1月の例会=報告
1月例会
令和7年1月18日(土)
新潟から出る遊女、新潟へ来る遊女
新潟大学人文学部教授 原 直史氏
<講演要旨>
はじめに遊女「かしく」の半生を紹介する。嘉永4年(1851)蒲原郡東汰上村(新潟市西蒲区)に生まれ、安政5年(1858)7歳で下野国合戦場宿(栃木市)福田屋に召し抱えられ遊女となった。慶応2年(1866)15歳で江戸深川はしや政五郎方へ遊女として召し抱えられ、明治4年(1871)に新吉原三州屋に売り渡された。翌年「遊娼妓解放令」が出されると、なじみの吉原海老屋召使竹次郎と夫婦の約束を交わした。しかし政五郎が債権を主張し新吉原に売ると訴えたため、「かしく」らは「遊女はいやだ」と役所に訴え出る。江戸時代の経世家佐藤信淵は、「越後は間引を行わないが、女子を他国に売り出している。北越の売婦を非難する者もあるが、間引に比べれば仁術ともいえる」と述べている。
蒲原郡から他国への飯盛奉公は多い。文政5年(1822)武州粕壁宿(埼玉県春日部市)違法営業で検挙された飯盛女21人中18人が越後出身、うち15人が蒲原郡出身。文久2年(1862)野州雀宮宿(栃木県宇都宮市)の下女53人のうち43人が越後出身(うち36人が蒲原郡)。文政6~7年頃の奥州郡山宿(福島県郡山市)で飯盛女・子供とみなされる167人のうち9割超の154人が蒲原郡出身。単に「真宗地帯」だけでは解けない。
移動する新潟遊女について。新発田城下町は公娼を置かず、私娼「かぼちゃ」で著名。新発田町に文久2年(1862)10月、新潟売女を連れ寄せていた城下町人が複数摘発・処罰された。同時期に新発田川を航行する新興集団「通船路船乗」が形成され、元治元年~2年(1864~65)には木崎河岸の茶屋集団との紛争が起こるが、文久2年の規制強化により、遊興の場が新発田より陸路三里で到達でき新潟売女を呼び寄せられる木崎に移行していく。そもそも新潟の遊女は本来古町通・寺町通を営業範囲として、長岡領時代より「他門・本町通、芸者・遊女横行御停止」がたびたび触れられていた。新発田や木崎まで出かけたのは公認の遊女だろうか、あるいは後家などの私娼であろうか。天保8年(1837)会津屋金太抱女よしが客人に拘束され髪飾りを奪われる一件があったが、この客人は上州無宿であり、関東への奉公人を抱えに来ていた。この時期、揚屋公認の遊女を巡って様々な事件が起こっており、上州無宿をはじめとした広い交流のなかに遊女たちの境涯がある。
次に野州合戦場宿への奉公について。嘉永7年(1854)新潟本町通借家娘もと22歳が合戦場宿旅籠屋に奉公し、請判を同宿の定右衛門に依頼している。合戦場宿には毎月の抱女数に応じた刎銭を出し、宿内入用の一部を賄い、宿役を勤める住人に残額を割渡すシステムがあり、そのために飯盛旅籠屋はある種の仲間を結成している。定右衛門は旅籠屋ネットワークに通じた女衒的存在である。こうしたネットワークの形成こそが蒲原郡から大量の飯盛女を送り出していったと想定できる。そうしたネットワークはいつ頃どのようにできていくかが大きな課題である。
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