11月2025

11月例会=報告

11月例会

令和7年11月16日(日)

「ミオラの店は燃えたか? ~明治13年大火をめぐる新潟西洋料理店の逸話~」

当会会員  村木 智弘 氏

<講演要旨>

 明治期のイタリア人実業家ピエトロ・ミオラが新潟開港場で開いた西洋料理店は明治13年8月の大火により焼失した、と巷間で語られている。今回は史実を整理しつつ伝説が形成された要因と過程、その影響を考えたい。

 ミオラの店は「新潟新聞」によると「明治八年本港東中通一番町に於て西洋料理店を開店」とあり、大火から約ひと月後「弊店先頃より暑中休業いたし居候処」とあって、類焼につき休業したとは書かれていない。また、営業再開初日からフルコースメニューを提供しているが、もし焼失していたら「暑中休業」という表現は奇異であるし、フルコースメニュー提供は難しいであろう。その後の「新潟新聞」広告から明治16年2月に東中通2番町の土地・建物を売りに出し、同年12月に西堀通8番町(現7番町)に新店舗を開店していることがわかる。また、当時の地図からミオラの店の手前の堀で焼け止まっていることがわかり、ミオラの東中通2番町の店は燃えていないと結論づけうる。では、燃えたという逸話はどこからきたのか?逸話には明治13年の大火で焼失後、周囲の励ましと支援により明治14年8月に3階建ての洋館を新規開店したとされている。そこで、明治14年8月に新規開店した西洋料理店を調べたところ、滋養館という西洋料理店が礎町にあったことがわかった。これは滋養会という社交団体メンバーによる共同出資の西洋料理店である。明治16年1月の「新潟新聞」には、滋養館と古町通8番町吉川惣吉の連名広告が見える。1年半後の「新潟新聞」広告には屋号を「静養軒」に改号し、2か月後には「精養軒」に再改号している。吉川惣吉は明治12年に牛肉牛鍋店を開業し、滋養館の会合が「吉川惣吉」で開かれた。明治13年8月の大火で店が焼失し、翌年8月礎町にクラブハウス兼西洋料理店「滋養館」を開店した。このことは大火で店舗焼失後、周囲の励ましと支援により明治14年8月に再建という点を満たすことになる。当該時期にミオラが店を移転・新築した事実はないにもかかわらずイタリア軒が明治14年8月としていることから少なくとも滋養館開店とミオラの逸話がイタリア軒内部で混同しているのは明らかである。ではなぜミオラと吉川の逸話は混同したのか?混同の要因として、牛肉の販売からスタートしていること、新潟を代表する西洋料理店に成長していること、横浜との関係が深いこと、木造3階建ての店舗であること、店舗の焼失と再建を経験していること、周囲の人々からの支援を受けていることなどの共通点があげられる。なぜ混同されたまま語り継がれるのか?人々は美談に惹かれやすく、部分的に事実に基づいた誤情報は相性がよく、信用されやすい。ミオラの火事の逸話もこれにあたるのではないか。そして現在の我々もまた、誤情報が広く根付いている中で常に試されているのである。なお、ミオラの店(イタリア軒)開業は明治8年(1875)と考えられ、2025年は開業150周年の年でもある。