7月の例会=報告

7月例会
平成28年7月16日(土)

「新潟みなとのまつり」展を観る ―新潟町の祭り・湊祭とは―
新潟市歴史博物館学芸員 渡邉久美子氏

〈講演要旨〉
毎年夏の風物詩として新潟まつりが行われている。この新潟まつりは、湊祭を起源とする住吉祭、信濃川で行われていた川開き(花火大会)、昭和初期に始まった商工祭、開港記念祭の四つのまつりを戦後一つにして始まった一大イベントである。
江戸時代、新潟は湊町として発展し、流通路としての堀がつくられ、各地から多くの物資が集まった。また、湊に関係する人々の活動も活発で、華やかなまつりの文化が生まれた。湊祭とよばれた新潟のまつりは7月1日から7日まで行われ、住吉神社の神輿渡御(みこしとぎょ)を中心に、各組々からの山車や灯籠、提灯行列などが加わり非常に賑わった。
天保14(1843)年の「市中風俗書」によれば、住吉神社の神輿渡御は最終日の7日に行われたが、前日の6日、一番組の人々が白山神社に保管されている神輿を迎えに行き、洲崎町の御旅所(おたびしょ)という神輿を安置する場所に移し、そしてその神輿を車輪のついた御座船に乗せて町中を練り歩いた。祭りは昼祭と夜祭に分かれて行われたが、洲崎町や門前町など市中各町は一番から二十二番までの組に編成され、昼祭は一番組から八番組、夜祭は九番組から二十二番組の町がそれぞれ受け持った。
湊祭は七夕に行われることから「七夕祭り」とも言われ、七夕の行事も行われていた。灯籠や舟などを水辺に流し眠気や災厄を祓う「眠り流し」があり、秋田や青森など日本海沿岸で行われている行事との共通性が考えられる。
1日から6日夜、子どもたちが灯籠を手に持ち町を歩く行事、子どもたちが「天の川」ではじまる和歌をうたいながら硯を洗い、和歌を書いた短冊を真菰(まこも)の舟に乗せて海に流す行事など、「市中風俗書」や「蜑の手振り(あまのてぶり)」に記されている。
このように湊祭の特徴は七夕行事と住吉祭が習合しているという点であろう。そしてこれらの行事の背景には日本海側航路の進展と無関係ではなかったはずである。同時に昔の伝説や故事に通じていないとできない文化水準の高さもうかがえる。
新潟市歴史博物館を中心に「みなと新潟実行委員会」が組織され、「湊祭復元事業」として湊祭の変遷を調査した。新潟開港150年を前に、「みなとのまち」としての新潟の歴史と文化をもう一度見つめなおしてみたい。
(講演終了後、「新潟みなとのまつり」展を渡邉久美子氏の解説のもとで観覧した。)



5月の例会=報告

5月例会
平成28年5月21日(土)

「白山島と新潟城―戦国期~近世初期、新潟町の形成過程―」
新潟市歴史文化課学芸員 長谷川伸氏

〈講演要旨〉
戦国期、信濃川と阿賀野川の河口には沼垂、蒲原、新潟の三つの港があった。新潟はその後の明暦年間現在地に移転し、町が形成されていったと一般的に説明されている。では移転前の新潟はどこにあったのであろうか。この問題については戦国末期、信濃川の中洲に形成された白山島とその城郭的な性格を捉え直す必要があるのではないかと考えている。
「景勝公御年譜」「越後治乱記」などには新発田重家の乱のとき、「新発田ノ要害」として白山島に新発田氏が拠点とした砦が存在し、その白山島城の奪還をめぐる激しい攻防戦があったことが記されている。
近世期に作成された絵図の一つに「越後国郡絵図」(新潟市歴史博物館蔵)がある。それを見ると信濃川河口に「沼垂 伯耆領(新発田藩)」「新潟町 丹後分(堀直寄)」と記されている。また「写」「偽文書」という評価も強い絵図ではあるが、平田義夫氏収集「古新潟絵図」(同館蔵)には「寄居殿守」とあり、「殿守」は「てんしゅ」と読めよう。そして寄居島と白山島の間に「結界川」の記載がある。これは川を掘って城を使用不能化したもので、平城の城割り、破却の作法の一例ではなかろうか。
東北大学図書館狩野文庫蔵の絵図の中に「越後寄居町絵図」がある。後世の作為性の高い絵図ではあるが、砂丘の奥に「新潟町」が描かれ、周辺に関屋、青山、平島が記されている点注目されるところである。
さらに岡山大学付属図書館池田文庫蔵「越後国新潟城図」は「偽絵図」の扱いではあるが、端裏書に「新潟 辰」「越後新潟石河出雲守居之」と記されており、石川出雲守は石川数正の子石川康長の可能性が考えられる。石川康長の娘は大久保長安の子大久保藤十郎の室である。「新潟 辰」は元和二年と推定される。大久保長安は松平忠輝の付家老で越後の政務を管轄し、佐渡を含めた一体支配を目論んでいた。いわば「新潟城」は北国街道、佐渡三道の主要拠点である「新潟」に設けられた城であったのではなかろうか。
戦国末期から近世初頭の「白山島」と「新潟城」について、近世期に作成された絵図の再検討とともに、堀直寄の元和の町建て、明暦の移転、そして急速な信濃川の運ぶ土砂の堆積による新潟砂丘の形成と「湊」化など、さらに考えていく必要があるように思われる。

平成28年度総会=報告

平成28年度総会
平成28年4月16日

菅瀬亮司副会長を議長に選出し、議事が進められました。
平成27年度事業報告・収支決算報告および平成28年度事業計画案・収支予算案を審議し、承認されました。

平成28年度役員は以下のとおりです。
名誉会長 篠田昭[新潟市長]
名誉会員 蒲原宏[元がんセンター新潟病院副院長]
顧問 中村義隆[前会長]
相談役 和田右苗[前副会長]・小熊英雄[前副会長]小川千代[前監事]
 
会長 伊藤善允
副会長 菅瀬亮司
事務局長 高橋邦比古
監事 齋藤義明・笹川玲子
理事 青木道・伊藤雅一・岡村澄子・毛島宏・桜井ミツ・佐藤節子・佐藤千重子・関本昌隆・高橋優太・山上卓夫・横木剛・渡辺 等

4月の例会=報告

4月例会
平成28年4月16日(土)

「銅像に見る郷土先人の風貌―歴史の伝え方、史料としての在りよう、造形の妙味―」
元新潟県立文書館副館長 本井晴信氏

〈講演要旨〉
ちょっとした散歩の途中で、あるいは旅行に行った時、思わず銅像を目にし驚いたり意外に思ったりしたことがあるのではなかろうか。またみんなで一つの目標を設定し、複数の眼で銅像を探しながら情報を交換していくのもおもしろいことではなかろうか。
古町通りにあるドカベン像はよく知られているが、物語、創作での人物像の一例は白山神社境内にある神武天皇像であろう。だれが建てたのか、銅像の人物は実在の人物なのか、想像、架空の人物なのか等々、注意しながら見ていくことも楽しいことの一つである。さらに銅像が設置されている場所や銅像の素材にも注意したい。動物が銅像になっている場合もあり、忠犬タマの像が有名である。新潟市内には白山公園と新潟駅の二か所にある。
古町八番町をはじめ、新潟大学五十嵐キャンパスなど多くの場所に良寛像がある。子どもと手鞠をしているものなど様々であるが、どれを見ても長い顔、伏し目がちで晩年の良寛像である。似たような風貌であり、もっといろいろな像があっていいのではなかろうか。
東仲通りの長谷川写真館脇に澤田敬義の銅像がある。全体的にリアルに作られている印象の像である。説明板があり制作者名も含め詳しい説明を読むことができる。このような詳しい説明は後々まで必要であろう。
実在の人物像で新潟市内にある一番古い銅像は新潟大学旭町キャンパスの池原康造像と思われる。池原は新潟医学専門学校の初代校長であるが、この像は1918(大正7)年の制作で、原型制作者はその道のパイオニア武石弘三郎である。台座にも配慮、工夫がなされ、20世紀初頭の時代感覚が感じられる。銅像の表情のみではなく、台座を含めた全体の感覚を感じとってほしい一例である。
銅像の多くは男性像であるが、新潟中央病院前庭にある小柳イソ像は女性像の代表例であろう。彼女の医療活動を顕彰して建てられた銅像である。銅像はコーティングされてはいるが、酸性雨などの影響で厳しい状態になっているようである。表面のメンテナンスが必要で、きれいな状態で銅像を楽しみたいものである。
銅像の研究は今までだれもやっていない。銅像にはそれぞれの由緒があり、りっぱな郷土資料である。同時に銅像のまわりの風景もまた郷土資料の一つといえる。みなさんから外歩きを楽しんでいただき、そして郷土資料としての多くの銅像について情報を共有していただければありがたい。

3月の例会=報告

3月例会
平成28年3月19日(土)

新潟古町「定宿のとや傳右衛門」の引き札を読み解く
本会会員 齋藤倫示 氏

〈講演要旨〉
「引き札」とは、商品の広告、開店・売出しの披露などを書いて配った札である。関西では昔から「ちらし」であった。本日は新潟古町で宿屋をやっていた「のとや傳右衛門」の引き札二枚を紹介したい。
まず「ヲロシア船来航引き札」である。この引き札は中央にロシア船が大きく描かれ、その左右に「定宿のとや傳右衛門」「頃ハ安政六年未四月…ヲロシア舟渡来ス」「シバタ溝口主膳正様、ムラマツ堀丹波守様、ナガサキツウジ猪俣宗七郎」「新潟湊 雲林堂 池仁」と記されたものである。川村修就の『日新録』弘化2年10月18日の条には「新潟表非常之節援兵之義…差出候様、内藤紀伊守、堀丹波守江相違候」とあり、各藩から海岸防備の援兵が出された状況がうかがえる。長崎通詞は情報の窓口として重要な役割を担ったが、猪俣宗七郎については今後の精査が必要である。「雲林堂 池仁」については現在判明していない。
もう一枚の「新潟与里諸方道程引き札」は「信州善光寺より京迄」「三国通江戸マデ」」などと、新潟から京都、江戸、会津、米沢、仙台、庄内、秋田などへ至るまでの宿場が約290か所記載され、左下に「商人定宿のとや傳右衛門」と記されたものである。当時の旅は川運の利用が多かったと思われるが、越後における川舟利用を示す資料は、「徳川幕府巡検使」史料、十返舎一九『滑稽旅烏』、長谷川雪旦『北国一覧寫』など多くある。また新潟県立図書館所蔵になる川舟利用の諸著作物も有益である。
この二枚の引き札には刊記がなく年月日を確認することはできないが、「のとや傳右衛門」の住所は「古町三ノ町」になっている。新潟町の古絵図など、たとえば、①享保十六年街中家並図、②天保期「古絵図」、③宝暦年代新潟町家並図、④天保十四年新潟町中地子石高間数家並人別帳、⑤安政二年東講商人鑑などが参考になろう。その中で④に記載されている「古町三之町東方 間口三間 此高弐斗弐升弐合 能登屋松太郎」が今回の引き札の「のとや」と考えられるのではなかろうか。
「のとや」に関連し、当時の新潟町の様子や各寺院に残る新潟町で活躍した人物の墳墓、そして新潟町の水事情など、興味深い点が多くあるが、今後も検討していきたいと考えている。

2月の例会=報告

2月例会
平成28年2月20日(土)

「新潟開港」と水野千波」
講師 本会会員 杉山節子氏

〈講演要旨〉
明治元(1868)年11月、明治新政府の外国官(のちの外務省)権判事に任命され新潟に派遣された水野千波とはどういう人物であったのか、そして彼が新潟港発展にどのような影響を与えたのか、史料を見ながら報告したい。
水野千波は幕府勘定吟味役根本善右衛門の子息として生まれた。天保13(1842)年彼が17歳の時、同じ勘定所役人であった水野小左衛門の養子となった。彼は勘定所公事方の役人として昇進し、評定所留役などを経て慶応2(1866)年外国奉行並に就任した。その3か月後神奈川奉行となり幕府瓦解の同4年4月まで横浜の開港事務を管掌、幕末外交の最前線に立ち、様々な問題を解決していった人物である。
新潟出張を命じられた彼は明治元年12月新潟に到着、同3年正月までの1年余り新潟に滞在した。彼が見た当時の新潟港は信濃川の土砂が堆積する良港とは言い難い港であった。この状況に対し彼は船着き場と運上所(旧新潟税関)を設置し、市中からの荷物輸送のための道路(現在の湊町通)を建設した。これは彼が横浜で2代目運上所と馬車道を整備した経験に基づくものであった。この他港湾施設の警備、灯台の設置、艀(送り船)の造船など多くの施策を行った。これらの施策の背景には、横浜の整備に携わった彼が新潟を横浜に準じた日本海側の「ミニ横浜」ととらえていた点が大きかったのではなかろうか。
水野の外交交渉、行政手腕がうかがえる一例が新潟の米騒動であろう。これは明治2年10月、イギリス商船が新潟から箱館へ米を輸送しようとしたため、米の値上がりを懸念した零細都市民が反発、騒動をおこした事件である。彼は県当局と交渉して警備を強化し騒動を鎮静化させたが、外務省には報告しなかった。一方、事態を重くみたイギリスは新潟の武力を増強することを要請した。外務省は驚き水野に事態の説明と対策案の提出を求めたが、彼は、騒動は流言飛語に基づく小規模なもので暴動ではないこと、警備の強化により沈静化したことなどを回答した。この回答の内容からいたずらに事を荒立て日英の外交問題になることを避けるという彼の姿勢がうかがえる。
新潟離任後の水野は東京の本省に戻り調整型的な外交手腕を発揮した。そして福岡県参事や裁判所判事として勤務した。下級の旗本から自身の才覚によって昇進し、横浜の開港に携わった水野であったからこそ、1年余りの新潟出張中に新潟の開港を進めることができたと言える。
近代港湾都市新潟は水野によって設計された「日本海側の横浜」という認識に立ち、多くの歴史的遺産を活かしつつ「未来の新潟」を創造していくことが重要と思われる。

新春講演会=報告

新春講演会
平成28年1月10日(日) 会場:新潟会館

1964年新潟地震を新史料から考える―白山小学校児童の作文綴に即して―
講師 新潟大学准教授 中村 元 氏

〈講演要旨〉
日本近現代史研究の中で災害史研究がどのようになされてきたのかについて紹介したい。
災害史研究において、その対象の中心は1923年の関東大震災であった。なかでも帝都復興計画と虐殺問題が関心の焦点であった。しかし、関東大震災80周年を経て、当時の防災体制、震災発生時の消防や医療、罹災者の救援活動、人々の具体的な行動等が注目され、さらに震度記録の発掘、文献・日記や各種数値データの検証など、研究動向に新たな傾向が見られるようになった。
そして特に1995年の阪神・淡路大震災以降、災害への関心の高まりとともに、災害教訓の実証的な検討、災害と社会への視野の広がり、文理融合による分析など、災害史研究がより深化し進展していったと考えられる。
新潟地震の研究については、新潟市歴史博物館「新潟地震展」(2014年)が重要である。地震の被害のみならず写真や8ミリ、文書記録など、地震の記録の在り方やその後の都市の変化に注目し、その視点は今の災害史研究の動向と響き合うものであった。
新潟大学災害・復興科学研究所の「歴史地震展」(2014年)も重要である。そこでは新潟大学が所蔵する様々な資料・文献が展示され、特にアンケート分析による検証では、新潟地震における情報源としてトランジスタラジオが大きな役割を果たしたことに注目している。それはちょうどトランジスタラジオが普及する時期と重なっており、新潟地震から高度成長期の日本社会を垣間見ることができる。
また、新潟大学災害・復興科学研究所により白山小学校への史料調査がなされ、同小学校の新潟地震災害関係史料の発見へとつながっていった。地震発生後3か月が経過した9月に書かれた児童の作文綴も関係史料の一つである。全児童804名中6年生3クラス131名の作文を分析してみると、避難の具体的状況がよくわかる。どこへ避難するのか、集合するのか分散するのかなど、地震直後の先生、児童それぞれの認識や行動には大きな相違があり、クラス差もあり混沌とした状況であった。その混沌とした現場の状況とそれに対応した先生方の尽力を作文綴から読み取ることができる。
そして新潟地震写真記録の冒頭に残された高橋恒夫校長のメッセージも貴重である。
「“歴史を大切にする”ということは、正しく伝えるために資料をきちんと残すことです。」
災害の歴史を伝えるために資料を残そうとする意思に基づく保存―それは新たな新潟地震研究の可能性とともに、様々な体験記録を残すことの重要性を提起していることでもある。

講演会終了後、恒例の新年祝賀会が行われました。当会名誉会長の新潟市長篠田昭氏からご多忙の中ご出席いただき、激励のご挨拶をいただきました。

12月の例会=報告

12月例会
平成27年12月19日(土)

「横越の焼山へ墜落したB29―少年Kが見た70年前の大事件―」
講師 本会会員・(財)北方文化博物館理事 神田勝郎氏

〈講演要旨〉
昭和20年7月、米軍のB29が焼山に墜落した事件があった。墜落したB29の搭乗員は捕らえられ護送されたが、その墜落と護送の二つの場面を私は目撃している。今日は私(少年K)が目撃した情報を皆さんに紹介したい。
7月20日の深夜、米軍機5機による新潟港沖への機雷投下が行われた。投下後5機が阿賀野川沿いに会津方面へ飛行中、万代島から撃った高射砲弾がその一機に命中した。私は当夜家の庭に出て、炎上した飛行機の火の光が少し分かれ気味に焼山方面に落ちていったのをはっきりと目撃している。
撃墜されたB29の搭乗員は11人。4人は死亡し7人はパラシュートで脱出したが捕らえられ、日本軍の憲兵隊に引き渡された。その米兵を乗せたトラックが横越村役場前で一時停止した時、地元の一女性がノコギリで米兵に襲いかかろうとした事件があった。この事件は様々な形で紹介されているが、私は一女性がノコギリを持って家から出てきたのは目撃しているが、「荷台に乗り込んだ」「トラックに乗って切りかかった」という表現はあたっていないと考えている。
B29の墜落事件、米兵護送に関する報道や報告について、中には誤解され、事実とは異なる内容で伝えられている部分が見受けられる。「ほんとうの真実」を私なりに後世の人々に伝えていく責務があると感じている。
墜落したB29を見たいということで、臨時の渡し舟まで出されたが、その一艘が転覆し、9人の死亡者が出た。9人の中には小学校の幼い児童も含まれていた。
またB29の搭乗員で死亡した4人の遺体について、当時の横越村長伊藤威夫氏が横越村在郷軍人会長佐藤基一氏に相談、焼山区長目黒啓一氏に依頼し焼山の墓地の一角に埋葬することにした。この丁重な埋葬の経緯については昭和56年8月、横越村農協有線放送で報道されたことがあったが、その記録が幸いにも残されており、当時の状況を知るうえで貴重な資料となっている。
終戦から4か月後の12月11日付け「新潟日報」記事を見つけることができた。その記事は高田進駐のカナデイ中尉を長とする調査隊が焼山を訪れ、地元民の国境を越えた人類愛によって埋葬された墓に詣で冥福を祈ったという記事である。敵国の兵士ではあっても丁重に埋葬したことは人間として当然の行為であるといえるが、現代に生きる地元民にとって大変ありがたいことであったと今実感している。

11月の例会=報告

11月例会
平成27年11月21日(土)

「會津八一をめぐる人々―青春時代の思い出―」
良寛研究家 小島正芳 氏

〈講演要旨〉
新潟には江戸時代、俳諧や和歌、絵画などレベルの高い文化が成立していた。その新潟の文化が明治以降どのようになっていったのか、會津八一を中心にみていきたい。偶然にも本日11月21日は八一の60回目の命日にあたる。
明治に入り新潟に新興の廻船問屋が登場した。明治14年八一は新潟古町で生まれた。會津家は湾月楼という料理店を営んでいたが、叔父の友次郎は俳句、和歌をやり良き新潟文化の継承者で、八一に大きな影響を与えた。
幕末から明治に活躍した俳人広川百鷗は、新潟に降雨庵をつくり第一世となった。その第四世太田木甫から八一は俳句の手ほどきをうけたが、新潟の江戸文化が細々と続いていた環境で俳句を学んだということは大切な点である。また八一が和歌を学んだ日野資徳は、歌人、国学者で白山神社の神官になった人物であるが、その日野から八一へと新潟の文化が受け継がれていった。
明治32年の信越線開通により中央の新しい文化が新潟に入ってきた。尾崎紅葉が来新し、八一は彼の宿舎を訪ねている。坪内逍遥が新潟で講演し、それを聴いた八一は魅了され早稲田へ進むこととなった。和歌の分野でも明星派の影響をうけ、山田花作との交流を重ねた。中央文壇の流れが新潟に入り、今までの地方の文化と火花を散らすことにより、八一の情熱がかき立てられていった。
平野秀吉との出会いも大きい。平野は八一の新潟中学時の国語教師であるが、平野の教えにより「万葉集と良寛の歌は同じ流れである」ということを知った。上京した八一は根岸の正岡子規を訪ね、『僧良寛歌集』を贈っている。また新潟中学で2年下の山崎良平とのつながりも大きい。山﨑は恩師夏目漱石に『僧良寛歌集』(四版)を贈り、それを読んだ漱石は良寛を高く評価している。
八一は30歳で早稲田の教師となり和歌を詠み『南京新唱』『鹿鳴集』を出版、博士論文をまとめ順風満帆かと思われたが、空襲ですべてを焼き新潟に帰ることとなった。新潟に帰った八一は数十年ぶりに相馬御風を訪ね、御風は良寛の書を八一に贈った。昭和25年戦後初の良寛展を二人で準備するが、準備中に御風は死亡。その時の「出品作品一覧」が今、糸魚川に残されている。
江戸時代以来続いてきた新潟の文化を八一が受け継ぎ、八一はそれを自らの基礎とした。八一が受け継ぎ基礎とした新潟の文化は実に偉大であったといえよう。

9月の例会=報告

9月例会
平成27年9月20日

「明治3年初夏の旅―新潟領事らは会津へ米沢へ―」
青柳 正俊 氏(新潟県立歴史博物館副館長・本会会員)

【講演要旨】
戊辰戦争が終わって間もない明治3(1870)年、5人の外国人が新潟から会津・米沢を巡る16日間の旅をした。この旅についてはほとんど知られていないが、外国人が旅先で見たこと考えたこと、そしてこの旅の背景や意義について考えてみたい。
外国人5人はトゥループ(新潟駐在領事代理、イギリス)、ウェーバー(新潟居留商人、ドイツ)、メース(新潟居留商人、副領事兼任、オランダ)、ミスターJ(横浜居留商人)、ミスターG(同上)である。この5人は6月16日新潟を出発し新津、五泉、津川、野沢を経て会津若松に到着。その間養蚕、茶、漆、石油、石炭、銅、金山、塩など各地の資源や産物に注目し、また旧会津藩士家族の斗南への移行も目撃している。若松県知事との面談を行い、猪苗代、大塩、米沢、小出、市野野、中条を通り7月1日新潟に帰着した。
この旅の記録については、トゥループの視察報告書(イギリス外務省資料)とウェーバーの旅行記(「アルトナ新聞」)二つを新たに知ることができた。そこには二人が実際に見た風景や人々、豊富な産物、資源が好意的、肯定的に描かれている。
当時外国人の内地旅行は日本政府の許可が必要であったが、5人の旅行は正式な許可を得ず実行された。出発直前旅行の旨を伝えられた県庁は対応に苦慮し、旅の出発を認めつつ国へは事後報告で済ませることとした。
さらに明治3年6月は、新潟通商司の設置により新潟港での商業活動が混乱していた時期でもあった。トゥループはイギリス公使館に無断で任地の新潟を離れたが、養蚕業視察中のアダムズ参事官が信州上田から不意に新潟を訪れ、彼は大急ぎで新潟に帰着している。新潟通商司騒動は明治初年の新潟港を考える上で重要な問題であるが、この騒動と5人の旅行とどうつながりがあるのか、今後も当時の史料をもとに考えていきたい。
明治2年開港後、居留民の多くは早々に新潟を去っていった。その中でとくに際立っているのはイギリスが明治12年まで領事館を維持し、同様にドイツ商人が同18年まで居留し続けたことである。このこととトゥループ、ウェーバー2人の旅行とは決して無関係ではないであろう。旅行を通じて得た新潟港後背地域への印象や評価は、日本の近代20年近く維持しえたことに少なからぬ影響を与えたのではなかろうか。そしてそれが後の北洋漁業発展へとつながっていったのではなかろうか。