File.6 新潟の電気 事始め 〜ハイカラ灯具コレクション
■新潟電燈株式会社の創業
新潟市に初めて電灯が燈ったのは明治31年3月21日のことです。その前年2月に設立された新潟電燈株式会社が白山浦1丁目623番地(土木監督署裏)に火力発電所を建設し、この日電気供給の営業を開始しました。今までは石油ランプに頼っていた灯りでしたが、新潟にも電気の灯りがつきました。しかし電気代は高価であり一般庶民にはまだ高嶺の花。開業当時の点灯数は632灯で、官庁や富裕層ばかりが需要先でした。
新潟市史、新潟検定公式テキストなどでお馴染みの632灯という数字ですが、ワットならともかく「灯」ってなんだろうと感じた方もいると思います。この頃の電気の契約は、電灯1個単位で明るさと供給時間帯で電気代が決まっていました。今のような従量制ではなかったのですね。
明るさは燭光で表し、時間帯は23時までの半夜、2時までの深夜、朝までの終夜に分かれていました。供給は夜だけです。そりゃそうです。それまでだって昼間っから石油ランプ点けませんでしょ。灯りが必要なのは夜だけでした。なので632灯とは正真正銘、632個の電球を点すことでした。
■併願が三派あり調停によって創立
新潟の電力事業の計画は明治20年代中頃からありました。新潟市でも三派が明治27年に申請を出していましたが、日清戦争による経済の混乱や三派の対立などでなかなか許可がおりません。
県知事が斡旋に乗り出し、新潟市長が調停を行い、明治29年に三派が合意し新潟電燈株式会社の発起人会が開かれました。合意したといっても結局は派閥対立があり、それが後々の株主大移動ともう一社の電力会社設立につながっていきます。発起人そして役員は新潟の有力財界人ばかりです。皆が電力事業に期待し野心があったのでしょう。
その後需要家数は増加していきます。日露戦争勝利の好景気も追い風でした。明治41年の大火ではかなりの被害がでましたが、火事の原因に石油ランプが取り沙汰され、復興後電燈の人気が高まります。明治41年度は最終的に4563灯、954戸の需要家数でした。また株式の配当も順調で年15%の配当が続いていました。
内紛と競合会社の創立
■新潟電燈の内紛の史話に疑問
明治39年11月に新潟電燈は株主に大移動を生じ、同年12月には新潟水力電気株式会社という別な電力会社が設立されます。この経緯については諸説があります。
新潟市編纂・関連の歴史書や史話では
1説:早出川の水利開発について宝田石油系の事業家が保持していた。
新潟電燈の中野平弥氏も早出川に関心があり、宝田系の事業家が新潟電燈の買収・合併を持ちかけてきて、新潟電燈内が合併派と非合併派に割れた。合併派は株を非合併派の中野平弥氏に譲渡し、早出川開発の会社に参加した。
2説:新潟電燈の中野平弥氏は大荒川の水利開発を考えていたが、時同じ頃宝田石油系の事業家から早出川の水利開発計画があり、新潟電燈の役員の中でその早出川計画を未完成のうちに買収するのが有利とする派があり大荒川派と早出川派で割れた
早出川派は宝田石油系事業家と新潟水力電気を設立した。
最近のいろいろな歴史書では2説が主流のようですが、この諸説の根拠となる資料を探してみました。
新潟水力電気の社史(新潟電力株式会社三十年史)では2説になっています。新潟電力株式会社三十年史は昭和12年の発行で部数も多く現存数もかなりあるようです。新潟市関連の歴史書の根拠はここにありそうです。
当新潟ハイカラ文庫では新潟電燈の社史(新潟電気株式会社三十年誌:昭和3年)を蔵書しており、ここには別な観点の記述があります。
また、最近になって中野平弥氏の日記や中野四郎太氏のテープから中野家の歴史をまとめた本も刊行されており、電力についても詳細な展開があります。人物史というだけでなく新潟の発展史としても読めるものです。
■そもそも火力か水力かで紛糾していた
新潟電燈の専務中野平弥氏は早くから水力発電に注目していました。他県の見学や県内の実地踏査などを精力的に行い、水力発電は火力発電に比べ建設費はかかるが、新潟は水資源が豊富であり総合的に有利と考えていました。中野平弥氏は「新潟の発展は産業振興にあり」と考えており、水力発電で安く豊富に電気を供給することが将来への使命と考えていたそうです。
明治38年、中野平弥氏は水資源と送電距離を考え今の阿賀野市(旧笹神村)の大荒川の水利計画を役員会に諮ります。役員内からは特に鈴木氏、白勢氏を中心に水力発電反対論が出ます。建設費が大きいこと、火力発電で十分経営は順調なことなどが理由でした。しかし明治39年に早出川計画が出てくると、水力反対派はその事業との合併を主張するようになりました。
■水力反対派はその後水力の競合他社へ参加
新潟電燈内で当初水力に反対した一派は、株式を中野氏へ譲渡し早出川開発の会社「新潟水力電気株式会社」を設立します。
この会社の電力供給範囲は新潟市や沼垂町も計画申請に入っており、需要家の多い地域で新潟電燈と対抗することになります。
譲渡した株式の価格は新潟電燈設立時よりもかなり値上がりしており、売った側はかなりの利ザヤがでました。逆に中野氏側は取得資金調達に苦労しました。
そしてその資金が結果的に中野氏のライバル会社の資本となり、売った側は更にそのライバル会社で利殖に励む結果になることは、現代に第三者が見ても複雑な心境です。
・そもそも新潟水力電気の一派は水力発電に反対したグループだったこと。・そのグループは新潟電燈時代に早出川計画を「買収」しようとしたのか「合併」しようとしたのか。
・早出川計画は石油成金や県外資本家を束ねた豊富な資金力があったが、それを買収や合併などで主導権が握れると思っていたのか。・中野氏は資本増強し早出川計画を買収することで下越地区を独占する案を持たなかったのか。・・・いろいろと疑問は残ります。
結局は両者(両社)とも「いいこと」や「もっともらしい」ことしか史話に残していないのであるが、
現在我々が触れることができる「新潟の歴史」として記述されている多くの書籍が、片方1社の資料からのみ論説展開されていることは残念です。
技術革新=規模の大きな水力発電と遠距離送電、そして需要の増加
■新潟水電株式会社
上述のような内紛を経て、新潟市に初めて電灯を点した新潟電燈株式会社は、大荒川の水利計画をもって「新潟水電株式会社」(大正9年11月には新潟電気株式会社へ)となります。中野平弥氏が目をつけた大荒川には競願の水利計画があり、更に水力発電事業のための資金調達などに苦労しましたが、明治40年11月、新潟市新島町通4ノ町2239番地を本社とし水力・火力による電燈と電力の供給を目的とする新潟水電が設立されました。供給権の掌握という形で明治42年3月に新潟電燈(ならびに新発田電燈所)を買収しこの会社に一本化しました。当初は“水力電気”の会社名を予定していたそうですが、相手に取られてしまい“水電”としたそうです。
明治42年5月大荒川上流発電所が稼動を開始し、新潟市と沼垂町の電気は水力発電に切り替わります。火力発電所は予備発電所となりました。明治43年8月には官営赤谷製鉄所の赤谷発電所(当時休止中)を借り入れて運転開始、明治45年5月には大荒川下流発電所が運転開始となります。
新潟の史話の中には「沼垂に電気が通じたのが明治40年」という記述がある書物があります。当時の新潟電燈の申請範囲は新潟市となっており、明治40年頃に沼垂町に認可がおりた資料を探すことができませんでした。
また明治40年頃の新潟電燈には白山浦の火力発電所しかなく、信濃川越えの送電線も存在が確認できません。萬代橋の真ん中あたりには、明治33年に防犯目的として1200燭の電気灯が設置されたようですが、その電線が沼垂まで行っていたと考えるのも無理がありそうです。やはり沼垂の電気事始めは明治42年で間違いなさそうです。
表紙のデザインが、水力発電による進取的な暮らしをイラストでアピールしている。真ん中に森に囲まれた水力発電所。上には「ランプよりも電燈」「うちわよりも扇風機」「手廻し動力よりもモーター」。下には「和船よりも汽船」「かごよりも自動車」「天秤棒よりも大八車」。なんだか最後があやしいなぁ・・・大八車って文明開化のものですっけ?
■新潟水力電気株式会社
宝田石油系の事業家、県外の資本家、前述の新潟電燈を抜けた新潟市内の事業家などが明治39年12月に発起人会をひらき設立。早出川の水力発電により、新津・五泉・村松、そして新潟市と沼垂町、亀田町に電力を供給する申請を出した。新潟市と沼垂町が新潟水電と重複申請になり、電灯については2キロワット以上の需要家のみ、電力については制限なしという形で許可を得ました。
明治42年3月に早出川第一発電所が稼動開始し、村松・五泉・新津に電灯が点きました。5月には新潟と沼垂に3箇所の需要家を獲得、年末までに新潟と沼垂に2キロ以上自家用という需要家を10件、654灯獲得したとあります。“水電”と“水力”の熾烈な競争の始まりです。
両社は順調に供給区域を拡大します。水電は北蒲原、西蒲原。水力は中蒲原、南蒲原方面へ次々と電気の灯りを点していきます。
技術革新で遠距離送電が可能になり、ますます増える需要に応えるため、大正時代には県外からの受電(電力購入)も進みます。新潟の電気は豊富な水資源をもつ会津地方からやってきました。
両社の競争の様子は、いろいろな史話に残されています。道路の両側に両社の電線がかんざしのように架設(ただでさえ電灯線、電力線、昼夜線、深夜線などいろいろあり。それが両社分あるわけで・・・)。
特別な契約で料金の割引や電灯のおまけサービス。組合加入で割引、組合の総会は鍋茶屋か行形屋、イタリア軒など。そして従量制ではなかったため盗電も横行したようです。
最終的に両社は大正13年に営業不可侵条約を結びます。これは現代でいえばカルテルです。
大正から昭和へ、電力事業はどんどん大きくなり、地方的で小規模な会社では難しい時代になってきていました。昭和4年、新潟電気は東邦電力と提携。中野氏は電力事業から身を引きます。
そしてまもなく、新潟電気と新潟水力電気が合併し新潟電力株式会社が生まれました。この頃新潟県では電力会社の合併が更に進み、下越・中越・上越・佐渡に各1社というようにまとまりました。それが昭和17年の電力統制令で「東北配電」(戦後の東北電力)となりました。
社長の松永安左エ門は、自由経済を掲げ軍国主義、国営電力に反対。民営電力の方針を貫き、戦後、今に続く九電力体制を築いた。
新潟に残るハイカラ電燈コレクション
エジソンカーボン電球を使っている
カウンターウェイトは日本天井の高さに合わせて自由に電燈の位置を調節する電気自在です。
右は子供向けの啓発書。左は様々な電気器具の博覧会のガイドブック
こういったもので普及をはかっていった。
アンティーク灯具に興味がある方へ
こういった灯具には最近作られたレプリカが多く存在します。古道具店や骨董店などでも複製新品を古物として信じて売っている場合もあります。電線なども昔風のものがついていて、一見して見分けがつきません。
エジソンカーボン電球はいまでも作られており、購入可能です。一般電球とも違う、ましてやLED電球とも違う。明かりを楽しみたい方にはおすすめです。
ロウソク、ランプ、古い電球。・・・少し薄暗い明かり。「明かりは“ほのか”が日本の文化なのだ」という説もありますね。ねっねっ薄暗いお店が好きな諸兄。
参考:
新潟市史
新潟電気株式会社三十年誌
新潟電力株式会社三十年史
文明の先駆者 起業の人「中野家」の志:新潟日報事業社 平成18年
電燈と中野平弥 新潟今昔草紙(松本春雄著):昭和33年
私と電気とむかし 新潟わが街 柳と堀(笹川勇吉著):昭和63年
ランプから電燈へ 新潟県の百年(県民百年史):平成2年
他、掲載資料