2月の例会=報告

令和7年2月16日(日)

近世角田浜村における難船処置の事例

新潟市文書館 高野まりい

〈講演要旨〉

 新潟市文書館では、代々角田浜村の庄屋を務めた大越家に伝わった3200点ほどの文書を整理している。この資料の中から江戸時代に角田浜村の海岸に漂着した難船の事例から、難船救助や船道具、積荷の処理がどのように行われたのか報告する。

 角田浜村は、村明細帳に「当村男女稼耕作并海猟仕申候」とあり半農半漁とされる。大越家には浦高札があり、海難救助を担う浦村であった。文書の中に船往来があり村に廻船もあったかと思われるが詳細は不明である。安政5(1858)年の絵図によれば、角田浜村の海岸は遠浅の砂浜で、沖には岸に平行して三列の砂瀬が並んでおり、大型の廻船が入る湊ではなかった。

 難船の事例を8例あげる。事例1は、享保13(1728)年に破船が漂着した。村は船材や道具を引揚げて番人をつけて保管した。船は佐渡松ケ崎の船で、寺泊に漂着した乗組員や新潟・寺泊の船宿が確認に来た。引揚げた船材の不足を問題にしたが、翌年、引揚物を受け取っている。

事例2は、元文3(1738)年の東岩瀬の廻船が難風で積荷を捨て角田浜に漂着した。村人が乗組員を救助し、船も引揚げ、出港地新潟の船宿に引渡した。

事例3は、佐渡加茂郡の漁船が元文4年に角田浜に漂着し、村人大勢で乗組員と漁船を救助した。

事例4は、文政3(1820)年に酒田を出港した丹後の廻船が村の沖合で破船した。村役人が村人を率いて海中から積荷と船道具を引揚げた。積んであった荷物と引揚げた荷物を照合したうえで、引揚品は船頭・新潟船宿に引渡された。

事例5は、文政5年に佐渡杉野浦村の破船が漂着した。佐渡から船主が来村し自己の船と確認をして船道具類を引取った。

事例6は、寺泊の7人乗りの漁船が角田浜沖で破船した。村人が救助したが1人が溺死した。

事例7は、文政11年に新潟湊の廻船が塩屋で破船し、船道具が漂着した。引揚げた船道具は船主・新潟町問屋へ確認の上引渡されたが、船道具代の十分一として金1両余が村へ払われた。

事例8は、弘化4(1847)年に佐渡水津を出港した新潟町の廻船が角田浜沖で破船した。村では粉々になった船道具や積荷を引揚げた。新潟の船主・船頭が確認して引き揚げ品を受取り、そのうえで角田浜村において売払っている。

 以上の事例から、浦村である角田浜村では難船があった場合には村役人主導のもとで人命救助や積荷・船道具を引揚げ、また破船の船道具が漂着した場合にも引揚げて、村が保管した。これらの品々は船頭・船主・船宿らと村役人が立会って確認し、引渡し、請取りがなされた。その後、これらの品々が村で売り払われた事例もあった。

 大越家文書は整理中であり、今後の調査によって多くのことが明らかになると思われる。