11月例会
令和5年11月19日(日)
質地証文を考える
新潟市文書館職員 八木 千恵子 氏
<講演要旨>
質地証文は旧庄屋・大地主宅などでよく見かけるが、これまで中身を丹念に読むことよりも数的分析で処理してきた。県史編さんの際に、「百姓は土地所有をしているのではなく土地を所持しているのである。土地を所有しているのは領主である」との話があった。それ以来、自分が持っていない土地を質地に出すのはおかしいのではないかと疑問を持ち改めて質地証文を見直すことにした。質地証文は地域によって文面に違いもみられる。
土地売買は古くから行われてきたが、その流れを引いている近世初頭における佐渡の文書が資料1である。延宝5年(1677)2月の永代売渡証文であり、先祖代々持っている土地を売り渡すが、人足はこれまでどおり売った側がつとめるとしている。資料2は寛永20年(1643)3月に幕府から出された田畑永代売買禁止令であり、「田畑永代売御仕置」「土民仕置覚」を含めての総称である。資料3は、これを受けて越後・佐渡各地に出されたものを示した。佐渡では同年同月の「条々」で、「土民仕置覚」を簡略化して出している。村上藩は寛文8年(1668)4月に榊原家郷村法度「口上之覚」として出し、長岡藩は延宝5年(1677)9月に郷中法度「覚」として出している。長岡藩では、田地家屋敷売買は村役人に知らせれば売ってもよいとしている。新発田藩は正徳3年(1713)6月に「覚」として出し、他領に売ってはいけないが領内ならよいとしており、田畑永代売買禁止令が徹底していたかは怪しい。佐渡には元禄16年(1703)12月の年季売り証文がある。田畑永代売りがだめなら三年季で売るという証文で、法の網をくぐるやり方がとられていた。
近世中期になると、質地証文という形での実質の売渡証文が出てくる。幕府は享保3年(1718)8月に質地条目を出し、同6年10月に流質地禁止令を出す。質地条目では質年季は10年を限っていたが、流質地禁止令では年季明け何年たっても質流れにはならないとした。これをきっかけに質地を返せという頸城質地騒動が起こったが、佐渡では大規模な騒動は起きていない。
資料4は元文2年(1737)11月の四日町村(魚沼市)の質地証文である。年季が来たら5両2分を済ませて請け返す。請け返すまではあなたが作ってもらってかまわないとしているが、あくまで自分の土地だということを主張し続けている。無年季質地証文は頸城・魚沼地域では見られるが、蒲原地域には見当たらない。信越国境争論を題材にした「信州飯山目安」という手習本がある。そこには「地頭は当分の儀、百姓は永代の儀」という文言があり、土地は自分の財産であるという発想があったことがわかる。佐渡では土地を媒介しないでお金が動いていく。先祖から持ち続けてきた土地への意識がどう変わっていくのか、また佐渡と越後での土地意識はどう違うのかも合わせて検討していく必要がある。
2023年11月25日 11:32 AM |
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秋の研修旅行 令和5年10月21日(土)
新潟市文書館・新津鉄道資料館:午前の半日日程で視察研修旅行を実施。
2023年10月28日 9:36 PM |
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9月例会
令和5年9月17日(日)
新潟市水道事始め-新潟市水道発祥の地・関屋~新潟地震の水道復旧対応-
本会事務局長 高橋邦比古氏
<講演要旨>
新潟町は元和2(1616)年堀直寄の「町建て令」以降、交通の動脈として堀が整備され、道路とともに町の骨格が出来あがっていった。同時に人口が増えるにしたがい飲料水の確保が問題となっていった。
江戸から明治の時代、信濃川の中程から水を取る「水売り」の商売が繁盛した。当時の信濃川での「水汲み」「水売り」を描いた「濾過船之図」や「販水船之図」が残されているが、信濃川中流に一艘の濾過船を係留させ、濾過された上部の水を汲み、それを専用の販水船に移し運搬して売っていた。
明治12(1879)・15・19年とコレラが大流行し、県では水汲み、水売り業者に様々な規制や取り締まりを行った。新潟町はコレラ対策として何よりも水道を必要としていた。
明治20(1887)年横浜に水道が布設され、その後全国の大都市に水道布設の動きが見られた。新潟市は明治27年お雇い外国人バルトンを招聘し調査を依頼したが実現には至らなかった。同32・34年中島鋭治の調査により信濃川から取水する案が提示され、信濃川寺地付近が取水地として決定された。市議会も水道優先の動きをとり、同40年12月「水道布設許可書」を得ることができた。そして同43年10月関屋浄水場で通水式が行われ、新潟市における近代水道が完成するに至った。
当初寺地から関屋浄水場へ原水を送水していたが、浄水場の拡張に伴い青山浄水場へも送水するようにした。現在信濃川取水場から信濃川水管橋-西川水管橋-青山浄水場へ原水が送水され、青山浄水場から浦山調圧水槽-有明大橋-文京町-金衛町-護国神社裏-付属小中学校前-ライオンズマンション前-南山配水場表側へと浄水が送水されている。
昭和39(1964)年6月16日の新潟地震により水道施設である導水管、配水管の被害が大きく、機能を失ってしまった。ただ寺地取水場や浄水場の被害は軽微で、応急対応が即可能であることがわかった。被害が軽微であった浄水場の貯水を車両に入れ、緊急給水計画を開始し、数百台の給水車を稼働させ、ドラム缶延べ1,000本によるサイフォン給水を実施した。同時に復旧作業の進まない所は「共同栓方式」に踏み切り、地上に水道管を配置し、50m間隔に共同栓を設置した。
このような新潟市の水道復旧作業は、新潟市水道の「地震対策マニュアル」として、その後の地震災害対応に応用されている。
(予定していた映画「生活と水」は、映像機器の関係から上映されませんでした)
2023年9月24日 5:52 PM |
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8月例会
令和5年8月20日(日)
新潟名所双六と連合共進会
新潟青陵大学非常勤講師 後藤一雄 氏
<講演要旨>
古文書だけではとらえることのできない側面を、図版資料によって見い出せないかという視点で収集するようになった。その過程で双六に出会い、子供のゲームだけではなくその歴史的活用についても考えてみた。今回は新潟名所双六と連合共進会のお話をしたい。
双六の初見は日本書紀持統3(689)年の双六禁止の記事である。仏教の教えを表す「浄土双六」は江戸時代に成立したと思われ、女性の一生を描いた「娘一代成人双六」もある。
今回は三種類の新潟名所双六をみる。『郷土新潟』には新潟関係の双六が報告されている。明治20年発行の45コマ一枚の回り双六「新潟名所雙六」は、振り出しが郵便電信局で官公庁、寺社、料亭、芝居小屋、商店などを回り、上がりが萬代橋(初代、明治19.11.4渡り初め)である。
また発行年代未詳の「しん版新潟名所双六」は37コマで振り出しが灯台(ヵ)、上がりが白山神社である。日和山櫓、病院、学校、魚町魚売り、第四国立銀行、入船地蔵、だぼんこうじ(小路)などがある。この双六は明治20年の双六より以前の成立と思われる。灯台は2代灯台(明治10年)であり、3代灯台(明治15年)とは異なるためこれ以前。明治10年成立の新潟米商会所や明治12年設立の三菱会社新潟支店、明治13年新築移転された県庁が記載されていることから、明治13年から15年の間に作成された双六と推定される。
3つめは明治34年発行の「新潟名所すご六」は、明治34年刊行の『改正新潟市全図』の裏面に印刷された新潟名所の写真と同一であり、発行者は両方とも新潟市古町通7番町の沢井清次郎である。21コマあり、振り出しは萬代橋(初代)、上がりが一府十一県聯合共進会である。商店や料亭はなくなり官公庁、寺社、勧商場、学校などである。
連合共進会について考えてみる。明治14年一使四県連合米繭共進会、明治17年新潟県主催四県連合共進会、明治34年新潟県主催一府十一県聯合共進会を取り上げる。共進会の目的は重要物産を陳列してこれら生産業の進歩発展を図るもので、学問美術生産業に関する事物を陳列して一般に紹介し発展を図る博覧会と異なる目的をもっていた。明治14年の一使四県の共進会の米の部門では、新潟県は出品人485人(全体1,197人)で表彰数3等~6等で85人、うち6等は57人。1等から6等で表彰された全体数402人のうち、石川県は2等~6等で150人、秋田県は1等~6等で87人となっている。明治9年の勧農局「全国農産表」によると全国の米収穫量は23,677,057石で、新潟県は1,275,851石で第1位である。米の生産が最多であったことが分かる。また明治17年9月に実施された新潟県主催の新潟・石川・富山・山形の四県連合共進会は県会議事堂が会場となっている。
明治34年の共進会会場の様子を描いた錦絵や風景写真も残されている。会場案内図に各府県の展示場所を明示、『共進会参観の枝折』には参観人心得も記載されている。翌年出された共進会報告書によると、8月10日から9月30日の来館者数218,226人、この年の新潟市人口56,268人。1府11県といっても新潟・富山・石川・群馬の4県で出品数の4割を占有。本県出品物報告には新潟県の米質は余り良くなく湿地の乾田化が必要との指摘がみえる。また表彰者の氏名・住所等の記載から、当時の米作りの地域が伺える。
2023年8月26日 11:16 AM |
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令和5年7月23日(日)
「川村修就と新潟」展について
新潟市歴史博物館学芸員 田嶋悠佑 氏
<講演要旨>
初代新潟奉行を務めたのが川村修就であるが、戦前から風間正太郎氏の研究や藤田福太郎らによる『新潟市史』編さんで川村家との接触があり、同家所蔵古文書についても触れられてきた。川村家の資料は国立国会図書館に寄託されていたが、昭和51年(1976)に新潟市郷土資料館と川上喜八郎市長の依頼により当市への寄贈が実現した。
川村家は代々江戸幕府の御庭番を務めていた。天保改革において綱紀粛正や海防にも力を尽くした。御庭番に焦点を当てた研究に小松重男氏と深井雅海氏の著作があり、天保改革に焦点を当てたものに伊東祐之氏と中野三義氏の論著がある。
明治38年(1905)1月の『東北日報』に風間正太郎氏の「川村清兵衛」という連載があり、川村家の文書を見て記事を書いている。この中で「蜑の手振り」など注目すべき資料をいくつか取り上げている。内容は古いが「川村修就」イメージ形成の歴史にとって重要である。明治の時点で、どういう資料に関心が向けられていたかという点でも興味深い。
これまでの新潟市郷土資料館、みなとぴあの企画展では川村修就の新潟での事蹟を中心に人柄や天保改革全般、海防に焦点を当ててきた。今回は広く内容を取扱い、これまで展示できなかった資料も積極的に出すなど、資料の面白さを軸にしている。
次に、今回の展示の注目資料を紹介する。新出のものとして、沢野家文書がある。これは、本町十七軒町加賀屋旧蔵の資料である。旧『新潟市史』にも言及があり、東大史料編纂所で写本も作られていたが、原本と考えられる資料が見つかったことで、意味が通るようになった。面白いと思った資料に、嘉永3年(1850)の川村修就の随筆「鳳木の記」がある。「鳳木」は文化15年(1818)から文政3年(1820)の内野新川掘削の際に水底から出土したものとされる。外観が「鳳のかしらによくもにかよひて」いたので修就が「鳳木」と名付けた。内野新川掘削により水害が減り、世が平穏になった印として「鳳木」が出現したと修就は解釈し、この工事を修就は高く評価している。次に、「嘉永元年戊申四月廿四日夕七時越後国ニテ望所白気ノ図」を紹介する。これは、嘉永元年(1848)に、修就が新潟で見た不思議な虹について詳しい者に問い合わせた記録である。修就は「白気」に関心を持ち、天変地異の予兆ではないかと幕府天文方の山路弥左衛門に問い合わせたが、山路はこの現象と災害との関係を否定している。次に紹介するのは明治7年(1874)の山際藤三郎等書簡である。維新後、東京にいた修就に対し、新潟の住人山際藤三郎らが出した手紙で、隠退後の修就の様子がわかる。みなとぴあには、このほかにも川村修就の子孫が新潟市へ寄贈した貴重な資料が保存されている。今回の展示では川村家の資料をイラスト使用などの工夫をし、わかりやすく紹介する。〈この後、展示解説が行われた。〉
2023年8月1日 9:09 AM |
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5月例会
令和5年5月21日(日)
新発田藩の銃隊について
講師:本会会員 富井 秀正 氏
<講演要旨>
溝口秀勝は越前国北庄城主堀秀治の与力で、慶長3(1598)年秀治の越後移封にともない新発田へ入部し、初代新発田藩主となった人物である。この新発田藩(溝口家)の藩士及び銃隊が幕末にどのような動きをしたのかを見ていきたい。
幕府は天保年間(1830~43)西洋砲術を導入し、これが諸藩に伝わっていった。新発田藩では嘉永4(1851)年和流砲術師範藩士佐治孫兵衛と堀一藤次が西洋砲術修行のため江戸行きを命じられた。二人は江川太郎左衛門の門人井狩作蔵に入門し、二年後免許皆伝となって新発田に帰藩した。そして藩内で他の藩士に砲術指導を行った。
元治元(1864)年新発田藩では銃隊に主力をおいた洋式訓練、砲術稽古が行われた。まず藩士に訓練を行ったが藩士だけでは人数が不足し、村役人とその身内の者で15才から50才の者が1000人集められ城内で訓練が行われた。この時の「定」がある。「定」には稽古に精を出す、勝手なことを慎む、先輩に従う、火薬を粗末にしない等々が記され、これらのことを誓って稽古が始められた。
銃隊稽古が始まると、経費が増大し訓練期間が長く、しかも物価高騰などで迷惑している、隊員の士気にもかかわるので補助金を下賜してほしいと、隊員手当の増額を願い出る名主・組頭もいた。このような中で銃隊は大隊・小隊、太鼓隊などに組織され、また訓練では「直れ」「進め」「ねらえ」「打て」「込め」などの号令が発せられていた。
慶応元(1865)年の「銃隊組入用金拠出につき褒章通達書」が残されている。亀田町百姓甚兵衛・松三郎が400両献金し、「孫代まで苗字御免」の褒章をうけている。他にも多額の献金をし褒章をうけている者が多数おり、これらの多くの名主・百姓たちの献金によって銃隊が維持され、同時に献金により与えられた褒章が彼らにとっては非常に名誉なことでもあった。
慶応3年新発田藩は幕府から江戸城鍛冶橋御門番を命じられ、銃隊2小隊が出動した。横越組からは山ノ下新田名主ほか4名が動員されたが、動員された者たちは選ばれた優秀な者たちであった。
同4年4月非常時の備えとして銃隊の沼垂への出張が命じられたが、同年7月25日新政府軍が太夫浜に上陸、新発田藩は反幕府方として行動するところとなった。この北越戊辰戦争に関し、新発田藩は何もしていないという意見があるが、そうではなく、銃隊をはじめ様々な準備をしていたといえるのではなかろうか。
2023年5月30日 8:54 PM |
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4月例会
令和5年4月15日(土)
豊臣期上杉家と京都・伏見・大坂 -上杉家の留守居と人質を中心に-
講師:新潟大学人文学部准教授 片桐 昭彦 氏
<講演要旨>
豊臣期の上方での上杉氏家中の実態や動向については、分からないことが多い。上杉家が他の武家・公家・寺家などと交わした書状が殆ど残っていないためで、断片的に散在する史料からみる。上杉景勝は、天正14(1586)年初上洛、秀吉に臣従。同16年再上洛、京都に邸地付与、17年妻菊や女房(人質)らを連れ上洛、文禄3(1594)年秀吉の上杉邸御成り、翌年伏見に転居、慶長3(1598)年景勝会津へ国替え、同5年家康、会津の景勝を討つため下向、関ヶ原合戦に敗れ景勝は米沢へ減封された。
千坂景親、景勝の正室菊、直江兼続の妻子に関する史料から上杉家の上方での動向を探ってみよう。千坂対馬守景親は京都・伏見の留守居役、文禄3年知行2,176石であったが、会津国替えの際は5,500石。天正13年景勝が秀吉への太刀・馬の贈物の供に千坂対馬・村山安芸、翌14年の秀吉茶会の供に直江山城・千坂対馬と記されている。『宇野主水日記』天正14年6月条に景勝が門跡(顕如)への太刀1腰・馬1疋献上の使者として千坂対馬守参上とある。また『晴豊記』(公卿勧修寺晴豊の日記)には天正18年1月から2月に銭、酒、藤戸のりなどの贈答例などもみえる。天正19年閏正月6日の上杉・直江両人へ茶湯の振舞、広間にて千坂ら15人相伴とあり、直江兼続に継ぐ扱いをされている。この『晴豊記』は天正18・19年と文禄3年以外は残っておらず、残存部分だけでも千坂景親の記事はかなりあり、豊臣家や京都の公家・寺社との交流のため留守居としての活動が推測される。関ヶ原後も上杉家の赦免を願って奔走していた。
景勝の正室菊は、武田晴信の娘、天正6年景勝が勝頼と同盟を結ぶ条件として婚約。菊は天正18年以降、京都で勧修寺晴豊夫妻や妹准后(後陽成天皇母)と音信・贈答を通し交流。『晴豊記』には天正18年8月から翌19年2月までに4回、上杉内記(菊)から蝋燭、伊勢エビ、柿、鮒など賜の記載がある。また、菊は妙心寺住持の南化玄興に帰依し、玄興は甲斐の恵林寺滞在など武田家との縁あり、晴信25回忌、勝頼17回忌の供養を菊とともに伏見で行い交流を重ねていた。
直江兼続の妻子も上洛、文禄4(1595)年に9才の娘が吉田神主兼治の猶子となっている。文禄4年7月、8月の『兼見卿記』(兼治父の兼見の日記)には、直江の息女猶子のことや祝儀を使者源左衛門が持参のこと、直江内儀への御礼、贈答品などが詳細に記されている。文禄4年に直江兼続も伏見に転居しており、菊や千坂も共に移ったと思われる。慶長5年12月兼続娘は上杉家の行末を案じ、春日社に燈籠代黄金2枚を進上した。この頃、娘や乳母は大坂滞在と思われる。慶長5年9月から翌6年3月には家康は大坂に居り、上杉家赦免の折衝を続けた千坂景親も大坂にいた。同6年5月春日社の燈籠油料を寄進した兼続の妻せんも大坂にいた。
豊臣期の上方における上杉家の動向について、公家や僧侶の日記や寺社の記録などの断片的な史料を収集整理することが重要で、景勝や兼続妻女の動きも貴重な史料となっている。
2023年4月22日 5:02 PM |
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3月例会
令和5年3月12日(日)
近世越後における情報の伝達と収集―越後に伝わる異国船襲来と北越戊辰戦争の事例―
講師:本会副会長 菅瀬 亮司 氏
<講演要旨>
文化年間にロシア船がカラフト・千島列島を襲撃した事件が越後に伝わっている。また北越戊辰戦争の様相を三王淵村の庄屋が収集し、記録に残している。これらの事例から、情報や風聞がどのように収集、伝達されたのかを、当時の社会をふまえ考えてみたい。
「異国船一件ニ付所々之文通併風説控」(Ⅰ)には文化4年に作成された9通の書状があり、文化3年9月から文化4年5月にかけて起こったロシア船襲撃事件(「露冦事件」)についての情報伝達のようすを知ることができる。書状9通は、松前の役所間、津軽藩から庄内藩、村上藩・新発田藩と新潟奉行所、庄内酒田問屋から新潟廻船問屋、会津藩から新潟町会津蔵宿、新潟町年寄と検断の文通のものと当時松前に居て新潟湊に帰帆した早川村の仁助船からの聞き取りであるが、いずれも事件の情報が比較的短時間で越後諸藩や新潟町へ伝達されている。
次に、三王淵村(燕市・村上領)庄屋田野家旧蔵文書「風聞書三」(Ⅱ)により北越戊辰戦争の情報と風聞をみていく。「風聞書三」の内容を時系列に整理すると、大政奉還の上表、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、長岡に至る戦線、長岡攻防戦・長岡落城前後の記載である。戦線が中越後に延伸するなか、江戸の様子や村上藩主一行の帰国にも記載は及んでいる。さらに、村方・町方に起こった騒動や兵士取立て・食料供出、庄屋の動き、米沢藩の弥彦神社神楽奉納など、内容は幅広い。風聞書の情報には、御達・御触、書状、願書・報告等、勅書・御沙汰、聞き取り、風聞併せて52項目ある。中越後の動向以降、米沢藩による新潟管理、新政府軍の新潟上陸と占領などの新潟攻防戦、同盟軍の長岡城奪還、新政府軍による長岡再落城、村上方面への北進などの記載はない。鳥羽伏見の戦いについては戦場体験者の聞き取りがあり、長岡周辺に迫る戦いの推移や長岡城攻防戦に関する情報・伝聞の把握が最大の関心事であったと思われる。庄屋田野庄助の「世間」を踏まえた風聞書と思われ、いわば三王淵村庄屋がみた北越戊辰戦争ともいえよう。
Ⅰの史料によって情報が伝達される時間の状況を検討した。この事例だけでは速断できないが、想定外に早く伝わっていると感じた。また村上にもロシアとの争乱が文化4年6月には伝わっている。Ⅱの史料では、情報・風聞の収集範囲や実態を整理し、併せて記載者の情報に対する姿勢や所感にも言及したが、収集した情報や風聞の多量さに驚いた。この背景には情報に接することを可能とした幅広い人脈や交流があったと思われ、収集者の社会における位置、地理的な位置、支配関係における位置等が反映されているとも感じた。近世越後社会における情報のもつ役割は、他の同様な史料を検討することによって補完することができると思われた。
2023年3月14日 7:09 PM |
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【2月例会】 令和5年2月19日(日)
雑話:「新潟湊に現れた異国船と関屋村」余滴
講師:当会会員 植村 敏秀 氏
<講演要旨>
令和元年5月例会で報告し『郷土新潟』第59号に掲載された論文の中で、触れることのできなかった点を中心にした、「余滴」ということでの補足報告である。
今年度から、高校では「歴史総合」という科目が始まり、近現代史を中心に世界史の中での日本史という観点で、ちょうど本報告の時期である幕末の「ペリーの来航」から開始されている。
明治維新につながるその幕末激動期の中、安政5(1858)年に締結された五か国条約によって新潟は開港地となったが、国際港としては種々問題があり、適否調査が行われることとなった。幕府の調査隊は、同年10月24日(新暦11月29日)に新潟に到着し、早急に河口港である新潟湊の実態調査をして、大型船入港困難等の課題をまとめ上げた。さらに加賀藩、高田藩、桑名藩領寺泊湊、出雲崎湊、尼瀬湊、柏崎湊等における状況把握にも努め、日本海側代替港の検討も行っている。
安政6年の異国船渡来に対する協力に対し、当時の関屋村庄屋であった齋藤熊之助は褒賞として「褒美金百疋、手当同弐分」をもらったことなどが、「安政6年『関屋村 御用留』」の中で記載されている。さらにこの御用留には、異国船は調査のために突然新潟湊に来航したことが記されており、諸外国の新潟開港に対する危惧、懸念が窺われる。
同年10月9日(新暦11月3日)には、イギリス船「アクトン(アクティオン)号」と「トウフ(ドーヴ)号」2隻が来航停泊し、乗員が新潟町に上陸した後、翌日出帆している。この際、英国海軍水路部作製の「海図『JAPAN』(略称)」を携行していたが、新たに周辺海域の調査を行っており、その後も佐渡島も含めた実態把握に努めている。フランスはこれに対して独自調査を行っていないが、冬期間の波浪による入港の困難さも相まって、新潟港に対する評価は他国同様に低く、開港は紆余曲折を経て、結局1869年まで待たなければならなかった。
江戸幕府の鎖国体制下、「関屋村御用留」の中に外国の名前が登場したのは、この安政6(1859)年が最初と考えられる。外国船が隣接する新潟湊に相次いで入津し、度重なる風水害への対応にも追われる中で、派遣された長岡藩の防備要員の駐屯受容にも翻弄された。
新潟湊に隣り合わせた小村にも国際化の波が押し寄せたわけだが、村人たちはその後10年を経ずしてやってきた戊辰戦争、明治維新という大激動期を、庄屋とともにしぶとくも生き抜いていったのである。
2023年3月1日 8:37 PM |
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【1月例会】令和5年1月21日(土)
「江戸時代の旅と越後の名所」
講師:新潟県立歴史博物館専門研究員 渡部浩二 氏
<講演要旨>
江戸時代の庶民の旅は18世紀後半から多くなり、19世紀前半に一つのピークをむかえた。享和2(1802)年の十返舎一九『東海道中膝栗毛』や文化7(1810)年の八隅蘆菴『旅行用心集』の出版が影響している。そして街道の整備や庶民の経済力上昇、参詣の遊楽化、講の発達などが旅の盛行の背景と考えられる。
江戸時代初期、佐渡の産金輸送路として「佐渡三道」(北国街道・三国街道・会津街道)が整備されたが、18世紀後半以降、越後を訪れる人が増加していった。それは親鸞の旧跡地巡拝のため、東北地方の人々の伊勢参詣の往路・復路として、そして関東地方の人々の出羽三山参詣の往路としての旅であった。また文人、知識人の往来も頻繁であった。
旅の盛行にともない街道や宿場・名所などが記された携帯に便利な小型の「道中記」が盛んに刊行された。そこには親鸞の「二十四輩巡拝」や「親鸞の七不思議」関係の記事など記されている。新潟市鳥屋野の逆竹、同市山田の焼鮒、阿賀野市の八房梅、数珠掛桜、三度栗、田上町の繋榧などである。
同時に「越後七不思議」関連の記事も多く記されている。日本最古の即身仏・弘智法印(西生寺・長岡市野積)、自噴する火井(天然ガス、三条市如法寺)や燃水(石油、新潟市秋葉区)等々、いずれも越後独特の名所・奇観であり、訪れた旅人は大きな驚きとともに知的関心をより一層深めていった。そしてそれらは下越一帯に集中しており、一つの巡回ルートとして成立していたと思われる。
旅の盛行にともない旅宿も整備されていった。当時は旅籠、木賃宿、善根宿、合力宿などさまざまな旅宿があったが、1800年代に入ると木賃宿が少なくなり旅籠に泊まる旅人が多くなったように思われる。そして旅籠の組合として講が結成された。関東地域における講は「東講」で、越後の旅籠もそれに加盟するようになった。「東講」の看板が掲げられていれば「安心して泊れる」と旅人から受けとめられていたようである。また各旅籠は「引札」を作って宣伝も行っていた。
以上のように江戸中後期、越後へ多くの人々が訪れた。そして越後への旅人の増加とともに多くの記録が残された。『東奥紀行』(長久保赤水)、『東遊記』(橘南渓)、『金草鞋』(十返舎一九)、『虎勢道中記』(江戸の商人与八)など、いずれも当時の越後の状景が記録され非常に貴重な出版物となっている。
今後は、旅の流行が越後社会に与えた影響について、そして地域側の対応について解明していきたいと考えている。
2023年1月28日 9:59 AM |
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