、積荷を買い取って、遠隔地へ運んで、そこで売り捌くという「買い積み」形態に力を注ぎ、 その形態に当て嵌まった(遠隔地間で価格差が大きかった)積荷が「蝦夷地産物」であったということです。 蝦夷地から上方に至る活動範囲と「買い積み」形態は、その後、北陸地方の船だけでなく、瀬戸内・上方、越佐・東北などの船も行うようになります。

日本海海運の中継地としての新潟湊
新潟は「北前船最大の寄港地」と呼ばれていますが、新潟湊の入港数が一番多かったのは1600年代後半の元禄の頃と言われています。 「北前船が活躍する前の時代が、新潟湊のピークではないか」と考え、「北前船最大の寄港地」説に矛盾を感じる方も多いと思います。
しかし、新潟湊にはもう一つのピークがあります。それは江戸時代後期から幕末の頃です。 元禄の頃は日本海海運「廻米輸送の時代」で、江戸後期から幕末は「蝦夷地交易と買い積みの時代」といえます。 新潟湊の後半のピークを称して「北前船最大の寄港地=新潟」と呼ぶのです。
また、積荷や航路から考え、前者は「西を向いていた時代」で、後者は「東西南北の真ん中の時代」ともいえます。 二つのピークを比較して、入港数では前者が上回るが、後者は船も大型化している時代なので、取扱量では後者が多いのではないかと推測する人も居ます。
米が中心の時代から、様々な商品流通が活発化する時代へと変遷する「江戸時代における市場経済化の動き」の中で、新潟湊も特徴が変化しているということです。 江戸時代の市場経済化の動きでは、地域産品の広域流通も重要ですが、経済の中心であった米の流通形態の変化も大きな要素です。 農村の技術向上や新田開拓により、年貢米だけでなく「売る・流通させる米」が多くなるようになり、新潟湊では廻船問屋、蔵宿や在宿が一層活気付き、地方では地主が更に力をつけます。 こういった流通米の向った先の多くは蝦夷地です。
また二つ目のピークには「抜け荷事件」や「新潟上知」も関わってきます。


北前船の定義には諸説がある

過去の研究者たちは様々な定義付けをしてきました。■船主の本拠地 ■航路 ■積荷 ■輸送形態 ■時代 ■船の構造 などなどを分析し「船主が北陸地方で、買い積み形態で、日本海を航行している。これが北前船!」という人も居れば 「船主は北陸だけでなく山陰もある」という人も居れば、「西廻り航路が北前船だ」という人も居ればで、大混乱です。 歴史、すなわち過去の出来事は「一つ」であり、それを「幾人もの」研究者たちが様々な角度で分析、論述展開し成果とするのですから、 それぞれの学者さんが「異なった定義付け」をしたがるのは仕方が無いことでしょう。
あまり深追いしすぎても「論の迷宮」に迷い込んでしまいますので、 当新潟ハイカラ文庫では「江戸時代から明治時代にかけて日本海を往来していた日本の船全般」ということにしたいと思います。
前述の通りそもそも「北前」は大坂や瀬戸内地方において、北陸などの日本海側を称した言葉であり、現在「北前船の湊」といっている酒田や加賀や三国で使われていた言葉ではありません。


(余談) 知り合いに関西地方出身で苗字が「北前」さんという方がいます。
「何だかカッコイイですね」と言ったら「子供の頃は“こっちへ来たまえ”とからかわれてイヤだったんですよ」と笑っていられました。


江戸後期の佐渡の絵図。湊や地形について注記がある。

新潟湊の廻船問屋と廻船主を考える

川村文書に見る廻船問屋と廻船主
前述しました二つ目のピーク。江戸後期から幕末にかけての新潟湊の廻船問屋について考えてみます。参考にするのは天保年間の川村文書です。
まず廻船問屋とはどのような商売だったかをご紹介したいと思います。
新潟町では株仲間により廻船問屋の大問屋は48軒に制限されていました。 廻船問屋には大問屋と小問屋の区別があり、大問屋は広範囲の廻船を取扱い、小問屋は庄内加茂から上越市付近までの近距離の廻船を取扱うことになっていました。 廻船問屋は単に「問屋」と呼ばれることもあれば「廻船宿」とよばれることもありました。 川村文書の中でも同一人物を「問屋渡世」と書いている場合もあれば「廻船宿」と書いている場合もあり色々です。
廻船問屋の仕事は、やってくる廻船の荷物売買の仲立ちをして口銭を得たり、荷物を保管する手数料を得たり、また自身でそれを売り捌いたりすることです。 廻船の船頭を宿泊させて便宜を図るのも仕事ですので廻船宿と呼ばれることもあるわけです。
遠隔地からやってくる廻船を迎え入れて、その荷物を商う(委託販売・委託買付ということ)のが廻船問屋という商売です。 廻船の船頭と廻船問屋の間には「馴染み・得意先」の関係があり、船頭は入港の度に宿を変えることはありません。もしそれが発生すれば廻船問屋にとっての客の奪い合いですから尋常ではありません。
(余談) 客船帳から考える商品流通
廻船問屋では客船帳や御客帳といった入港と商売の記録を残しており、当サイトでも度々紹介する出雲崎尼瀬の熊木屋の客船帳は有名です。 この客船帳は多くの皆さんが研究・引用しており、出雲崎を中心とした商品流通の一端が覗けますが、この資料を持って出雲崎尼瀬の傾向を判断することはできません。 それは、廻船問屋には「馴染み・得意先」があるので、商う品物の特徴も廻船問屋によって異なった傾向があるのではないかと考えられるからです。

川村文書 北越秘説より廻船問屋リスト
天保年間の新潟の廻船問屋(大問屋)の一覧です。番号は当方でふったもので川村文書にはありません。26番以降は休眠株となっています。

1 塩屋 弥之助 17 若狭屋 市平 26 笹屋 兵左衛門
2 塩屋 弥三郎 18 高山屋 得八 27 河内屋 弥助
3 三国屋 茂兵衛 19 小川屋 皆五郎 28 高田屋 与十郎
4 津軽屋 次郎左衛門 20 敦賀屋 吉左衛門 29 小原屋 収蔵
5 近江屋 利右衛門 21 田中屋 吉左衛門 30 大坂屋 久平
6 櫛屋 勘兵衛 22 市嶋屋 喜平 31 玉木屋 彦兵衛
7 田巻屋 定右衛門 23 北国屋 藤右衛門 32 長濱屋 市蔵
8 笹屋 伊八郎 24 北国屋 藤次郎 33 藤野屋 新左衛門
9 北村屋 又左衛門 25 石崎屋 喜兵衛 34 櫛屋 庄左衛門
10 当銀屋 善平 35 平野屋 吉兵衛
11 大月屋 利平太 36 塩屋 久兵衛
12 間瀬屋 佐右衛門 37 津軽屋 与兵衛
13 小松屋 八右衛門 38 山崎屋 利左衛門
14 大西屋 甚助 39 三国屋 金四郎
15 小川屋 長右衛門 40 小原屋 善兵衛
16 會津屋 佐兵衛 41 信濃屋 與兵衛

廻船有高帳にみる「新潟湊が本拠地の廻船」
こちらは同じく川村文書の「新潟廻船有高帳」です。郷土資料館調査年報では「新潟の廻船問屋が持っていた廻船リスト」という形で紹介されていますが、それは少し違うようです。また、住所を“大川前”“願随寺”などといった括り方で整理し、「廻船問屋の所在地」といった考察もありますが、それも違います。
まず、廻船主=廻船問屋ではないということです。そして新潟の街はカミからシモにかけて連なっており、同じ大川前でも場所によって街の性格が異なるということです。

石数 人数 反帆 所有者住所 (現在の住所表記) 所有者 沖船頭
180 3 13 片原通鍛冶町 東堀通10番町 浅次郎
100 3 9 大川前通下一之町 上大川前通1-4番町 市左衛門
40 2 4 片原通四之町 東堀通7番町 市郎右衛門 仁三郎
30 2 5 片原通中浜町 東堀通11番町 岩蔵 春吉
50 2 6 片原通下浜町 東堀通12番町 金四郎店 幸蔵
50 2 5 本町通横町 本町通12番町 金四郎店 庄蔵 庄助
100 3 11 大川前通四之町 上大川前通7番町 喜作 五郎作
80 3 8 大川前通横町 上大川前通12番町 喜八
30 2 5 片原通下浜町 東堀通12番町 喜兵衛
60 3 7 片原通上壱之町 東堀前通1-4番町 久三郎
70 2 7 本町通湊町 本町通13番町 久太郎
100 3 13 大川前通湊町 上大川前通12番町より下 久平
70 3 8 本町通湊町 本町通13番町 倉次郎 松右衛門
100 2 9 洲崎町 東堀通13番町 駒蔵
70 2 6 願随寺門前町 寄合町・元祝町付近 権七
60 2 7 片原通弐之町 東堀通5番町 権次郎
50 2 5 片原通下浜町 東堀通12番町 権助 瀬蔵
100 3 11 勝照寺門前町 夕栄町付近 権兵衛 権次郎
50 2 6 片原通下浜町 東堀通12番町 作左衛門
170 4 13 大川前通六之町 上大川前通9番町 佐兵衛 文蔵
90 3 9 願随寺門前町 寄合町・元祝町付近 三十郎
200 5 15 大川前通横町 上大川前通12番町 次助 久蔵
90 3 9 大川前通横町 上大川前通12番町 次助 市次郎
30 2 5 片原通五之町 東堀通8番町 七助
70 2 6 片原通弐之町 東堀通5番町 七郎左衛門 勘助
180 4 13 本町通四之町 東堀通7番町 十兵衛 藤右衛門
180 4 13 本町通四之町 東堀通7番町 十兵衛 勇助
150 3 12 本町通四之町 東堀通7番町 十兵衛 瀬八
150 3 12 本町通四之町 東堀通7番町 十兵衛 六助
150 3 10 片原通三之町 東堀通6番町 庄吉 斧五郎
100 2 9 片原通三之町 東堀通6番町 庄吉 斧松
100 3 9 片原通三之町 東堀通6番町 庄吉 銀蔵
100 3 9 中洲崎町 本町通14番町 甚之助
50 2 6 洲崎町 東堀通13番町 勢八
90 3 9 願随寺門前町 寄合町・元祝町付近 善三郎 徳五郎
90 3 10 本町通横町 本町通12番町 仙蔵 八郎右衛門
100 3 9 願随寺門前町 寄合町・元祝町付近 善太郎 権七
100 3 10 願随寺門前町 寄合町・元祝町付近 善右衛門 権兵衛
50 2 5 願随寺門前町 寄合町・元祝町付近 善右衛門 倉蔵
70 3 8 勝照寺門前町 夕栄町付近 辰蔵
450 7 19 本町通横町 本町通12番町 長蔵 瀬助
180 4 13 大川前通六之町 上大川前通9番町 長八 万蔵
85 3 9 元毘沙門寄付地 寄附町 藤五郎店 瀬七
70 2 7 本町通十四軒町 本町通11番町 藤助 八左衛門
90 3 9 中洲崎町 本町通14番町 十九郎
200 4 14 片原通下浜町 東堀通12番町 留蔵 五平
80 3 9 片原通上壱之町 東堀前通1-4番町 仁左衛門
100 3 11 大川前通十四軒町 上大川前通11番町 藤右衛門
250 4 15 毘沙門嶋 北・南毘沙門町 文七 作右衛門
30 2 5 大川前通五之町 上大川前通8番町 孫三郎 辰三郎
300 6 16 大川前通十七軒町 上大川前通10番町 皆五郎 与三右衛門
150 3 13 願随寺門前町 寄合町・元祝町付近 弥五左衛門 権蔵
100 3 10 願随寺門前町 寄合町・元祝町付近 弥五左衛門 万七
100 3 10 願随寺門前町 寄合町・元祝町付近 弥五左衛門 栄蔵
80 3 8 願随寺門前町 寄合町・元祝町付近 弥五左衛門 栄蔵
80 3 8 願随寺門前町 寄合町・元祝町付近 弥五左衛門 利七
100 3 10 願随寺門前町 寄合町・元祝町付近 弥五左衛門 萬蔵
70 2 7 願随寺門前町 寄合町・元祝町付近 弥五左衛門 助太郎
200 5 14 大川前通三之町 上大川前通6番町 弥三郎 三太郎
80 3 8 古町通鍛冶町 古町通10番町 弥七 権太郎
80 3 8 大川前通湊町 上大川前通12番町より下 休平 休蔵
180 4 13 願随寺門前町 寄合町・元祝町付近 弥左衛門 甚左衛門
80 3 9 古町通洲崎町 古町通13番町 由兵衛
700 10 22 大川前通横町 上大川前通12番町 喜兵衛 徳右衛門
500 8 20 大川前通横町 上大川前通12番町 喜兵衛 徳八
700 10 22 大川前通横町 上大川前通12番町 喜兵衛 太兵衛
500 8 20 大川前通横町 上大川前通12番町 喜兵衛 卯之吉
700 11 23 大川前通横町 上大川前通12番町 喜兵衛 仁左衛門
650 10 22 大川前通横町 上大川前通12番町 喜兵衛 勘次郎
300 6 16 大川前通横町 上大川前通12番町 喜兵衛 与乃吉
150 4 13 大川前通横町 上大川前通12番町 喜兵衛 津右衛門
200 4 15 大川前通弐之町 上大川前通5番町 嘉左衛門 寅吉
150 3 12 大川前通弐之町 上大川前通5番町 嘉左衛門 伝十郎
30 2 5 元毘沙門町寄付地 寄附町 与太郎
30 2 4 中洲崎町 本町通14番町 与兵衛
100 3 9 大川前通四之町 上大川前通7番町 利右衛門 栄太郎
50 2 6 勝照寺門前町 夕栄町付近 六助 仁三郎

前掲の廻船問屋リストと比較してご覧ください。
名前と所在地に注目したいと思います。廻船問屋リストでは所在地が記載されていませんが、当時はほとんどの問屋が大川前通か本町通にあり、 有力な廻船問屋は大川前通三之町から四之町(現在の上大川前通6番町から7番町付近)に集中していました。
廻船所有者は、大川前通でもシモの方が多く、願随寺や洲崎、毘沙門などが見られます。これらは船繋り場の近くです。
名前と屋号、業種を一致させていくのは難しい作業ですが、例を少し挙げますと、
■ 300石積の船を所有している大川前通十七軒町の皆五郎は小川屋という廻船問屋です。
■ 500石積以上の大型船を多数所有している喜兵衛は、小松屋の屋号で廻船主でしたが廻船問屋ではありません。
■ 大川前通下一之町は材木町で、市左衛門は苅部屋の屋号を持つ材木商で廻船問屋ではありません。
よく混同されがちなのですが、廻船問屋は船を持っているわけではなく、船を持っている人は廻船業だけではないのですね。

廻船問屋
→廻船を迎え入れて商売をする
→自身で船を所有して、廻船主としての商売をしている場合もある

廻船主
→廻船を所有し動かしている
→積荷は他人の荷物を積む場合と自分の荷物の場合がある
→他人の荷物を請け負う「廻船業(回漕業)」=現在のトラックの緑ナンバー(営業ナンバー)
→自分の荷物を運ぶ「自分積み廻船」=現在のトラックの白ナンバー( 例:パン工場がパンの配達のために持っているトラックなど)
→他人積みには「買い積み(前掲)」と「運賃積み(現在の運送業と同じ)」の形態がある
→自分積みでも片道は他人積みの場合がある(例:パン工場のトラックが帰り荷として自製品とは関係ない米の運送を請け負ってきた)

新潟湊の特徴として =船を迎え入れる商形態
リストは全部で77艘です。この数字はどう感じられるでしょうか。一大港と呼ぶには少ないようですね。 これは現在の新潟市域ではなく、当時の「新潟町」という限られた範囲のリストであり、沼垂などは含まれていません。とはいえ“狭い範囲だから少ない”とは言い切れません。
現代では大きな船会社は大きな港や大都市にある、といったイメージがありますが、当時遠距離航海する廻船主は、今ではあまり語られることのない鄙な湊に多くいました。新潟市北区島見浜の南家、糸魚川市鬼舞の伊藤家などは有名ですね。 他にも胎内市荒井浜、柏崎市椎谷などが廻船主の多い湊として上げられます。
新潟湊は交易地として、船を迎え入れる商売で成立しており、自身が積極的に外へ出て行く商売や生き方はしていなかったと言えます。 新潟は「北前船最大の寄港地」であり「本拠地」といえない所以はここらへんにあるようです。 それにしても、「北前船最大の寄港地」と最初に呼んだ方はどなたなのでしょうか。歴史と照らし合わせると本当に名言だと感じます。

(余談) 新潟ではあまり聞かない「回漕」という言葉
ところで、みなさんは「回漕」という言葉に馴染みがありますか? 当サイト管理人は、以前に外国から機器を輸入する際に東京の「万年屋回漕店」さんにお世話になったことがあります。この時初めて「回漕」という言葉を聞いて辞書で引いて理解しました。 最初は熱帯魚の水槽でも扱う店なのかと思いました。
そして意外にも「回漕店」という社名を持つ会社は、横浜や神戸、瀬戸内など他の湊町には存在するのですね。 これらの会社は海運に携わっている場合もあれば、トラックによる陸送会社に変遷している場合もあります。

明治初期の千石船

幕末から明治初期の「自分積み船主」

外へ向う商家「自分積み船主」
新潟湊では「自身が外に出て行く商売はあまりなかった」とご紹介しましたが、その中で少し特色があるのが「自分積み船主」の存在です。 材木商や造酒家(酒商)など、自分自身の商品で重量物を商っていた商家に廻船主がいます。 これらの人々は自身で遠隔地へ出向き商売をしたわけで、更に片道は他人積み荷物です。 片道は利益率の高い自分の荷物、片道は買い積みにしろ運賃積みにしろ収入を得られるように工夫する。 こういった「自分積み船主」から発展し、廻船業(回漕業)として拡大していった商家もあります。 当サイトでも研究を続けている齋藤喜十郎家は、造酒家で廻船主でした。
新潟では江戸時代に隆盛を極めた廻船問屋は、幕末から明治にかけて早々に衰退し、その代わりに有力となった商家は廻船業に関わった人物が多くいます。また、廻船業に進出したことで有力となった人物もいます。 廻船問屋という他力本願な商売ではなく、外へ出て行く挑戦をした商家が、新潟の変化の時代を支えたということは現代にも通ずる示唆を与えてくれているようです。


 
船乗りが使った磁石と遠望鏡。下はその引札。

新興の廻船問屋
しかし、そういった中でも新潟の廻船問屋は明治に入り数が増えます。 それは株仲間の廃止で商売が自由化されたためで乱立の時代になります。そして明治後期には電信や鉄道の発達とともに衰退していきます。こういった新興問屋は大川前通でもシモに多くあります。大川前通に店を構えることが、問屋としてのステイタスがあったと考える人もいます。
廻船問屋という商売は、前掲の通り天保年間にも休眠株があるくらいなので、強い問屋、弱い問屋は昔からあったのでしょう。また、抜荷事件で当時有力だった津軽屋や当銀屋といった問屋が力を弱めたことも勢力変化の一因かもしれません。幕末から明治初期にかけても旧来の廻船問屋の衰退があり、明治に入ってからの新興問屋の時代も30年ほどです。廻船問屋は歴史の中で「強い商人」と認識されがちですが、時代によって浮き沈みはあります。


現代の新潟に残る当時の面影

廻船問屋の衰退は、新潟湊の衰退でもあるわけですが、 少し時代が変わると新潟港は北洋漁業の基地として活気を見せ、そして日満連絡の時代と代わっていきます。旧来の廻船問屋からも北洋漁業に積極的に関わる人物が出ていますし、北洋漁業家の片桐家や田代家は大規模船主としても有名です。
そして、新潟には当時の面影を感じさせる場所や物がたくさん残っています。
  
白山神社の船絵馬や鳥居(瀬戸内の石工の銘がある!)、金比羅神社の船形模型、湊稲荷、日和山、旧税関、旧小澤家住宅、旧齋藤家別邸、水戸教公園などなど。まだまだたくさんありますね。

・・・そうそう当新潟ハイカラ文庫の企画展も忘れてはなりませぬ!

 
 
船額と船絵馬(明治時代)

当サイトでは、明治初期までを「新潟湊」、近代を「新潟港」と表現しています。