5月の例会=報告

5月例会

令和6年5月18日(土)

借金証文にみる越佐の社会 -江戸から明治時代まで-

当会会員 本田 雄二 氏

<講演要旨>

 本日は江戸から明治時代の借金証文を通して、どのような社会状況がうかがえるのかをテーマにお話ししたい。

 借金証文には借用金額、利息、借用理由、返済期日、借主、貸主などが記載されているが、明治になると表題が「借用金証書」「借用証」「証」などと簡略化されている。同時に証印が黒印から朱印に変わり、円が使われ、収入印紙が使用されるようになった。ただ明治になってすぐに変わったわけではなく、従来通り黒印が使われたり、収入印紙が貼られない場合もあった。

 越後・佐渡各地の借金証文について、その地域性を見てみたいと考え平野部、山間部、漁村部の3つに区分してみた。その結果、たとえば利息について蒲原など平野部は「月一分」が多くやや低利、それに比べ魚沼など山間部はやや高いように思われる。これはおそらく収穫、収入時期の回数の違いによるもので、山間部は収穫、収入の時期が年一回ということが背景にあるのではなかろうか。利息が「世間並」と記されている例も多く、時代や地域によってそれぞれ異なっていると思われる。

 借金の理由については「要用につき」と記されている例が多いが、「年貢上納金に差し支え」「酒造仕入方に引き詰り」「倅婚姻に差し支え」などと実際の生活の中での具体的な理由が記されている。借金の担保(引当)物件としては、土地、屋敷が多い。他には家財、商品、脇差、蝋、木炉(薪)、蚕(繭)、人足奉公、杉木、臭水油(石油)など様々である。講の組織によって集められた頼母子金が担保になっている場合があり、同時にその講から借金をしている例も見ることができる。

 借金はどのような方法で返済されたのであろうか。農林水産業、手工業、商売など家業で得た収入で返済、日雇い、奉公など労働賃金で返済、講組織による講金で返済など様々な事例があった。また「返済した」という証明は、文書に記された金額や関係者名、印鑑の部分を抹消したり、あるいは文書全文を抹消し「返済証明」としていた。明治時代新潟銀行が「消印」というゴム印を作り、それを使った文書も残されている。

 以上、江戸から明治時代にかけての借金証文を見ることにより、借金事例や担保物件の種類が増加し、経済活動の活発化していったことがうかがえる。そして借金理由やその利息、返済方法などから、当時の社会の姿や人々の暮らしの一端を知ることができるのではなかろうか。