11月の例会=報告
11月例会
令和6年11月17日(日)
演題:「疑惑の海峡 北前船海死事件を追う」
講師:当会理事 横木 剛 氏
<講演要旨>
新潟町の廻船問屋前田松太郎(元は当銀屋重松と名乗る)は、北前船稼業で築き上げた資金を元手に、安政6(1859)年に廻船問屋株(営業権)を取得した。その時期の客船帳の中に、荒浜牧口庄三郎、その代理人米平がやって来て、そこで囲い船されていた小川屋喜兵衛の中古廻船を安政5年に買い入れ、整備して翌年2月に12人乗りの船「興栄丸」として出帆したとの記録が残されている。
この牧口庄三郎は文化元(1804)年生まれ。牧口家三代目当主で、天保年間に五百石程の中型船を複数所有し、蝦夷地から上方までの買積廻船業を展開し、米や荒浜近在の麻の鰊網を蝦夷地へ、塩引き鮭や魚肥、昆布などを上方へという交易を行なっていた。
現在柏崎市立図書館に所蔵されている「牧口庄三郎家旧蔵文書」の中に、この牧口庄三郎が訴訟人となって、万延元(1860)年7月に、居所を管轄する領主役所(与板藩奉行所)に村庄屋、割元を経由して、ある事件の吟味と裁判開始を訴えたことが分かる願書の控えが残されている。
その訴訟相手は、雇用していた水主11人であり、前々年に購入したばかりの「興栄丸」が、根室から帰還途中に尻岸内村沖で難船して、船頭米平のみが不審死し、積荷処理も正当に行われていないという疑念から訴え出たものであった。
「興栄丸」は安政7年春に蝦夷地へ向け出帆し、箱館→酒田→箱館と回り、冬季間は箱館で浮き囲いしていた。翌年3月15日に根室に向かい、根室から戻る途中の5月11日尻岸内村沖で事故に遭った。村役人を通じて急遽箱館まで飛脚を差立て、船宿浜田屋の手代鉄蔵と小宿由松の仲介で箱館奉行所へ出役を願い出て、米平の死体と積荷を処理した。
水主たちは、その後箱館にやって来た庄三郎の息子虎之助とともに帰国し、さらに取り調べられることになり、8月には牧口に対して、状況を詳らかした詫び状と金銭的損失に対する念書を差し出すこととなった。
その後牧口は、水主たちとの訴訟がある程度まとまった後の11月に、箱館奉行所と尻岸内村へ文書を出している。積荷を売り払うことに加担した(もしくは横領を主導した可能性もある)箱館の廻船問屋と、顛末を隠すことに協力し金品を得た尻岸内村を追及する方向に向かっているが、以後の関連史料は見当たらず、結末は不明である。今回の事件については、本来船の指導役である船頭の、米平のみがどうして死亡したのかの疑惑や、諸帳面の紛失により横領の疑念もぬぐい切れない。あわせて水主たちの金銭欲求や雇用管理の関りで、買積廻船経営における水主の労働条件や環境という課題も提起され、北前船経営は、廻船主にとって管理が困難なビジネスという一面が見えてくる。
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