7月の例会=報告

7月例会
平成30年7月21日(土)

「にいがた船と港の150年」展を観る
新潟市歴史博物館学芸員 藍野 かおり 氏

〈講演要旨〉
 当館では港に関する展示を何回か行ってきたが、今回の展示は船と港について、その形から見てみたいと考え企画したものである。
 「西洋形船舶留記」という水戸教の伊藤家が書き残した西洋型の船の入港記録がある。ここには船の外形が描かれ、船型、積荷、経由地、入港日、出港日などが記されている。たとえば工部省明治丸は明治7年イギリスで造られ、灯台が設置されているかどうか点検のための船であった。直江津を経由し明治27年新潟に着いている。また同20年の記録には、函館を経て新潟港沖に投錨したフランス軍艦ヴィペール号と、それに向かっている水先船がともに描かれている。
 新潟港は開港したからといって港の形が変わったわけではない。近世以来信濃川左岸が港であった。港口は浅瀬が多く水深が一定でなく、出水のたびに洲の場所が変わった。そのため大型船は沖合に停泊し、艀による荷物運搬が新潟港の姿であった。浅瀬や風浪のためしばしば海難事故が発生した。そもそも新潟港には風や浪をよけることのできる場所がなく、佐渡夷港を補助港として開港された経緯があり、新潟・夷両港を新潟丸・北越丸が荷物運送船として往復した。
 明治10年代後半から新潟近海では地元資本による定期的な航路運航が行われた。越佐汽船などにより佐渡夷、直江津、酒田、北海道へと航路の拡大がはかられた。また明治末からは北洋漁業が本格化していった。とくに明治40年日露漁業協約が結ばれ、「日本国臣民ハ……露西亞国臣民ト同一ノ権利ヲ享有スヘシ」と取り決められたことが大きい。このような背景の中で明治期、新潟の人々は近代的な港を造ってほしいと請願を続けていたが、それはながく無視されたままであった。
 大正3年になると沼垂側での埠頭建設計画が決定。同6年工事開始。同10年築港事業は県の事業となり、同15年第一期工事が完成した。同時に私営の臨港埠頭が使用を開始し、やがて両埠頭ともに石炭、木材などを取り扱うようになっていった。
 県営、臨港両埠頭築港後、定期航路も増えた。昭和7年から大連―裏日本線として大連航路が就航。そして上越線経由で東京―新潟―北鮮―新京の経路が最短となることから、同10年新潟―北鮮航路が政府指定航路となり、13年からは最新鋭船月山丸が就航した。
 現在大型クルーズ船の誘致合戦が激しさを増している。東港では17万トン級のクルーズ船が入港できる施設を整備。大型化するクルーズ船をいかに受け入れ可能にしていくか、新潟港としてもその施策が検討されている。
(講演会終了後、藍野かおり氏の解説により企画展を観覧した。)



5月の例会=報告

5月例会
平成30年5月20日(日)

北方文化博物館と沢海の風景―伊藤家八代の260年―
北方文化博物館長・本会会員 神田 勝郎 氏

〈講演要旨〉
 昭和21年に北方文化博物館が発足し、今年で72周年になる。本日は当館の「営業マン」のような感じでお話ししたい。
 江戸時代のはじめ「相見」と記された史料があるが、正保日本図(1644年)には「澤海」とあり、沢海藩が成立した慶長15年ころには「沢海」地名となっていた。
 沢海藩は新発田藩主溝口秀勝の次男善勝により誕生した藩で1万4千石。四代まで続いたがお家騒動で廃藩となった。旧沢海藩領は一時幕府領となり、宝永4(1707)年から旗本小浜家が支配した。小浜家の御用達商人となった文吉家は、宝暦6(1756)年仙蔵の倅安蔵が文吉家の養子となり中興し、妻のきよとともに蓄財をなし、伊藤家経営の基礎を築いた。そして二代、三代、四代がさらに伊藤家を盤石なものにしていった。
 五代文吉は明治15年邸宅建築のため土木工事に着手。良質の杉材を只見川上流部から購入し、店と茶の間、入母屋二階建の主屋、土蔵門、座敷等を建築し、同20年に完成させた。国語伝習所を卒業した六代文吉は、旧高柳村岡野町の名家村山吉次郎の二女真砂と結婚、三日三晩の披露宴であった。惜しくも彼は同36年33歳の若さで他界した。
 伊藤家は代々信用の厚い金融業者として大口の金融を扱い、巨大地主として成長した家である。昭和19年には1372町歩を所有し、その面積は新潟県第一位であった。
 七代文吉は明治29年生まれ。慶応大学に進学するも中退し、アメリカのペンシルバニア大学へ留学した。卒業後もアメリカで見聞を広め大正14年に帰国した。戦争終結後の昭和20年9月、新潟軍政部民間情報教育部長としてライト中尉が着任、10月に伊藤家を訪れている。このライト中尉と七代文吉がペンシルバニア大学の先輩、後輩という縁から相互理解が得られ、日本初の私立博物館構想が実現した。それが北方文化博物館である。
 ライト中尉は同24年アメリカに帰国したが、八代文吉は当館設立の恩人ライト中尉探しに乗り出し、幸いに同60年アメリカに行きライト中尉と会うことができた。地元紙は「大海に落としたコンタクトレンズを探し出すような奇跡の再会」と報じた。
 アメリカ国立公文書館の憲法通りに所在する女性像の台座には、「遺産」(ヘリテージ)と題して「過去の遺産は将来の稔りをもたらす種子である」と刻まれている。今後も北方文化博物館という「遺産」を広く公開し、あるがままの農村文化を多くの来館者に体験してもらいたいと願っている。

4月の例会=報告

4月例会
平成30年4月21日(土)

明治の新潟にあったドイツ領事館
新潟県立近代美術館副館長・本会会員 青柳 正俊 氏

〈講演要旨〉
 明治の新潟にあった外国領事館の中で、一番長く新潟に所在していたのはドイツ領事館である。しかしその具体的な内容については不明な部分が多い。今日は私が調査をしてわかったことをお話ししたい。
 新潟のドイツ領事館は明治2(1869)年9月から同15年10月まで続いた。新潟居留のドイツ商人が何人かいたが、その一人のライスナーが貿易商人であり同時にドイツ領事に任命されていた。当時商人であり領事であるという例は珍しくなかった。
 ライスナーは同2年9月横浜から新潟に来た。当初は同国人ウェーバーと共同で交易活動を営んでいたが、同7年仲違いのためかライスナー商会として独立した。「新潟新聞」から同商会が大量の買米を運び出している記事や、火災保険の代理業を営んでいる記事を見ることができる。彼は同15年7月新潟港を出港し、同年8月横浜港から帰国した。
 ライスナーがどのような人物であったのか、私は何回かドイツへ調査に行ってきた。彼の手紙などを手がかりに、フランスに近い絹織物業が盛んであったクレーフェルト市の文書館に行き、また彼の弟の三代後の子孫に会うことができた。子孫の家にあった家系図などから、彼が有力商家の一員であり、父親がクレーフェルト市長・郡長を長く務めた官吏であったことを知ることができた。そして彼の母親のヘーニンクハウスと、同11年から15年まで新潟に居留していた商人のヘーニンクハウスとは、おそらく親戚関係ではないかという可能性も想像できた。
 4年前ドイツに行き調べたところ、ライスナーが毎年新潟からドイツ本国へ年次報告書を送っていたことがわかった。報告内容は二種類あり、一つは新潟県庁に連絡した内容をまとめた館務報告、もう一つは米がどのくらいとれたかなどをまとめた商務報告である。
 報告書には様々な内容が記されているが、たとえばドイツ公使が同14年本国外務省に送った報告の一つに、新潟は「開港としての意味を失い」、港の施設の「工事は当分望めません」などと記された文章がある。すでに外国公使が、政府は新潟港を良くしようという意思はなく新潟の発展はないであろうと考えていたことがわかる。このような外国人の認識の背景の中で、新潟港が次第に閉ざされていくことになったのではなかろうか。
 新潟のドイツ領事館は、前半は本町通七番町に、後半は下大川前通三の町にあった。新潟はまもなく開港150年を迎える。その記念としてドイツ領事館跡地に記念碑を建立したいと考えている。記念碑建立に多くの皆様からご協力いただければ大変ありがたい。

3月の例会=報告

3月例会
平成30年3月17日(土)

「江戸幕府編さん史料に新潟市域に住む人々の姿を読む-「孝義録」「続編孝義録料」を基に-」
新潟市総合教育センター嘱託指導主事 後藤一雄 氏

〈講演要旨〉
 「孝義録」や「続編孝義録料」は、江戸幕府から善行のために表彰された人々を一覧にした史料である。前者は享和元(1801)年に全50冊で刊行された。後者はその続編(以下の呼称)にあたり、老中牧野忠清(長岡藩第9代藩主)が文化4(1807)年に全国に書上げを命令、嘉永元(1848)年に整理は完了するが刊行には至らなかった。現存の90冊が国立公文書館に保存されている。
 表彰徳目は、孝行が主で忠義・奇特・家内睦者・貞節・農業出精などがある。民衆教化政策の一環ととらえることができるが、続編になると収納物篤実・介護・養育・幕府献金・父探索・村方支援・普請などの徳目もみられ、時代背景の違いなどを伺うことができる。
 後藤氏は、孝義録の越後佐渡の掲載人物446人(内女性118人)、続編576人(内女性144人)という膨大な史料を整理分析し、特に看過されがちな女性史の視点から再構築し、さらにこの中から新潟市域の史料を例示してお話を展開された。
 まず「三島郡尼瀬町ゆり」と「蒲原郡村山村(弥彦村)つじ」の二人の女性をあげる。「ゆり」は寛保2(1742)年に掲載されたものであるが、「越後孝婦伝」として宝暦6(1756)年刊の「越後名寄」に引用され、嘉永7(1854)年・安政5(1858)の版で単著としても流布していた。「つじ」は元文4(1739)年に示達があり、甲斐の孝女と合わせ「越後国甲斐国孝女伝」として同年に版行されている。
 さらに氏は、表彰者を越後佐渡の支配別、郡別、身分別、男女別、年令別にも分析され、特に女性の占める割合をみると25%程度であると報告された。小・中・高の教科書に掲載される女性の頻度と比較すると割合が高いとの見解が表明された。
 最後に具体的な評伝内容が紹介され、多少類型化な表現も見請けられたが、各藩・代官所などが申請するに当たり熱意を持って表現している事例も伺えた。表彰だから定型の叙述であるとの先入観を超え、評伝内容の検討をとおして社会の変遷や庶民生活の実態にも迫り得る史料として活用できるとの見解は首肯しうるものであった。

2月の例会=報告

2月例会
平成30年2月17日(土)

「画家・川村清雄と越後」
新潟市美術館学芸員 藤井 素彦 氏

〈講演要旨〉
 川村修就は初代新潟奉行として有名であるが、その孫が清雄である。清雄の高祖父川村修常は元紀州藩士で、八代将軍吉宗の御庭番として紀州から江戸へ来た17人の一人である。有力な幕臣であった川村家は修富・修就・帰元と続き、帰元の長男として清雄が嘉永5(1852)年江戸で生まれた。
 清雄が10代~20代のころ、幕末から明治初期にかけては、今までの秩序がひっくり返され、侍の時代は終わったという激動の時代であった。そのことが清雄に与えた影響は大きい。元将軍家徳川家達は駿府に下ったが、奥詰として清雄も駿府に下向した。彼はこのような時代であるからこそ外国へ留学したいと徳川家に願い出、その願いはかなえられた。清雄が20歳のころにアメリカで撮った写真を見ると、彼の目の輝きが印象的である。清雄はアメリカ、フランス、イタリアに行った先々で絵画の修業をしている。英・仏・伊語を巧みに使って学び、華麗な青春時代を海外でおくっていたと考えられる。
 清雄はヨーロッパから離れたくなかったが、明治14年日本に帰国した。帰国後大蔵省印刷局彫刻技手となったが、すぐに辞職した。辞職後の窮状を救ったのが勝海舟である。勝は自分の屋敷の一角にアトリエをつくってやり、歴代将軍像を描くよう取りはからってくれた。勝の何回かの催促によりようやく完成した「家茂像」を見て、勝は「そっくりだ」と言ったそうである。清雄は遊んでいるようで実はしっかりと取材をしていたのである。
 清雄の絵は和洋折衷といわれるが、彼にとって明治11年のパリ万博は重要であった。出品された日本の美術品は侘び・寂とは無関係な、漆や蒔絵などの高度な技術が駆使された立派な作品で、清雄に与えた影響は大きい。明治23年勝海舟死去後、清雄は「形見の直垂」を描いたが、この絵はいわば清雄の自画像で、清雄と勝との関係には強いものがあった。
 勝の曾祖父は今の柏崎から江戸に出て検校の位を得た人である。勝や清雄と親交のあった政治家波多野伝三郎は旧長岡藩士の子供である。豪農市島春城は清雄の「ヴェニス風景」を残した。与板の豪商三輪家11代潤太郎は政治家でもあったが、彼の妹テイ(貞子)は明治25、6年ころ清雄と結婚している(27年離婚)。この三輪家の楽山苑・楽山亭には明るい空間を感じとることができる。西洋の文明を経験した数寄屋趣味とでもいうような、おそらく清雄の趣味がうまく生かされた建築物ではないかと、私は想像している。

新春講演会=報告

新春講演会
平成29年1月14日(日)

越後堀氏と堀直知―「上杉遺民一揆」を考える―
東京大学史料編纂所学術支援専門職員 杉山 巖 氏

〈講演要旨〉
本日は新潟の近世社会の前提となった堀家の時代の歴史的意義についてお話ししたい。とくに慶長5(1600)年に起きた上杉遺民一揆について、その後の社会に与えた影響も含めて考えてみたい。
堀家には堀久太郎家と堀(奥田)監物家の二つの家筋がある。久太郎家は美濃国の武士で織田信長に仕え、信長死後秀吉にも仕え、慶長3年越前国北庄から越後国へ移封となった大名家である。この時堀直政(監物家)、そして与力大名の村上氏、溝口氏らも越後へ移ってきた。堀監物家を興した直政(直寄の父)はもと奥田姓で、堀秀政(久太郎家)の娘を妻とし堀の名字を与えられた久太郎家の重臣であった。つまり二つの堀家は主従の関係であった。
慶長11年堀秀治(秀政の子)死後、子息の吉五郎は元服前であったが、監物家の直政が補佐し、彼が松平吉五郎忠俊と名乗れるまでに成長させた。しかし忠俊は家中を治めることができず、直政死後、直政の子供二人の兄弟喧嘩が起こった。幕府による裁定が下され、忠俊と兄の直知が処罰され、弟の直寄はお咎めなく信濃国飯山城主に移動を命じられた。直寄はその後長岡城主、村上城主となり、越後の近世社会の基礎を築いた人物として高く評価されている。
直寄の兄の実名は、系図によれば直次、または直清と記されている。当初は雅楽助を名乗り、父直政死後は監物を名乗ったが、どの時代の文書を見ても直知と署名している。彼の実名は直知で、直次、直清ではない。
上杉遺民一揆については、新領主となった堀氏の新税賦課に反発する農民たちが上杉氏の時代を慕い、これに乗じた上杉氏の扇動により広がった一揆、そして堀直政らの尽力により平定された一揆と通説的に理解されている。天正・慶長年間、領主の交替と百姓・町人の移動を原因とする大規模な一揆が発生しているが、上杉遺民一揆もその一つと考えられる。社会に与えた影響は大きく、越後堀氏は在方・町方の権利を大きく認める領主として認識されるようになった。とくに新潟町の場合、元和2年に出された直寄の法令を、在方・町方の人々は領主と交渉する際、「堀家から与えられた諸役免除の特権」として最大限に利用した。
郷土史や地域史研究の課題は、その地域のみを考えるのではなく、また日本史や世界史の枠組みをそのまま当てはめるのではなく、地域の歴史資料の分析や研究を通じて、規定の枠組みに再考を促すようなその姿勢が大切ではないかと考えている。

講演会終了後、恒例の新年会が行われました。当会名誉会長の篠田昭新潟市長の代理として、歴史文化課長藤井希伊子氏から激励のご挨拶をいただきました。

12月の例会=報告

12月例会
平成29年12月16日(土)

「ワンダーランド近世新潟町」
新潟市歴史博物館学芸員 小林 隆幸 氏

〈講演要旨〉
江戸時代の新潟町がどのような町であったのか、どのような姿であったのかを見てみたいと考え、「ワンダーランド近世新潟町」を企画した。近世の新潟町を理解するうえで重要なポイントは次の4点であろう。
1.浜を山手という。
2.通りが流れと同じ弧をえがく。
3.海岸からの砂が吹き積もる。
4.沈下しては盛り上がる。
この新潟町は戦国時代にはじまり、今よりも西方にあったようであるが、江戸時代には現在地に近い場所に移転してきていた。400年前の元和3(1617)年長岡藩主堀直寄によって拡張、整備され、その後明暦元(1655)年大きな中州になっていた寄居・白山島に移転した。現在の市街地はこの時に移転、整備された町割りを引き継いでいる。
江戸時代の新潟町の姿は絵図など当時の記録からうかがえる。元禄11(1698)年蒲原新潟立会小絵図や享和元(1801)年頃の新潟絵図を見ると、通りが信濃川に沿って弧を描き、川に沿って町がつくられ堀がめぐらされていることがわかる。品物を載せた小舟が堀を通じて町のいたるところに着くことができたであろう。江戸時代の新潟町は町全体が一つの湊であった。
また、川に沿って延びた通りに面して短冊状に割れた屋敷地が並び、川に近い通りに有力商人の店や問屋が、その奥に職人の店や旅館・料理屋などが、そして一番奥に寺が並んでいる町の構造も知ることができる。
長谷川雪旦の「北国一覧写」には、料理屋での宴会の様子、雁木の町家、障子戸の家、観光スポットにもなっている日和山等、当時の新潟町の具体的な姿が描かれている。
最近、市街地の地下深くから江戸時代の町跡が見つかっている。屋敷跡のほか、多くの焼物や当時の生活用具が出土している。最初に遺物が確認された広小路地点では、地下1.5メートル付近から建物の基礎が見つかった。深い場所から遺物が見つかる原因は地盤沈下のためであろう。広小路地点での調査では、10回以上も土盛りをして屋敷地をかさ上げしている状況が明らかになっている。

明治に入り、楠本県令によりさらに新潟町の整備がなされ、町並みは近代化し変化していった。2019年の新潟開港150周年を目前に、当時の絵図や発掘調査の成果を持ち寄って、江戸時代の新潟町の様子を浮かびあがらせてみることが、今回の企画展の趣旨である。
(講演会終了後、講師の案内で企画展を観覧した。)



11月の例会=報告

11月例会
平成29年11月18日(土)

縣立新潟工業学校「學徒日記(昭和十七年度)」を読む
本会会員 石橋 正夫 氏

〈講演要旨〉
縣立新潟工業学校は昭和15年に新潟師範学校内で開校、17年新校舎完成(現日本歯科大学)、21年新制高校の新潟県立新潟工業高等学校となった。
「學徒日記」は、昭和16年に編集・印刷され、生徒が購入したものである。
内容は「五箇条の御誓文」「教育勅語」「開戦詔書」「紀元節詔書」などや年間行事、生徒心得などである。
特徴的な内容としては、「皇国頌」(こうこくしょう)という「愛国百人一首」の中から抜粋された和歌が掲載されている。「愛国百人一首」とは、川田順が雑誌『キング』に連載した古代・中世・近世の歌人・武家や、幕末から日清・日露期までの百首を選んだもので、柿本人麻呂・菅原道真・源頼朝・豊臣秀吉・大石良雄・吉田松陰・西郷隆盛、与謝野鉄幹、軍人では梶村文夫・乃木希典、女性では野村望東尼・松尾多勢子・遊君桜木などの愛国歌から選出されている。翌年には大日本文学報国会が「愛国百人一首」を佐々木信綱・斉藤茂吉・折口信夫らを選者として東京日々・大阪毎日・朝日など大新聞に発表している。大石・西郷らは削られ、徳川光圀・有馬信七・高杉晋作・僧月照らが掲載されている。開戦後であり、全体として「愛国、国威発揚」が前面にでて、君・大君・君が代・天皇という語が入る歌が増えている。
講演では、「學徒日記」の「皇国頌」から橘諸兄・源実朝・梅田雲浜・月照・平野國臣など30首を取り上げ解説した。本居宣長の歌を取り上げて、16年版では、「さし出づる この日の本の 光より 高麗もろこしも 春をしるらむ」だが、17年版では「敷島の 大和心を 人とはば 朝日ににほふ 山桜花」に替わっている。いずれも本来の宣長の意図とは別に16年版は「日本の威光を朝鮮・中国に知らしめる」と、17年版は「桜のようにいさぎよく命を散らす」と曲解して国威発揚と愛国精神を鼓舞する意図があると分析している。また、「愛国百人一首」は17年以降、山田耕作などの有名作曲家によりメロディーが付けられて、教育現場で皇国精神高揚のための小学唱歌として歌われることになったと指摘している。さらに、山本五十六が真珠湾攻撃の直前の16年12月3日に「大君の 御楯とただに 思ふ身は 名をも命も 惜しまざらなむ」の歌や「皇国頌」の末尾の兵士の歌「父の子ぞ 母の愛子ぞ 御軍に よわき名とるな 我が國の為」などを紹介して、戦争になだれ込んでいく時代精神を解説した。
講演では、様々な写真資料が活用され、戦中から戦後にかけての学生生活や学校建設のようすがわかりやすく再現されていた。なお、講演に使用された資料は、長橋昭一郎氏と渡辺馨一郎氏より御提供いただいたものである。

9月の例会=報告

9月例会
平成29年9月17日(日)

都からみた越国
本会会長 伊藤 善允 氏

〈講演要旨〉
天地開闢からときおこす「古事記」「日本書紀」は、8世紀に編纂された歴史書である。編纂された歴史ということから、編纂当時の貴族の意識が反映されており、そのまま史実とみることはできない。今日は「古事記」「日本書紀」の記述を追いながら、そこに描かれている古代の世界、そして編纂者たちの意識をさぐっていきたい。
国生み神話について、日本書紀は「一書に曰く」として異なる伝承を多く載せており、「島生み神話」がもとになっているといわれている。佐渡は必ず出てくるが越国が出てこない伝承もある。越も島として認識されており、未知の、未開の世界として意識され、山々をこえたかなたにある「大倭豊秋津島(大日本豊秋津洲)」とは別の概念の地ととらえられていた。
大彦命が高志道(北陸)に派遣されたとする四道将軍の話は、大和王権の勢力拡大の過程で生まれたとされており、出雲国風土記には大穴持神が「越の八口」を平らげたとする伝承がある。越後国風土記逸文にみえる「八掬脛」は「土蜘蛛」と同類で大和王権に服属しない存在であった。ヤマトタケルの東征阿倍比羅夫の北征にみられるように、貴族の認識としては、日本列島は弧状ではなく東に蝦夷がおり、越は北の地ととらえられていた。
八千矛神の沼河比売求婚の話は、越後国風土記逸文にみえる「八坂丹」は青八坂丹の玉すなわちヒスイを求めての話ともいわれており、また、出雲国風土記に越国に関する伝承がみられ交流があったことが知られ、日本海沿岸に気多神社あることなどから「気多政治圏」があったとする説もある。
「古事記」「日本書紀」について、歴史学・神話学・国文学・民族学・民俗学など様々な立場からいろいろな解釈がなされており、どれが正しいのかよくわからない。研究という立場を離れて神話・伝承を「物語」として読んでいくと、また違った楽しさ、おもしろさをみつけることができる。

8月の例会=報告

8月例会
平成29年8月20日(日)

新潟県内の道路元標―保存にむけて―
本会会員 渡辺 等 氏

チベット・カイラス巡礼の旅
本会会員 小熊 英雄 氏

〈渡辺等氏の講演要旨〉
道路元標は大正年間、全国の市町村に置かれた道路の起点終点を示す石柱である。大正9(1920)年の第1回国勢調査報告によれば、新潟県の自治体は3市43町369村、合計415の市町村があった。そのうち私が現地を探訪して確認することができた道路元標は、平成29年6月30日現在総計207基で、内訳は残存しているもの179基、土中に埋まっているもの2基、以前あったというもの26基で、確認率は49.9%である。
私が道路元標に興味を持ち始めたのは、旧松ヶ崎浜村で「気になるもの」に出くわして写真におさめ、それが「道路元標」というものであると知った時からである。さらに新潟県庁に問い合わせたところ、担当の方から熱心に対応してもらったことも大きい。過去の何回かの市町村合併により失われた道路元標も多いが、市町村の移り変わりを後世に伝える重要な資料の一つであり、調査し保存しなければならないと考えるようになった。
慶長9(1604)年日本橋脇に里程標を立てたのが道路元標の始まりと伝えられている。その後各地に里程標が立てられるようになったが、旧会津街道をはじめ一里塚が残されており、歴史保存の方策が考えられている。大正から昭和十年代くらいまでに生まれた人で道路元標を記憶している人がいるが、ほとんど忘れ去られた存在になっている。
私は県内の旧415市町村を訪ね歩き、半分ほどを確認できたが、今後も道路元標の調査、探訪を続けていきたい。

〈小熊英雄氏の講演要旨〉
私は平成6(1944)年、62歳の時にチベット・カイラス巡礼の旅をした。それは定年退職後の一つの願いでもあった。4,000~5,000メートルの高原の旅ということで医師の診察を受け合格し、全国から5名の仲間(うち女性1名)の一人として参加することができた。旅のきっかけは河口慧海師のチベット旅行記に出会ったことである。
日程は7月31日から8月24日までの25日間、行程は成田―香港―成都―ラサ―カイラス―カトマンズ―香港―成田の合計3,000キロ、徒歩52キロの旅であった。
チベット・カイラス山は信仰の山、巡礼地であり5色の祈祷旗が峠にたてられている。マナサロワール胡を見てインダス川の源流に行き、抜けるような青い空、そして虹の奥に聳えるカイラス山を見ることができた。ヤルツアンポ渡河に際しては水嵩が増え渡れないトラブルがあったが、地元の人びとから回り道を紹介してもらい無事通行できた。
私がカイラス山巡礼最高地点のドルラ(峠)を目指し、砂礫の坂道を歩き続け道端に腰を下ろしていた時、チベット族の親子が「元気を出して」と目で合図をし一かけらの氷砂糖を差し出してくれた。私は思わず「ありがとう」と両手でいただいたが、親子は何事もなかったかのように去っていった。貴重な氷砂糖を私に与えてくれた行為は「自利・利他」の行為であり、まさにお釈迦様の教えそのものではなかろうかと感じた。
私にとって冒険的要素の濃い旅ではあったが、貧しいけれど豊かな世界に生きる人びと、そしてそこであたりまえに生活している人びとに接し、忘れることのできない旅であった。