9月の月例会=報告

9月例会
平成24年9月15日

「琉球王朝文化と田島利三郎翁」
琉球王朝禮楽保存会会長 安仁屋眞昭氏

〈講演要旨〉

琉球王朝は12世紀後半舜天王朝から始まったと考えられる。第二尚氏時代(1470~1879)の尚眞王のころ、国内で謡われていた様々な歌がまとめられていった。「おもろさうし」第1巻の編纂が1531年、第2巻が1613年、第3~22巻が1623年である。「おもろ」は「思い」の表記、祭政一致時代の祝詞や天体讃歌、航海安全の祈り等々を含んだ「古歌謡集」が「おもろさうし」で、古くはメロディを持って謡われた。

「おもろさうし」の管理と儀式や祭礼の「神歌主取(ヌシドウイ)」が置かれた。この役職は明治初年琉球王朝廃朝まで続いた。安仁屋眞刈(安仁屋眞昭氏の曾祖父)が最後の「神歌主取」で12代目であった。現在は「王府おもろ」として5曲のみ伝承されているが、1978年山内盛彬からの伝承者として私が受け継ぎ保存・紹介に努めているところである。

「おもろさうし」をはじめ沖縄・琉球研究の先覚者が新潟県出身の田島利三郎である。1893年沖縄県立尋常中学校の教師として赴任した田島は「おもろさうし」を書写し、関連資料を精力的に収集した。しかし彼は1895年突然解雇されてしまったが研究を続け、集めた資料を教え子の一人伊波普猷に譲り、その後は台湾、中国、朝鮮半島を流浪したと言われている。田島が研究し、残した資料は貴重で、彼の功績は非常に大きい。

「王府おもろ」の一つ、謝名思(ジャナムイ・後の察度王)を讃えた「おもろ」に次の一節がある(安仁屋氏が実際に謡い紹介された)。

――謝名思いが 謝名上原 上て 蹴上げたる露は 露からど 香しや 有る――

謝名思が散策した「謝名上原」は現在の普天間飛行場あたりである。この「謝名上原」(普天間飛行場)が一日も早く返還され、琉球王国の国是であった平和の心を世界に発信する基地になってほしいと願っている。

8月の月例会=報告

8月例会

「『殉節の碑』建立に携わった人びと」
新潟郷土史研究会会員 高橋邦比古氏

《内容要旨》

新潟市の新潟大神宮(中央区西大畑町)には、戊辰戦争中、新潟で戦死した会津藩士の鎮魂碑『殉節之碑』が建っている。この碑は明治23年建立されたものであるが、建立に至るまでには多くの人々の労苦・支援・悲願があった。

建立に先立つ明治17年、戊辰戦争戦死者17回忌法会が新潟市の法音寺で行われた。発起人の津田耕平・佐藤昌平、「祭文」起草者寺田徳裕・寺田徳明、「捧」起草者工藤衛守、鎮魂の詩歌を寄せた工藤張琴、田中小稲等々、多くの人々の協力があった。

明治23年『殉節之碑』が建立された。碑の撰文並びに書は南摩綱紀(明治の教育者)、石工は倉田緑司、そして碑建立の中心者津田耕平・鹿野治郎は翌24年、この紀念碑竣工の大祭典を新潟大神宮で執り行った。この時二人は三條小鍛冶宗近刀をはじめ義捐金名簿、掛物、祭文、詩歌、戦死人名簿を奉納し目録を作成、「永世保存し御祭典の時には御拝殿に陳列し、参拝者の縦覧に供してほしい」と覚書に記した。

『殉節之碑』建立の経緯について、新潟郷土史研究会会員の長井信平・小川チヨ両氏の示教を得て、先の掛物、祭文、捧、目録、覚書等々を確認することができた。碑建立の中心者の一人津田耕平は戊辰戦争後、新潟県本庁第三課地租改正掛等々で活躍、明治24年大祭典後忽然と新潟を去ってしまう。もう一人の中心者鹿野治郎は戊辰戦争後、三戸(斗南藩)から会津へ帰る途中新潟港で足止めにあい新潟で生活、14歳はじめ頃表具師八木錦水に入門、修業に修業を積み名人といわれる。昭和5年72歳で没した。

津田・鹿野二人も含め、碑建立に携わった人々について今後も調査をすすめていきたい。