7月の例会=報告

7月例会
平成29年7月15日(土)

「乙女たちの歩み~新潟の女学校と女学生」展を観る
新潟市歴史博物館学芸員 藍野 かおり 氏

〈講演要旨〉
新潟市政令指定都市・区制施行十周年記念の企画展「乙女たちの歩み」展が今日オープンした。この企画展は、女学校や女学生を通して女性がどのように社会とかかわったのか、どのような役割を担わされたのかを考えてみようと、企画したものである。
展示内容を六つの章に分けてみた。「新潟における初期の女子中等教育」「開校した女学校での学びと暮らし」「設立が相次いだ高等女学校と新しい教育」「女学生の卒業後の経路」「戦争に向かっていく中での女学生の対応」「戦後の教育改革と女学校」―この六つを各章のテーマとした。
今日は高等女学校の制度とそれがどのように広がっていったのかについて触れてみたい。
明治32(1899)年高等女学校令が発布された。明治政府は「女子に須要なる教育を授く」場として、各道府県に道府県立の高等女学校を少なくとも一校開校させることを義務づけた。新潟県は同33年新潟市に新潟県高等女学校を開校させた。
同40年の「新潟県立新潟高等女学校規則」によると、修業年限は4年、尋常小学校卒業以上を入学資格とし、授業は週30時間、学科目は裁縫、家事科、教育、手芸などであった。男子の中学校で行われていた博物、法制、経済、実業の授業はなく、また英語、数学の授業時数は中学校の半分であった。
同43年高等女学校令の改正で、実学を重視する「実科高等女学校」の設置が認められた。その設置は地域の事情により高等小学校との併置が可能であった。
大正2(1913)年巻町に、同9年新津町に実科高等女学校が開校した。この2校は同年高等女学校に組織変更され、後に県立に移管した。同11年には亀田町、同12年には白根町に高等小学校併設の実科高等女学校が開校、新潟市でも同10年市立実科高等女学校が沼垂尋常高等小学校卒業に併設され、同14年高等女学校に組織変更、校舎が新設された。
このように明治・大正期、教育機会の拡大を望む地域の声に応じて「実科高等女学校」が設置され、それが組織変更されることによって「高等女学校」が広がっていった。同時にそのことが学校設備とともに女子教育の内容充実にもなっていったと考えられる。
今回の企画展で、女子教育や女学生の変わった部分と変わらない部分、この両方を見ていただけたらありがたい。
(講演会終了後、藍野かおり氏の案内のもと企画展を観覧した。)

5月の例会=報告

5月例会
平成29年5月21日(日)

小林存を追う
  ―新潟市学校町天神様の小林存歌碑をスタートに―
本会会員 大谷 晴夫 氏

〈講演要旨〉
新潟市学校町の天神様境内に、小林存の「里川にメダカ掬ひて遊びたる遙かなる日のまぼろしに立つ」の歌碑がある。これは田澤喜一氏が個人で建てた歌碑であるが、私は幼少の頃から学校町に住んでおり、また小林存も学校町に住んでいたということで興味を持ち、彼を追いかけている一人である。
今年は小林存生誕140年、没後56年になる。小林存の業績や人物像、年譜等々については、すでに多くの人々により明らかにされているが、私は彼の佐賀中学校教師時代の年代についてはっきりさせたいと思っていた。それは川崎久一『小林存伝』の年譜に「明治29年11月県立佐賀中学校の英語教師として赴任、31年同校を辞して帰郷」と記さているのに対し、大正12年2月4日発行の「東北時報」小林存「自叙伝」には「明治三十一年二月赴任、三十四年春辞職」と記されているからである。
そこで私は佐賀県立佐賀西高等学校(旧県立佐賀中学校)に問い合わせたところ、同校の「教員履歴」には「明治三十二年一月十六日赴任、三十三年六月十八日辞職」と記されているとのことであった。実際明治32年1月21日の「新潟新聞」に「小生今回佐賀県第一尋常中学校へ赴任し爾今左記の處に寓居す…佐賀市会所小路吉田方 一月二十一日 小林存」の記事があり、また佐賀県第一尋常中学校栄城会「栄城」第6号(明治32年4月30日発行)にも「小林存 佐賀県第一尋常中学校教諭心得ヲ命ス(一月六日)」とあり、小林存の佐賀中学校赴任は32年1月であることがはっきりした。私は佐賀市へ行き、彼の下宿先住所を確認し、感慨にひたりながら歩くことができた。
小林存の新潟居住地については何回かの転居があるが、昭和2年の「新潟新聞」記事に「学校町北辰学館向小路」、同9年の記事に「学校町二番町」とあり、昭和に入り学校町に居住していたことがわかる。北辰学館向は岡本小路近辺のことで、山田又一の随筆集『ひとりしずか』には小林存、山田穀城(花作)、広橋足穂が居住していた「学校町文芸小路」として紹介されている。小林存は昭和14年から19年まで(17年という史料もあるようであるが)町内会長を務めていた。
小林存一家の写真が残されている。「存さんは三世代いっしょに住んでいた。楽しく過ごしていた」と聞いている。今回は小林存の思想的中味に触れることができなかったが、今後も彼を追いかけながら究明していきたい。

講演終了後、この会に参加されていた蒲原宏氏(本会名誉会員)に、司会者より「小林存についての想い出などをお話しいただけたらありがたい」という要望があった。(以下、蒲原氏のお話の要旨)
小林存の活動や研究、業績を振り返ってみると、内容が多彩で豊富、いずれも優れたものである。特に民俗学の研究や「高志路」の編集、発刊には偉業というべき面があると思う。私は「高志路」の編集のお手伝いをしたことがあるが、どのようなやりくりで財政が執行されていたのか、今も不思議な感じがしている。おそらく小林存という「人間性」でやりくりされていたのではないかと想像している。
病気で倒れられた時、私は主治医の一人として当時の病院で治療に当たったことが印象深く思い出される。70歳前後から短歌を詠まれたが、短歌の面でも大変才能があったと思う。今あらためて偉大な人物であったと実感している。

4月の例会=報告

4月例会
平成29年4月15日(土)

村役人になるまで ―新発田領の村役人の〈勉強〉と往来物―
本会会員 杉山 節子 氏

〈講演要旨〉
私は旧大江山村(現新潟市江南区)出身で、父は田村順三郎である。父は365日調べものをし、常に原典にあたり古文書を読んでいた。私は父といっしょに周辺村々を巡りいろいろなことを教えてもらった。退職した今、父の想い出とともに歴史をやりたく図書館に通い研究しているところである。
新発田領では郡奉行・大庄屋の下、有力農民の村役人が村落行政に大きな力を持っていた。村役人は単なる「読み・書き・算盤」以上に行政文書を処理する能力が必要であった。村役人はどのようにその力を身につけていったのであろうか。田村家に遺された往来物を手掛かりに見ていきたい。
田村家は江戸時代の中期、宝暦11(1761)年より蒲原郡茗荷谷新田と江崎新田の名主を務め、藤山村の名主を兼務し幕末に至った家である。宝暦11年以前から藤山村の名主で大庄屋小林家の手代でもあった。
田村家の文書群は現在新潟市歴史文化課に所蔵されているが、この中に39点の往来物が遺されている。往来物とは往復書簡の形式をとった庶民教育の教科書である。遺されている39点の往来物を見ると、文字や単語、教訓、歴史、地理、農業など内容は多岐にわたるが、横越島周辺の地名が記され編集されたものがあり、これを手本にしながら周辺地域の状況を学んだのであろう。また「田村喜惣次 十壱才」と記されたものもあり、十代前半ですでに往来物を学んでいたことがうかがえる。さらに溝口家の三種類の法令集が記されているものや、地元寺院とのやり取りの手紙が記されたものもあり、往来物は地域の歴史をみていくうえで重要な素材を提供してくれる。
39点の往来物のうち33点が写本、6点が版本である。版本6点の中の一冊は水原で購入したもので、当時の大江山地区は書物に関して水原の商圏であった。また別の一冊には旧蔵者と思われる「水原上町 豆腐屋友七」の署名があり、田村家はこれを古書として水原で購入したものと考えられる。
その他にも、表紙の裏として横越組大庄屋建部・小林両家の連署状が使用されているものや、行間に「天明6(1786)年大水のために米価が高騰した」などの書き入れがなされているものもあり、多くの情報を読み取ることができる。
このように、各地、各家々に遺された往来物を比較研究することにより、地域の歴史を探る貴重な手掛かりが得られるのではなかろうか。

3月の例会=報告

3月例会
平成29年3月18日(土)

幕末、新潟湊廻船問屋の栄枯盛衰 ―若狭屋市平・前田屋松太郎の客船帳を読む―
本会会員 横木 剛 氏

〈講演要旨〉
幕末から明治にかけて活動し、北越商工便覧や色鮮やかな引札から名前を知られる廻船問屋前田松太郎。その前田屋が扱った廻船を記した客船帳(入船帳)の存在が近年になってわかった。その史料は安政期と明治初期それぞれ数年分のみであるが、そこからは諸国廻船と結びつく廻船問屋の具体的様子や、周囲にある様々な事情を読み取ることができる。
株仲間による制限があった廻船問屋業に前田が進出できたきっかけは、天保期の抜け荷事件に関わった若狭屋(大塩)市兵衛が安政期に廃業する際に手放した株を取得したことであった。若狭屋は新潟町における初期商人の一人で近世初期から続く廻船問屋であるが天保六年の唐物抜荷事件に連座し処罰を受けた。事件後も廻船問屋業を続けており、安政期の顧客は隠岐、北陸、江差などで年間30隻程度であった。資料には客同士の中古船の売買、冬季間の囲い船などの記述がある。
弱体化している廻船問屋の株を引き継いだ前田の展開は厳しいものだったが、明治期になると北陸地方の新興廻船主を受け入れることで発展を見せ年間100隻程度の扱い数になる。しかし新潟湊に多く集まっていた蝦夷地向けの越後船の扱いは全く無く西国からの廻船が主な客であることに特徴があった。

2月の例会=報告

2月例会
平成29年2月19日(日)

佐渡金銀山の世界遺産登録推進に向けて ―近代化遺産の全容を知る―
佐渡市世界遺産推進課調査係長 宇佐美 亮 氏

〈講演要旨〉
新潟県と佐渡市では「金を中心とする佐渡鉱山の遺跡群」として、平成29年度の世界遺産登録に向け作業を進めているところである。今日はその現状と課題についてお話ししたい。
県と市は29年3月に推薦書原案(改訂版)を国に提出。7月国の世界文化遺産特別委員会で平成29年度の推薦候補の選定、30年1月国からユネスコへの推薦書提出、というスケジュールを考えている。その後もイコモス(ユネスコ諮問機関)の現地調査などがあり、最短でも2年後の世界遺産登録決定となる。国内外への一層のアピールと様々な情報発信が必要であり、登録して終わりではなく、いかに保存、活用していくかという点も重要な課題である。
西三川砂金山は『今昔物語集』に記録が残り、明治5年まで砂金採取が続けられていた。鶴子銀山は16世紀半ばに発見され、鉱石を採掘する本格的な鉱山開発が行われた。相川金銀山は16世紀末に発見され、1601年から道遊の割戸等で大規模な採掘が始められ、江戸幕府の財政を支えた。そして行政の中心として佐渡奉行所が置かれた。
明治以降の近代的鉱山の誕生と操業については明治2年の官営佐渡鉱山から始まる。同22年に宮内省御料局の所管となり、同29年からは三菱所有鉱山として開発が進められていった。明治初期、欧米の技術者(御雇外国人)により製錬技術が導入され、同16年初代佐渡鉱山局長として大島高任が赴任。高任竪坑の開削、道遊の割戸の採掘など近代化がなされ金銀産出量が増大した。鉱山への多大な功績により後に高任神社が建てられた。
昭和10年代、国策による金の大増産により北沢の浮遊選鉱場やシックナー等が建設されたが、同18年銅生産へと転換、同7年には大縮小、施設の多くが廃止となり、平成元年操業中止となった。
このような歴史的経過をたどりながら、今も残る佐渡金銀山の施設として、大立竪坑櫓、捲揚機室、道遊坑、高任粗砕場、高任貯鉱舎、北沢浮遊選鉱場、大間港港湾施設等がある。
これらの関連施設と同時に、鉱山の近代化に伴い導入された技術、たとえば軌道(トロッコ)による鉱石の搬出、大立竪坑の開削、削岩機の使用、架空索道(空中ケーブル)の導入等も貴重な遺産である。
このように佐渡金銀山の開発、発展により、様々な人々が居住し集落や町ができ、いろいろな物資が集まりインフラも整備された。そして佐渡独自の文化が形成されていったと考えられる。

新春講演会=報告

新春講演会
平成29年1月8日(日)

古代越後・佐渡における政治文化の展開
新潟大学教授 中林 隆之 氏

〈講演要旨〉
古代日本の社会は律令という法律にもとづいた支配体制であった。同時に都とその周辺を中心に編成された体制でもあった。
越後の初見史料は697年であるが、越後は越(こし)の一番北側で、7世紀中葉の渟足柵・磐舟柵設置以来北征を行い、北辺を管轄する位置を有していた。その性格は720年頃まで続いていた。佐渡の初見史料は700年で、磐舟柵修造の記事といっしょに出てきており、佐渡と磐舟との関連が考えられる。
新潟市的場遺跡から「狄食」「杦(狄?)人鮭」と記された木簡が出土している。狄は北方の異民族をさし、彼らに鮭などの食料を供給していたことがうかがえる。越後は北方への辺要としての位置を、佐渡はそれを補佐する位置を有していたと考えられよう。
7世紀末から8世紀初めに創建された横滝山廃寺の周辺は官衙遺跡が集中し、政治的拠点の一つであった。その後国府が上越へ移り越後国分寺が造られ、さらに佐渡国分寺も造られたが、その背景には渤海使来訪があった。佐渡国分寺が造られたことにより、外国への対応の役割が越後から佐渡へと変化していったと思われる。
752年の「造東大寺司牒」には、頸城郡膽君郷・磐舩船郡山家郷・賀茂郡殖栗郷・雑太郡幡多郷に各50戸ずつ、東大寺封戸の記載がある。この四つの郷は事実上東大寺の領地と推定できるが、山家郷からの貢納物は国津である蒲原津に運ばれていたであろう。また、佐渡の二つの郷からの貢納物も国衙の行政機構が使われ輸送されていたと考えられる。東大寺封戸と国府・国衙とのつながりは強かった。
11世紀にまとめられた『法華験記』には越後を舞台にした説話が4話登場している。この4話は国府や国衙、国上山や国上寺、東大寺領封戸や荘園所在地に関連した内容であり、おそらく都と地方を往来する僧侶、あるいは国司が資料を提供し、地方を題材にした話が都でアレンジされてできたものであろう。
12世紀に入り法華経を埋納する教えが広がり、その外容器に珠洲焼が使用されている例が多く見られる。佐渡沖や寺泊沖から海揚(うみあが)りの珠洲焼も発見され、日本海側一円に珠洲焼の分布が確認される。同時にそれは能生白山社、虫川白山社、寺泊白山比売神社など白山信仰の広がりとも一致し、珠洲焼と白山信仰の広がりや分布はともに連動していたことがわかる。
平安期以降、中央直轄の文化に変わりそれぞれの地域での文化圏が形成されていく。越後国の文化についても、その地域的文化圏の一つの表れとして考えていく必要があるように思われる。

講演会終了後、恒例の新年会が行われました。当会名誉会長の篠田昭新潟市長の代理として、文化スポーツ部長山口誠二氏から激励のご挨拶をいただきました。

新潟大学教授 中林隆之 氏



新潟市文化スポーツ部長 山口誠二 氏

12月の例会=報告

12月例会
平成28年12月17日(土)

明治13年、新潟の挑戦―山際七司と尾崎行雄の熱き想い―
新潟県立文書館嘱託  横山 真一 氏

〈講演要旨〉
明治13年は新潟だけでなく全国的に熱い時期を迎えた年である。また西南戦争の3年後で物騒な年でもあった。当時の日本は文明開化の波が広がりはしたが国会や憲法はなく、近代国家として独立した状態ではなかった。しかも不平等条約は未解決のままであった。
明治12年10月尾崎行雄が福澤諭吉の紹介で新潟新聞主筆として新潟に来た。22歳の青年であった。当時すでに自由民権運動は始まっていたが、尾崎と山際七司が知り合うことで新潟における国会開設運動が始まっていく。同13年1月の尾崎・齋藤捨蔵宛山際の書簡、同年4月5日付山際宛尾崎の書簡が残されている。この書簡から山際が国会開設をめざし尾崎に教えを請うていることがわかる。
山際は嘉永2(1849)年新潟市黒埼に生まれ、父の死去により木場村庄屋を相続、31歳で県会議員、42歳で国会議員となったが、翌年43歳で死去した。彼が県会議員の時に尾崎と知り合い自由民権運動に加わり、各地の民権家と交わった。
同13年4月第1回国会開設懇望協議会が新潟市で行われた。会長に山際、副会長に西蒲原の豪農小柳卯三郎が決まり「国会開設建言書」が作成された。この建言書を持って山際は上京したが、すぐに2回目の協議会が弥彦で行われ「国会開設請願書」が作成された。そして全9条の「大日本国国会権限」がつくられた。
同13年11月国会期成同盟第2回大会が開催され山際と元高崎藩士渡辺腆が参加した。しかし国会開設請願書の天皇への上奏は拒否され、政府は「法律五三号」を公布し国民の請願権を制限していった。このような中で山際は尾崎の意見をきいている。
尾崎は安政5(1858)年、今の神奈川県で生まれ、慶應義塾、工学寮で学び、文筆、出版活動に熱心であった。新潟時代の彼の活動については新潟新聞の社説や各地での演説の演題などから知ることができるが、彼の姿勢は政治的なものではなく、新潟県民を啓蒙していくという面が強かった。なかでも彼の「尚武論」は彼の考えを知るうえで基本となるものである。「武を尚んで活発・進取・敢為の気象を発揮せしむるは今日の最大急務である」ことなどを人々に伝えたかったのであろう。
歴史上の人物をどのように評価するかは難しい問題である。人間は多様な側面をもっている。人物に様々な側面があることを知れば歴史上の人物を見ることが楽しくなってくる。このような視点で今後も県内の人物を見ていきたい。

11月の例会=報告

11月例会
平成28年11月19日(日)

揺藍期の県内ガス事業創設の経緯について
新潟市江南区郷土資料館館長 齋藤 昭 氏

〈講演要旨〉
平成26年7月6日付け「新潟日報」「にいがた老舗物語」には、新潟天然瓦斯株式会社を源流とする越後天然ガス株式会社が「日本で初めて都市ガスとして売り出し」「国産供給の事業化」した会社であると紹介しているが、この記事は誤りである。
新潟県民と天然ガスとのかかわりは非常に古いが、天然ガスに着眼し灯火や家庭用燃料、工業用燃料として利用し販売を目論んだのが高野 毅(たかの き)である。高野は茨城県出身で、明治27年頃から宝田石油株式会社の技師として原油と共に噴出するガスに注目し、ガス実用化の方策を考えていた。35年頃ようやく猛噴するガスの制圧に自信を持つことができ、翌年会社設立を企図し資本の募集を開始した。
しかし、日露戦争の勃発により資本金は集まらない状況であったが、和歌山県の資産家が応ずるところとなり、38年日本天然瓦斯株式会社が創設された。本社は資本の関係から和歌山県新宮町(現新宮市)に置かれたが、この会社が新潟県におけるガス事業の先駆けをなすものであり、日本で最初に天然ガスの利用を試みた会社である。高野は会社を組織した後、38年ガス井を南蒲原郡中之島大口(現長岡市)に選定し試掘に着手した。翌39年正式に開業し本格的な試掘を開始、そして長岡市及びその周辺村々を対象に事業を展開していった。
その後40年本社は長岡市に移転され、会社の名声は上がったが、坑井の掘鑿とその装置にかかる費用が想像以上にかかり、高野は会社の解散に踏み切り、交渉の結果大正7年小林友太郎、長部松三郎等々長岡の同志らによって長岡天然瓦斯株式会社が誕生した。
一方、新潟市のガス会社創設については桜井市作がその中心であった。明治42年ガス事業の許可がおりたが、日露戦争後の不況や二度にわたる市内の大火で資本は集まらなかった。そのような中、日本瓦斯株式会社の福沢桃介系列の資本家が名乗り出て新潟瓦斯株式会社が設立された。
事業を開始してから2年余、福沢系列の重役達により千葉瓦斯株式会社との合併がはかられ合併に至ったが、その後分離。結果的には新潟瓦斯株式会社は小林友太郎らに買収され、地元資本による地元企業としての新潟瓦斯株式会社が構築されることとなった。
以上まとめとして、天然ガスの国産化、初の事業化は日本天然瓦斯株式会社であったこと、それは地元資本ではなく他県の資本で創設されていったことを再度確認しておきたい。

9月の例会=報告

9月例会
平成28年9月18日(日)

伊藤家「諸日記帳」にみる三根山藩の幕末・明治維新― 一農民の見た北越戊辰戦争 ―
本会会員 伊藤雅一 氏

〈講演要旨〉
私の家に「伊藤家諸日記帳」という史料がある。2代目嘉兵衛が嘉永4(1851)年に書き始め、昭和13年まで書き継がれた日記帳である。内容は村の新築・改築、村民の婚礼・死亡、普請人足や米相場など多岐にわたるが、三根山藩の戊辰戦争関係のことが比較的詳しく記されている。
文久3(1863)年十一代忠泰(ただひろ)の時、五千石が加増され三根山藩は一万一千石の大名となった。慶応4年北越戊辰戦争に際し三根山藩は、最初は奥羽越列藩同盟についたが、まもなく新政府軍に入った。
「諸日記」の戊辰戦争関係の記事について、『三根山藩』(巻町双書20)を比較参照しながら年表としてまとめてみたが、この年表から、「官軍が五ヶ浜上陸、村中大さわぎ寝る者なし」(5月24日)、「弥彦駅へ官軍八百人来る、三根山伊藤様・太田様両人弥彦へ降参願いに御出、拙者共二十人駕籠人足に行く」(8月2日)などと、当時の村内外の様子や村民の動きをより具体的に知ることができる。
また版籍奉還後の明治2年6月、三根山藩主忠泰が知藩事として帰国、「諸日記」には「殿様江戸より御下り」と記されている。そして廃藩置県後の明治4年7月「峰岡藩知事様御免職に相成と聞く、歎ヶ敷き事に候」とあり、一般農民が殿様の動向やそれに対する感想を記述している点おもしろい。
さらに「諸日記」には明治3年9月「牧野知事様方へ長岡様より娵君様、舟戸割元より嫁入り」と記されており、種々文献を調べてみると「娵君様」は長岡藩主十一代忠恭(ただゆき)の七女總姫(ふさひめ)で、三根山藩主十一代忠泰夫人であると考えられる。
この總姫輿入れについては有名な「米百俵」とも関連しているように思われる。つまり藩政改革や救援米確保など、協力して取り組んでいた長岡藩三島億二郎と三根山藩神戸七十郎が、両藩の連携を示すために図った輿入れではなかったのか。また同時に三根山藩が長岡藩に米を送ること、それは軍事物資ではなく婚礼にかかわる米であることを内外に示すためのものではなかったのか、と考えられないであろうか。
以上、「諸日記」から、戊辰戦争は武士だけが戦っていたのではなく、農民も駕籠人足や荷駄人足として活躍していたこと、十歳で輿入れし十七歳で没した總姫のように、身分や地位のある人の行動には何らかの役割や意味があることなどを知ることができる。
歴史に名を残さない、残せない人々の史料や足跡を探求し、正しく評価するのが我々の役割ではないかと考えている。

8月の例会=報告

8月例会
平成28年8月21日(日)

「関屋神明宮に奉納された和歌額」
本会会員 石橋正夫氏

〈講演要旨〉
 新潟市関屋神明宮は関屋村の形成とともに建てられた古い神社と思われるが、創立年代は未詳。祭神は天照皇大神、脇に末社稲荷神社がある。明治20年5月火災のため焼失、その4ヶ月後の9月に再建された。再建の時に奉納されたのがこの和歌額である。
 額の最初に「奉献十首和歌」と記されているが実際は13首で、本居宣長、八田知紀(はったとものり)など江戸~明治時代に活躍した13名の人物の和歌が記されている。最後に「奉額有志者」として真柄善吉など12名の名前が記されているが、この12名は関屋の人々であろう。
 本居宣長など13名は歌人や学者として、あるいは政治家として有名な人々であるが、今回は次の3名に注目してみたい。
 まず「楠正成」という詞書が記された
   きみかためちれとをしへておのへまつ
       あらしにむかふさくらいのさと
の作者野矢常方(のやつねかた)である。野矢は会津藩士、槍の達人で和歌にも優れ、彼が武士の鑑としたのが楠正成であった。戊辰戦争時彼は67歳、正規軍に入っていなかったが一人で出陣、射殺された。彼の辞世の句をうけた佐川官兵衛の句もまた有名である。
 「北征の日榎嶺にて」の詞書が記された
  あたまもるとりてのかかりさよふけて
       なつもみにしむこしのやまかせ
の作者山縣有朋も戊辰戦争に関係した一人である。明治18年新潟県と群馬県の県境「淸水越え新道」が開通し、その祝賀会が北白川宮に随行して山縣も新潟を訪れている。八木朋直などが接待役として活躍していたと思われるが、おそらくその関係で山縣の一首がこの額に掲載されたのではなかろうか。
 「右の歌ともを選びてこの宮居に奉願として」と詞書に記された
  よににほふことはのはなをかきつめて
       いのるこころもよそにしらさし
の作者日野資徳(ひのすけのり)も重要な人物である。日野は嘉永元(1848)年新潟で生まれた。全国各地を歴遊し様々な学問を学んだ。白山神社の祠官でもあった。とくに和歌に優れ、書にも秀で、交友は広く門人も多くいた。『瓊乃光(たまのひかり)』には多くの門人の名前が記されている。
 おそらくこの和歌額は、日野と八木朋直など明治20年前後、新潟の各界で活躍していた人々とのつながりの中でつくられたものではなかろうか。そして日野が書いたものではなかろうか。流麗、丁寧に書かれており、縁取りは黒漆、まわりに朱色が残る立派な和歌額である。貴重な文化財としてなんとか保存してほしいと願っている。