2月2026

2月例会=報告

令和8年2月15日(日)

演題:「昭和初期、旧坂井輪村地域の青年団活動について」

講師:当会会員 山上 卓夫 氏

<講演要旨>

 小針瑞林寺に残る昭和初期の小市青年会日記(以下「日記」)を主としてお話ししたい。写真は「日記」の表紙、昭和3(1925)年から同11年までの坂井輪村青年支部小市青年会弁論部同盟が書いた記録である。平成21年に瑞林寺前住職の廣澤憲隆氏の呼びかけを受け、小針の歴史を語る会が発足し令和3年まで139回を数えた。この中で「日記」の存在を知り、活字化、出版に至っている。

 近世の村には若い衆がいて、祭礼や村の労働に当たったが、近現代の青年団組織になると教育や治安維持などが強調されるようになった。

 「日記」の最初の記録は、昭和3年6月14日に弁論大会小市仮予選会、6月15日坂井輪青年団弁論大会、6月17日第6回西蒲原郡青年団弁論大会、11月4日新潟県青年弁論大会へと続き弁論大会を勝ち抜いた30人の弁士が県の地蔵堂に集結し盛会の様を記している。小市出身の田村虎二もこの壇上に立った。県大会の演題を見ると、青年の語が多く、正義、信念など精神的な語句が並んでいる。また「日記」には昭和11年までに12回の弁論大会関係の記事がある。昭和3年の新潟新聞には同年12月までに県下93回の青年弁論会の記事を載せ、同一地域に複数回の開催も行われている。新聞には地域的な偏りもあるが、新潟新聞には「新時代が生んだ弁論・・・」(7月16日)との見出しもある。

 この背景には大正14(1925)年普通選挙法の成立、勤労青少年を対象とした軍事訓練や社会教育を目的として大正15年に開設された青年訓練所なども上げられ、青年の立ち直りが図られている。また、小新の自小作農「西山光一日記」にも大正15(1926)年から昭和10(1935)年の間に弁論、雄弁、談話会、弁論会の語句が多出している。

 一方、青年会の収入源についての史料に大正7年~13年分と昭和3年~7年分で成り立っている「収入帳 亀貝青年会」がある。主として大正3年分をみると、電気手数料(各家庭から電気料徴収分)、田打ち・田草取・堤防草取、除雪、夜学校給仕料、秋祭り・夜宮の運営補助、青年会主催の映画のポスター貼り、貸出金利子、寄付などが計上されており、収入源のみならず青年会が村内の多種多様な活動に関わっていたことが推定される。

 小市青年会は、明治33(1900)年の新通青年会の発足、同44年の亀貝青年会の発足の後に昭和3年に大字小針・市左衛門で発足し、昭和16年以降に会則が整ったと思われる。なかには青年会集合日に無断で新潟市へ遊びに行き、会則を無視した行為で2か月の除名処分となった者もいた。女子の青年団活動は今後の課題である。

1月例会=報告

1月例会

令和8年1月18日(日)

演題:「古代渟足柵と近世新潟町ー郷土沼垂・新潟の歴史と風土ー」

講師:新潟市歴史博物館館長 坂井秀弥 氏

<講演要旨>

 新潟市の歴史的な核は沼垂と新潟。沼垂は古代渟足柵、新潟は近世新潟町がそれぞれの画期をなす。17世紀、阿賀野川に面していた沼垂の移転により、二つの町は信濃川に面することとなり、近代に合併して新潟市は大きく展開する。

 考古学や歴史研究の成果に加えて、大河・砂丘・低湿地など際立った地形、気候、風土も合わせて、その歴史を考える。

 渟足柵、磐舟柵は大化改新後、律令制の「評」を立てるために設置した北辺の政治・軍事の拠点であった。越後平野における古墳の分布からもその様子がうかがえる。

 中世から近世の新潟町の変遷は、平島から古新潟へ。川筋の変化や、中州への移転によって現新潟町が形づくられた。発掘されたもの、記録と合致するもののほか、遺跡から新たに判明する事実も多い。移転についての町会所文書から町割りの様子がみてとれる。新潟町(湊)は東北、北海道の日本海側と上方をつなぐ重要な役割を担った。このように町は港と一体となった計画的な町作りが行われ現代に至る基礎を築いた。