2月の例会=報告

2月例会
令和3年2月20日(土)

「蘇民将来信仰」と「白山神社茅の輪神事・粽お守り」について
新潟郷土史研究会事務局長 高橋邦比古 氏

<講演要旨>
 古代・中世は災害や飢餓、疫病などが日常的に発生していた時代であった。そのため人々は不可思議な力を持ったものにすがり、外部からやってくる悪魔や悪霊を遮断するため、お札や護符に信仰を寄せた。その代表的な例が「備後国風土記逸文」に由来する「蘇民将来」や「茅の輪」の信仰であろう。
 「蘇民将来の子孫」と口で唱えたり、それを文字に記すことにより、また「茅の輪」を身につけたり、くぐったりすることにより魔除け、疫病除けに効果があると考え、その信仰は全国に広がった。
 新潟市南区の馬場屋敷遺跡(旧白根市庄瀬)から「蘇民将来子孫」と記された中世期の木簡が出土している。別の木簡にも「蘇民将来子孫」の文字とともに梵字や呪文が記されており、中世の頃より新潟市周辺に蘇民将来信仰が広がっていたことがわかる。同様に阿賀野市の腰廻遺跡(旧笹神村)からも「蘇民将来」や「南無(无)牛頭天王」と記された木簡が出土しており、蘇民将来信仰とともに牛頭天王信仰も広がっていたことがわかる。
 この牛頭天王は、もとはインドの祇園精舎の守護神で、のちに除疫神として京都の祇園社(八坂神社)などで祓われた神である。毎年行われている祇園祭はとくに有名で、悪疫を封じ込めるために行われたのが起源である。長刀鉾を先頭にした鉾9台・山14台の「山鉾巡行」は祇園祭のハイライトになっている。
 蘇民将来信仰と同様に茅の輪くぐりも全国に広がっている信仰の一つである。新潟市中央区の白山神社では毎年6月晦日、「茅の輪くぐり」あるいは「夏越の祓い」とよんでいる神事を行っている。直径4m程の茅の輪を左回り、右回り、左回りと3回くぐる神事であるが、茅の輪をくぐれば気を祓い身を守るという信仰である。輪をくぐった参拝者には直径10㎝程の「茅の輪」が配布されている。
 同神社には「粽お守り」も作られている。茅(チガヤ)は罪けがれを祓う力があるとされ、その茅を円錐状にして粽を作り、それをお守りとして玄関などに懸け災いを避けるという信仰である。
 新潟市関屋地区をはじめ各地で白山神社門札や金刀比羅神社(宮)門札、善宝寺(山形県鶴岡市)お札などが貼られている家を見ることができる。今日のように近代的な科学万能の社会になっても、お札や護符に対する信仰は生き続けていくように思われる。

1月の例会=報告

1月例会
令和3年1月16日(土)
演題 新潟県 県民性の歴史
新潟青陵大学特任教授 伊藤 充 氏

〈講演要旨〉
1 私が県民性の歴史を研究する理由
 新潟県の県民性の歴史を見るときに興味深い全国統計結果がある。他の指標は決して上位ではないが、NHK受信料支払率2位、学校給食費支払者率3位と責任感の強さを表す。また、ある中学校で作成した「学習指導案」に生徒の実態として必ず書かれたキーワードが「まじめに取り組む」「素直に応ずる」「消極的」「表現力に乏しい」であり、先輩教師も後輩の若い教師も常套句としてきた。これはまさに現在の新潟県の県民性の一面であり、負の県民性である。これから世界の子供たちと共に生きる子供として成長していくためには、自らの県民性の歴史をしっかりと振り返る必要がある。そこで今日は新潟県の県民性を歴史・人物史・民俗史の観点から解き明かしたい。

2 県民性は、どのように生まれたか?
 井上慶隆氏は、県民性の形成を雪の生活、水との闘い、真宗門徒の生活、郷村の学問と教育に求めている。これは横の広がりを重視する視点であるが、私は縦割りの視点をとり、県民性を政治史・社会史・産業史・民俗史などの時間の積み重なりから総合的にとらえたい。
 今回は政治史から始める。結論的には新潟県の歴史は県外の人々により支配され続けたのが新潟県人であり、そこに県民性形成への根源が求められるだろう。縄文人の遺伝的形質を最も受け継ぐ新潟県域へ渡来系の遺伝的形質を持つ弥生人や古墳時代人が大和朝廷として支配をのばし、平安末期には、秋田に出自をもつ城氏が平氏政権の越後守に任命される。鎌倉期には滋賀の佐々木氏、静岡の北条氏、群馬の新田氏が守護を務め、南北朝期には栃木の上杉氏が守護、神奈川の長尾氏が守護代となった。近世になると秀吉により高田に岐阜の堀氏、新発田に愛知の溝口氏、村上に長野の村上氏を配置した。家康が江戸幕府を開くと、高田藩は六男忠輝改易後に群馬の酒井氏、兵庫の榊原氏など、長岡藩は愛知の牧野氏、新発田藩は溝口氏、村上藩は愛知の内藤氏、村松藩は堀氏というように武家政権の時代は、頼朝・秀吉・家康の家臣で関東・東海地方出身の支配者が多かった。明治以降になると歴代の県令・県知事は、京都の平松、佐賀の楠本・籠手田、鹿児島の永山・篠崎・千田と薩長土肥の維新政府の藩閥支配がつづき、新潟県出身の知事は、1947年の民選知事岡田正平をまたなければならない。このような状況で形成される県民性は、「実利的」「名より利益をとる」「消極的」などが指摘されることになる。
 次に人物史をみるなかで特に新潟県の「清酒」ブランドの礎を築いた人々をみたい。江戸時代の越後の酒は、軟水を使うので「金魚酒」とよばれ、薄くてまずい酒の代表とされた。明治以降伏見・灘の芳醇な銘酒をめざし改良につとめた。速醸元の発明で革命を起こした江田鎌治郎は酒造業のために特許を申請しなかった。「酒博士」と呼ばれた坂口謹一郎は酒造史と全国の酒蔵の調査・研究をした。太平洋戦争期に政府は酒造の停止と統合を進め、石本酒造や宮尾酒造などは休業蔵となり、潜水艦の部品となる酒石酸を製造させられた。戦後酒不足に直面した政府は、模造酒である「三倍醸造清酒」の生産を奨励した。関東信越国税局鑑定官田中哲郎は「研醸会」という酒造研究会をつくり、酒蔵に技術指導をした。その弟子である石本省吾は「幻の酒越乃寒梅」を生み出した。さらに嶋悌司は「新潟清酒学校」を創立し、特に中小の酒蔵を育成し、銘酒「久保田」をつくりあげた。ここからは「粘り強い」「現場を大切にする」「忍耐強い」などの県民性が導き出される。
 次に「県民性の再生産」という視点で、民俗史の「ことわざ」からみたい。第一の「越後の一つ残し」、消極性や雪国山村の旅人への優しさ、第二の「越後には杉の木と男の子は育たない」「亭主くわせられないば、嫁に行くな」、男子(特に長男)の凡庸性、女子のたくましさ・生活力、第三にの「頼まれれば越後から米つきに」、江戸の米つき行商人は、越後出身者が多く仕事はきついけれど、越後人の誠実さを表している。こうして新潟県民は、暮らし・習慣・労働慣行・雪の影響などを「ことわざ」として残し、自らの県民性を再生産しているのであろう。
 最後に新潟県の子供たちが将来、世界に貢献し名誉ある地位を占めることを心から祈って、今日の講演とします。

12月の例会=報告

12月例会
令和2年12月20日(日)

新潟県官員録出版ことはじめ
東京大学史料編纂所学術支援専門職員 杉山 巖 氏

<講演要旨>
 江戸時代の幕府や朝廷の職員録は木版で刊行されているが、いわゆる「藩」の職員録はまず刊行されることはなく、明治時代になって地方版の職員録も刊行されるようになる。今回は新潟県の職員録が刊行され始めた経緯を探りたい。
 慶応4(1868)年閏4月に政体書が発布され、府・藩・県の三治制となった。府は幕府の御料所(天朝御領=直轄領)のうち都市部、藩は大名の私領、県は天領のうち農村部を指す。
 江戸幕府の職員録は「武鑑」、朝廷の職員録は「公家鑑」があり、幕府には2万人以上の職員がおり、ある程度の需要が見込まれたことが出版の要因となった。なかにはハンディ(小型)の武鑑や町人が年始代わりに配布した一枚刷りの武鑑もあった。町人が求める背景には、係争問題が発生した時の訴訟の窓口になる三奉行も記載されている事も関係した。地方の大名には手書き、書写したものが伝わっている。例外的には御料所の司法・行政を担当した代官や管轄の大きな郡代の職員録が「県令集覧」として出版されている。
 明治政府の初期は頻繁に官職の制度や役職が変化した。明治元(1868)年には各種職員録が多数出版された。版元は京都の村上勘兵衛、武鑑を刊行していた出雲寺万次郎など。明治元年12月には『官員録』を村上勘兵衛・井上治兵衛が刊行。なかには官職制度が頻繁に変わるため製本に至らず反故になった職員録も多く、明治9年に出雲寺が刊行した教科書『初学地理書』は明治6年太政官正院の職員録を刷った紙を再利用して使われている。また書き込みのある反故紙が使用された例もある。
 明治に入り新潟県の職員録で最も古いものは、明治4(1871)年正月の『新潟県職員録』である。新潟奉行所役人で新潟県官吏となった福原家に伝来するもので(現新潟市歴史博物館保管)、明治4年未正月に久須美喜内が刊行している。初刷りと後刷りがあり、明治3年と思われるものは「徒刑守久須美喜内」とあり、明治4年のものは「仲方久須美喜内」とある。久須美喜内は新潟奉行所の足軽であり、明治3年に徒刑守(刑務官)、4年には仲方(交易税業務)となっている。『公文録』には「当県官員掌中録、便利ノ為メ、別冊ノ通、徒刑場御彫刻為致候条、此段御届ニ及ヒ置候、以上、庚午十一月五日 新潟県 弁官御中」とある。則ち官員掌中録(小型版)を刑務所の労役を使用して木版彫刻させたので弁官に御届けします。庚午(明治3年)11月5日。と記録されている。明治3年に刑務所の監督者であった久須美喜内が、労役を使用して新潟県初の官員録(職員録)を出版・刊行したものが初めである。翌4年に改訂版刊行、以降県の官員録は数種出版され、明治7年には金属活字も出版された。

11月の例会=報告

11月例会
令和2年11月21日(土)

明治12年西蒲地方のコレラ騒動~伊藤家日記にみる農民生活~
新潟郷土史研究会理事 伊藤雅一 氏

<講演要旨>
 現在、新型コロナ禍にあるが、関連して今から約140年前の西蒲地方のコレラ騒動について、主として伊藤家日記を題材に紹介してみたい。
 前段として、感染症について、世界史的視野からみていくこととする。まず、感染症とは微生物(病原体)が人間や動物(宿主)体内に侵入・繁殖したためにおこる病気である。病原体とは感染症の原因となる微生物であり、ウィルスや細菌がある。
 次に、歴史に名を残す感染症について、触れてみたい。まず、①天然痘について。痘瘡・疱瘡ともいわれ、致死率は高かったが、1796年に英医師ジェンナーが種痘を開発し、1980年にWHOが根絶を宣言した。②ペストについて。黒死病ともいわれ、1347~50年に西ヨーロッパ各地で大流行し、全人口の約三分の一が死亡した。農業人口の減少・賃金上昇により、農民の自立化が進行し、近代社会の移行が促進されたと言われている。③スペイン風邪について。第一次世界大戦中にヨーロッパ全土に感染が拡大し(世界人口の25~30%が感染、米大統領ウィルソンも感染)、終戦を早めることにつながった。
 さて、本題の「伊藤家諸日記帳」にみる西蒲地方(福井村)の明治12年コレラ騒動をみていきたい。コレラは、「虎狼痢」・「虎狼狸」・「虎列拉」などとも表記されるが、汚染された水や魚介類を飲食することで感染し、糞便や吐瀉物の河川への排出で感染が拡大される。明治12年3月ころに西日本で発生したコレラが東日本へ感染拡大し、新潟県の衛生掛発表では10月に患者累計数が5,184人、死者累計数3,110人を数えた。新潟下町と沼垂町で暴動が発生したため、新潟県は8月に軍隊新発田分営に出兵要請をしつつ、魚介類・青果類の販売禁止を全面解禁し、暴動の原因解消に努めた(『新潟県史』通史編6)。
 西蒲地方でも多くの感染者を出している。福井村の「伊藤家諸日記帳」には、7月23日の神明神社祭礼、8月27日の大般若経祈祷と、病魔退散の儀式執行がみえる。8月19日には村中集会が行われ、虎列痢規定が制定された。具体策として、他村者立入拒否のため立番を置き、村民死亡の香典を1銭とする申合せが行われている。まさに、ロックダウン、クラスター対策である。明治15年には、福井村コレラ予防組合が作られ、福井村伝染病予防御約束法が村の全戸の署名捺印で制定された。換気、薬剤散布、衣服、飲食、救済施設、葬送など細々とした内容で、現在の新型コロナ感染対策と似通ったものが多い。
 最後に、我々人類は新型コロナの教訓をどう生かせばいいのか、付言したい。政治家は「公平・公正」に国民の生活を守ること。企業経営者は「利他」の心をもって蓄えた財力を社会の弱者のために提供すること。我々一人ひとりの市民は「隣人愛」の心をもって身近な人のために自分のできることをする、ということに尽きるのではないだろうか。

2月の例会=報告

2月例会
令和2年2月15日(土)

廻船問屋「当銀屋」の成長と北前船
新潟郷土史研究会理事 横木 剛 氏

<講演要旨>
 かつて廻船問屋齋藤喜十郎家・前田松太郎家について研究してきたが、本日はさかのぼって江戸期の当銀屋の具体的な経営にあたってみたい。
 はじめに廻船問屋は三つの役割をもっている。諸国廻船と湊町の商人を仲介して取引口銭を得る。取引に課税される仲金を納める。船頭の世話と管理を行うという役割である。
 本日のテーマの当銀屋は与板の備前屋の出店から始まる。備前屋は元禄期から米取引を行い、新潟湊からも出荷していた。さらに新潟に拠点を置くため、新潟商人の権利を取得し出店を開き当銀屋の屋号を使った。享保頃の米価の低落傾向や松ヶ崎掘割の影響のため廻船の新潟入津数が減少、衰退する廻船問屋も現れた。新潟出店も延享期に営業不振となり、出店で働いていた備前屋親戚の江口善蔵が引き継ぎ、宝暦6(1756)年に廃業した廻船問屋加賀屋津右衛門の株を取得して廻船問屋となった。株の取得とは得意先(顧客)の引き継ぎも意味した。また宝暦2年の成立から明和4(1767)年に町老、天明2(1782)年には検断となり町役人としても重きを成してくる。
 現在当銀屋江口家文書(約1400点)は新潟市に寄贈されている。当銀屋の経営を示す嘉永3(1850)年の史料をみると、売口銭500両、買口銭1,000両である。口銭は取引高の1.5%のため、取引高は売3.3万両、買6.7万両となる。ほかに貸金利息などの費目も分かり、損益を合計してこの年の利益は1,100両となっている。
 北前船は売買価格差によって経営を維持している。資金不足の場合は現金補填、借金もあるが、取引先の廻船問屋に資金を積んでおく場合もある。天明8(1788)年の店卸帳をみると6,000両の「粟崎差引預り」がある。これは顧客である加州粟崎の北前船主木谷藤右衛門からの預り金である。木谷家は遠隔地の材木の輸送販売から成長し諸藩の蔵米も扱った。寛政3(1791)年に当銀屋が木谷家に送った書簡には、新潟湊における木谷船積入れ、廻船の修繕、蔵米船の扱いが優先する慣行、能代鉛や三田米など商取引に関する情報を報告している。また天明6年の帳簿には、当銀屋が新潟湊のほかの廻船問屋への貸付金を記載している。
 当銀屋は、日本海海運に買積船が増加してきた時期と呼応して成長している。北前船主は取引先湊の廻船問屋に対する預け金の仕組みを活用して経営を展開、当銀屋はそれらの資金を活用してほかの廻船問屋に貸付けを行い、それがあらたな廻船問屋からの経営資金として投下もされている。新潟町においてこのような多様な金融の動きが背景となって、盛んな商品流通と相俟って湊の繁栄に繋がっていった。

新春講演会=報告

1月新春講演会
令和2年1月12日(日)

阿賀野川舟運と下条船
新潟大学人文学部教授 原 直史 氏

<講演要旨>
 本日は阿賀野川の舟運について、中でも特別に活動した下条船についてお話したい。
 江戸時代、幕府や藩は米で税を取っていた。そのため各地の年貢米を移動させなければならず、その移動には馬よりも船が使用された。船の方が大量に積むことができたためで、江戸時代は河川交通が活発であった。
 越後平野において長岡船道や蒲原船道など、船道とよばれる特権的な組織がつくられた。そして船道は各河川における特定ルートを掌握していた。このような船道に対し下条船はやや異なる展開をみせていた。
 阿賀野川は新潟と会津を結ぶ重要な河川である。その旧小川荘周辺は江戸時代会津藩領であり、津川町、海道組、鹿瀬組、上条組、下条組に地域区分されていた。阿賀野川の流れは津川・会津間が急流のため、船や馬からの荷物の積み替えで津川は交通の要地として栄えた。津川船道が存在し津川町、下条組の船持を統括していたが、津川町と下条組の船株数について文化15(1818)年の史料を見ると、津川町は大艜21、小艜3、下条組は大艜66、小艜28で下条組の方が多い。この船株数の違いなどから、下条組の船持の肝煎たちが独自の集団となり、次第に船道と同等の機能をはたしていった。
 下条組五十島村渡部家文書の中に、天明7(1787)年から慶応2(1866)年までの舟運経営を伝える史料がある。「積荷勘定帳」や「金銭受払帳」などである。天明7年の史料には薪の仕入値段と売値が記され、薪の売買価格差により利益を得るという買積経営の様子が記録されている。さらに弘化2(1845)年の史料から、五十島を出た船が中の口川、刈谷田川、小阿賀野川など複数の河川にまたがり広く航行し、下条船の活動範囲は越後平野全体に広がっていたことがうかがえる。
 この背景には六斎市の存在が大きい。渡部家には各地の市日を記録した史料が残されており、渡部家の船は六斎市を巡回しながら売買していたのであろう。そして大きな船が入ることのできない土地では、その土地で活動している小船と連携しながら経営を成り立たせ、大野、酒屋、満願寺など拠点となる停泊地では必要な情報を入手し、次の目的地への判断材料としていた。さらに大友村など在郷町とはいえない村でも、薪の売買を取り次ぐ商人が存在していたことも重要である。
 このような下条船の活動は、地元の長岡船道や蒲原船道と競合しなかったのであろうか。会津藩のもとでの下条船の活動であり、他藩でもこのような例はあったのであろうか。今後の検討課題であると考えている。

12月の例会=報告

12月例会
令和元年12月21日(土)

明治三年の危機・新潟通商司
国立歴史民俗博物館プロジェクト研究員 青柳正俊 氏

<講演要旨>
 「新潟通商司」については、ほとんど知られていない。『新潟開港百年史』や『新潟県史』の記述も正確とはいえない。これは資料の不足によるものである。確かに、日本側の資料は少ないが、これまで知られていなかったイギリス外交文書を丹念に見ることで通商司の問題を正しくとらえることができる。本日は、イギリス外交文書を中心に読み解くことにより、実際に新潟で何が起こっていたかについて話したい。
 明治2年12月に新潟通商司及び新潟商社が設置された。しかし、翌3年7月に新潟通商司は撤退するに及んだ。設置された期間はわずか七か月に過ぎない。この間の経緯をみていく。明治3年初め、新潟通商司及び新潟商社はこの地の商業秩序の改革に着手する。布告類を発し、「新たな商法」が始まった。これに対し、新潟港の動揺が顕在化する。地元商人らの嘆願にもかかわらず官員・商社が強圧的に施策を強行し、その結果、二度の商業活動の麻痺状態を含む少なくとも二か月以上の混乱が続くこととなった。
 この間、外国領事から新潟県への抗議も誘発された。ただ、この時点までは事態は新潟での動きにとどまっていた。だが4月に入ると東京へと波及する。外国領事からの抗議の報告を受けた中央政府は「書面へ下ケ札」をしたため、布告類を改めるべきことを明示した。並行して、中央政府とイギリスとの度重なる談判が行われた。
 談判後、イギリス領事は新潟での新たな商法が適宜に是正されたと認識した。しかし、新潟では通商司・商社が県布告を上書きする告知を掲げた(「商社門前の掲札」)。新潟ではなおも「新たな商法」が継続しているらしい、という報に接したイギリス公使パークスは外務省への事実確認に加えて書記官アダムズを急遽新潟に派遣した。こうして、不意打ちに近い談判が行われた。アダムズは3月の「触書・覚」の撤回を求め、県はこれに応じ「取消し布告」を発した。
 しかし、県では中央政府からの適切な指示がないなかでアダムズからの叱責に晒されたことへの強い不満があった。アダムズの追及に対して弁解したが、政府は一切取り合わなかった。結果として新潟通商司は撤退を余儀なくされ、事態の幕引きが行われた。三条西県知事が更迭され、本野大参事の問責が行われた。ここで、本野大参事はどこまで知っていたのかが問題となる。パークスは本野の非を追及したが、本野はこれを否定し、明治政府は本野擁護に徹した。結局、本野問責は未決着に終わった。
 いまだ解明すべき課題は多いが、交易活動の活発化が期待された開港2年目の矢先を襲った通商司政策は、以降の新潟港低迷を決定づける要因の一つではなかったか。

11月の例会=報告

11月例会
令和元年11月16日(土)

青年民権家山添武治と5人の子供たち
新潟県立文書館嘱託員  横山 真一氏

〈講演要旨〉
 明治期に自由民権運動と新聞事業に取り組んだ山添武治とその家族の“ファミリーヒストリー”をたどることによって、明治・大正・昭和の新潟県の歴史を考えてみたい。

1 山添武治―自由民権と新聞事業-
 山添武治は、万延元(1860)年西蒲原郡金巻村に生まれ、明治13~20年代にかけて自由民権運動に参加。15年2月には東京から県下に檄文を発送し、「自由制度の確立、人民の権利定着、自治の元気培養、国の活発化、国家の安定、日本の五大陸への発展」を訴えたが、24年師と仰ぐ山際七司が死去すると、政治活動から退く。29年に庄内藩士黒崎与八郎の三女柱(ことじ)と結婚した。明治30年以降は、新聞経営に従事『新潟日報』『新潟中央新聞』『新潟毎日新聞』を発行し、新潟県の新聞事業発展に貢献した。

2 山添柱(ことじ)-キリスト教と子供の教育-
 明治29年に17歳で36歳の武治と結婚し、不在勝ちの武治にかわり家を守り、36年にキリスト教に入信し、心の支えとするとともに、西洋の学問に関心を高め、庄内藩武士の家庭の教育熱心な気風から、子供たちの向学心と自立心を育んだ。「自慢・高慢、馬鹿の内」が柱の口癖だった。

3 5人の子供たち-個性豊かで、バラエティーに富んだ人生-
 武治の5人の子供たちは、それぞれ個性に富んだ人生を送った。
 長男武(たけし)は、新潟中学校水泳部時代に近代泳法(クロールなど)取り入れ、東京帝大法科卒業後、イギリスの学者・政治家ブライスの『近代民主政治』を翻訳し、晩年は現東京青梅市の山荘で自給自足生活を送った。
 長女孝(こう)は、新潟高女時代には短歌を親しみ、大正12年に中村為治と結婚。為治は大学教授・石川島芝浦タービンなど職業を転々とした。昭和20年に乗鞍に疎開して、自給自足の生活を送った。
 二男直(なおし)は新潟中学時代に投石で左目を失明するも東京帝大経済学部へ進み、新人会入会社会主義思想に触れ、全日農の運動や小作争議を支援したり、新潟毎日新聞社の労働争議で抗議文を小柳社長に提出したり、しばしば警察に検挙された。昭和5年から東横電気鉄道会社に勤務した。
 三男三郎は新潟高等学校から新潟医科大学へ進学、昭和14年満蒙開拓科学研究所員として白系ロシア人のロマノフカ村を調査し2百枚以上の記録写真を残した。北京大学医学院教授時代に2回応召するも、21年に復員し三菱美唄労働科学研究所研究員として炭鉱夫の健康調査に携わった。また、医学生時代からのエスペラント語の知識で昭和6年に『エスペラントの誕生』を翻訳し、平成13年に92歳で『英語・エスペラント語医語辞典』を完成した。
 次女正(まさ)は、昭和3年に二葉幼稚園経営の斉藤家の養女となり、新潟高女から東京音楽学校甲種師範科へ進み優秀な成績で卒業後、石川県羽昨(はくい)高女へ赴任するも病で休職し、その後北海道滝川高女に赴任した。戦後は英語教師の資格を取得し、音楽と英語の教鞭を執った。勉強家でエスペラント語の習得にも励み、晩年までスキーを楽しみ、ヨーロッパやアメリカへ何度も旅行をした。山添家で一番活発で人生を楽しんだ。
 山添家では、武治と柱(ことじ)のしっかりした人生観により、貧しさを苦とせず、高い教養を身に付けてもそれに満足せず、社会に積極的に貢献することをめざした。5人は学問・スポーツ・思想・旅・言語など自由闊達に人生を謳歌した。その豊かな“ファミリーヒストリー”をたどることは、新潟県の近代家族史の一側面をたどることと言ってもいいだろう。

9月の例会=報告

9月例会
令和元年9月21日(土)

新潟の明治開化期イギリス人宣教医師パームの生涯と業績
蒲原 宏氏(本会名誉会員・日本歯科大医の博物館顧問)

〈講演要旨〉
 明治初期に来港した外国人医師には、ウイリス、ホイラー、ビダール、へーデン、フォック、ホルテルマン、パームがいるが、一番長く新潟に居り大きな医学実績を遺したのはパームであった。パームはイギリス人、1848年1月22日セイロン島コロンボで生まれ、エジンバラ大学医学部卒業後、エジンバラ医療伝道協会に属し、キリスト教海外伝道医師として1874(明治7)年に来日、翌年4月15日に新潟来住、1883(明治16)年9月30日に去るまで8年6ヶ月医療伝道を行うとともに医学的な調査研究、資料蒐集を行った。
 1874年に結婚したメアリー・アンダーソンは翌年の出産時に母子とも亡くなり、新潟在任中の1879年にイザベラ・カラスと再婚、1882年娘メアリーが誕生している。
 新潟での医療伝道をみると、明治8年湊町3之町ワイコフ宅、同10年本町通西側吹屋小路下(借地名陶山昶)、同13年秣川岸2で大火に遭い、同14年南浜通2で大畑病院を開業している。大畑病院ではリスター式消毒、看護師養成、クル病・脚気・ツツガムシ病の報告を行っている。明治11年8月13日付けのパームの診断書が残っている。
 またパームに学んだ16人の日本人医師がわかっており、その範囲は大畑病院(パーム病院)・長岡・中条・水原・佐渡相川と広がりを見せている。パームは1878年に「ツツガ虫」、1884年に「日本の脚気研究」、1890年に「クル病」と日本の病気についての論文を発表し、クル病については日照不足(紫外線)が主に関係していることを初めて提起している。明治期に発表されたパームの論文は現在においてもその意義が継続している。
 私はパーム研究についてエジンバラ医療伝道会に照会し、1972(昭和47)年のロンドンでの国際医学史学会でTOM.RR.TODP医師と会って伝道協会本部のテスター医師を紹介され、パームの書簡等を発見、借り出すことができた。そのなかに新潟での医療現況を著した1883(明治16)年「医療宣教の現況」を発見した。パームは帰国後、イギリスの4カ所で医療活動をし、19の論文を発表した。全英の医師名簿によると1928年に名前がみえないことから没年と考え(1928年1月11日没)、4カ所最後のケント州エレスフォード村の教会、墓地を調査し、現地の老人の助けも借り夫妻の墓とリバーサイドの旧跡を訪問することができた。また昭和52年には最初の妻メアリーと嬰児の墓を横浜山の手外人墓地で発見した。
 昭和47年9月に「パーム先生終えんの地を訪ねて」を新潟日報に寄稿。その後パームの娘アグネスからの手紙が届き、同年10月末にロンドンを訪れパームと家族の写真等を見せていただいたが、彼女も昭和52年4月に95歳で没し、パームの家系は途絶えた。
 私は今後、伝道会を脱退した背景となった「進化論者の信仰」の翻訳を課題として、教会人としての生命を自然科学者(医師)として断ち切ったパームの業績に迫りたい。

8月の例会=報告

8月例会
令和元年8月17日(土)

「開港場新潟」展を観る
新潟市歴史博物館学芸員 若崎 敦朗 氏

<講演要旨>
 今日は「開港場」というテーマでお話ししたい。まずはじめに文久2(1862)年発行の地球万国全図という木版刷りの地図に注目したい。日本人の木版技術の高さを示す一例であるが、この地図が頒布されていたことは、日本が当時すでに世界資本主義、市場世界に放り込まれていたことを意味している。
 新潟が開港五港の一つに選ばれた要因として新潟上知をあげることができる。天保14(1843)年新潟町が幕府領となったが、幕府のねらいは日本海側での異国船対策の拠点整備と、新潟町からあがる巨額の貢納金獲得にあった。初代新潟奉行川村修就は非常な能吏で、また砲術の名人であった。砲台の設置や大砲の鋳造など関連史料が残されている。
安政の五カ国条約により開港が決定されたが、新潟の開港は繰り返し延期された。それは激動する国内情勢とともに開港準備の不備によるところが大きい。慶応4(1868)年北越戊辰戦争により新潟町は戦禍に見舞われ、町は奥羽越列藩同盟の軍事拠点となり、町民は戦闘から逃れるため近郷へ避難した。
 戦争終結後新政府が樹立され、まもなく新潟は県庁所在地、県都となった。そして開港にともない新潟税関や新潟灯台がつくられ、外国との貿易が開始された。しかし、港をとりまく環境不全、冬の風波が強く水深が浅い等々から、大型船の入港は困難で貿易は不振といわざるをえなかった。それに対し国内物資の移出入は盛んで、とくに米、焼酎などが北海道へ移出された。焼酎を入れる容器として松郷屋焼の徳利が活用された。
 明治5年新潟県令として着任した楠本正隆は、外国人がみても恥ずかしくない新潟町をめざして開化政策を推進した。町名をわかりやすく変更し、高級住宅、白山公園を造成し、断髪の徹底や盆踊りの禁止など風俗の統制を進めた。同13年新潟に大火が発生し六千戸以上が焼失、近代的建築も含め新潟の町は大きな被害をうけた。
 しかし、19年萬代橋が完成、30年沼垂駅開業、31年電灯開始、32年上野・沼垂間開通、34年電話開始、そして同年新潟で一府十一県連合共進会が開催された。それは開化した新潟の街を示す絶好の舞台となった。共進会場に出品された「新潟名所すごろく」には、新潟県庁、県会議事堂、警察署、郵便局などが描かれており、共進会の主催地にふさわしい、都市化された新潟の状況が見事に表現された作品の一つになっているといえる。
(講演会終了後、講師の案内で企画展を観覧した。)