12月2025

12月例会=報告

12月例会

令和7年12月21日(日)

「新潟県少参事 谷津春三の幕末・明治維新」

東京大学史料編纂所学術支援専門職員  杉山 巌 氏

<講演要旨>

 谷津春三は、明治2(1869)年8月21日の「新潟運上所棟札」(新潟市歴史博物館保管)の中に、「運上所御普請掛」5名の役人の一人として記載されている。

 「普請掛」5名全員が旧幕臣であるが、新潟奉行所の役人であったのは、栗原伝五郎と安藤織之助2名で、高藤次郎は越後国三島郡脇野町代官所の役人、荘司鉉七郎は長崎奉行所の定役元締。そして谷津春三(旧名勘四郎)も、もともと幕臣や役所の監察にあたる「御小人目付」を勤める下級幕臣であり、新潟赴任前は長崎奉行所の調役であった。東京大学史料編纂所に所蔵されている、谷津の自筆本である回顧録『掻よせ』(「掻与勢」)を読み解くことによって、幕末~明治維新の外交の変遷について見ていきたい。

 『掻よせ』は、谷津が幕末の外交に携わることとなった安政4(1857)年より、慶応4(1868)年江戸幕府が瓦解し勤務していた長崎奉行所が終焉するまでの体験を回顧したもので、長崎を引き払う際に手記類が散乱することを恐れ「破裁沽却」したため、記憶によって記したと序文にある。

 この谷津が外交とかかわることとなった端緒は、安政4年浦賀沖で暗礁と接触して船底などを損傷した幕府の蒸気船観光丸の修復であり、この時「蒸気方」の榎本釜次郎(武揚)らと共にそれを担当したことからであった。

 その後日米修好通商条約の調印に当たり、孝明天皇の勅許を得るため、老中堀田正睦に従って安政5年正月に上洛したが勅許を得られなかった。同年6月17日、米総領事ハリス搭乗の軍艦ポーハタン号が下田小柴沖に来航し、速やかなる条約調印を幕府に督促した。谷津はこの交渉にも「応接筆記」担当者、書記官として立ち会った。

 さらに翌年7月には、目付役である都筑金三郎に御小人目付として同行し長崎に在勤した。文久元(1861)年に同じ開港場である箱館に出張したが、その際遭遇したのがロシア軍艦ポサドニック号による対馬占拠事件であった。この時幕府は、箱館奉行村垣範正が箱館在勤ロシア領事との交渉、外国奉行小栗忠順の対馬派遣によるビリリョフ海軍中尉との直接交渉を試みるが、結局はイギリスの協力を仰ぐこととなった。谷津はこの事件収拾のため、同年8月に箱館奉行所役人と共に対馬に急行しており、その経緯を『掻よせ』で詳説している。

 文久3年の孝明天皇よる「攘夷」勅命により、幕府は諸外国に開港場の閉鎖を通達したが、強い拒否にあったため、江戸に近い横浜港のみの閉鎖を交渉することに切り替え、攘夷論者と外国人テロ等の鎮静化を図ろうとした。この「横浜鎖港談判使節団」の一員として谷津は選ばれ、元治元(1864)年3月エジプト経由でマルセイユに到着、フランスとの交渉のためにパリに渡る。使節団は皇帝ナポレオン3世と対面したが、強い反対で失敗、他国との交渉も断念して7月に帰国した。

 帰国後の谷津は目付方から長崎奉行所の調方に転任し、慶応3(1867)年6月のキリシタン捕縛「浦上四番崩れ」を指揮。諸外国から抗議を受けたが、対応は幕府の終焉によって明治新政府に受け継がれた。翌年長崎が福岡藩仮預かりとなって、一旦江戸に戻り、明治2(1869)年4月、開港地の外交を統轄する「新潟県」の「庶務外務方試補」に登用された。外国官権判事の水野千波が新潟県権判事を兼任したように、開港場の体裁を整えるために、外交に携わっていた旧幕臣が、新政府の官吏として次々に新潟に赴任している。

 谷津は、統合後の「水原県」においても権大属となったが、「悌輔騒動」時に負傷し、明治4年4月再編新設された「新潟県」で依願免官、東京に戻った。新潟県退官後は司法省の判事に転任し、明治12(1879)年に大審院判事、15年東京控訴裁判所判事、21年大審院評定官となっている。

 なお、「悌輔騒動」の顛末も含めた長崎奉行所終焉以降のことについても、別途回想録として記したとの附言が『掻よせ』にあるが、今のところ未見の<幻の書>となっている。