10月例会
令和6年10月20日(日)
演題:新潟開港と戊辰戦争-新潟奉行代理田中廉太郎光儀(れんたろうみつよし)の生涯と御料所新潟の終焉-
講師:東京大学史料編纂所学術支援専門職員 杉山 巖 氏
〈講演要旨〉
本日は新潟開港と幕末、明治維新期の新潟の歴史について、新潟奉行代理であった田中廉太郎光儀の生涯と関連させてお話したい。
新潟の開港が最終的に決まったのは慶応3(1867)年8である。その開港をひかえ外国方の上級事務を担当していた白石千別、糟屋義明が新潟奉行に就任した。また同4年正月、田中光儀が新潟奉行所ナンバー2の組頭として就任し、さらに同年閏4月新潟奉行勤向(奉行代理)に昇任した。
田中光儀は幕府代官所手代の子息として生まれ、のち浦賀奉行所の役人であった田中家の養嗣子となり家督を相続した人物である。彼は浦賀奉行所や長崎奉行所に在勤し、その後幕府の外国方の役人となり小笠原島問題を担当することとなった。この時小笠原島開拓担当の外国奉行組頭が白石千別で、その下の調役が田中であった。
また彼は横浜鎖港問題の交渉使節団の一員としてヨーロッパへ派遣された。使節団は文久4(1864)年正月上海に到着、その後各地を経由しパリに到着、フランスと交渉するが失敗、同年7月帰国。団員は失敗の咎を受け、田中も役職を離任した。
慶応3年10月14日に大政奉還が行われ、同年11月徳川家は新潟に在勤していた新潟奉行白石千別を江戸に呼び戻した。新潟開港が切迫していたため白石は江戸在勤の糟屋義明らと協議し、同3年12月7日の開港予定を翌4年3月9日に延期することを決定した。そして同4年正月新潟奉行所組頭に田中が就任し、白石、田中の二人は新潟に来た。二人は外国奉行所時代の上司と部下であった。
同4年3月15日明治新政府の北陸道鎮撫使が来越、新潟奉行も召喚された。鎮撫使にようやく会えた田中は行政事務の引き継ぎを命じられた。そして4月4日徳川家の指示を仰ぐため白石と田中は会津を経由して江戸へ行った。白石は新潟奉行を免じられ江戸にとどまることとなった。一方田中は奉行勤向に就任し5月2日新潟に戻った。戻った彼は新潟を米沢藩の「当分預所」とする決断を下した。この決断は徳川家の方針にそったもので田中が勝手にやったわけではないと言える。田中の行動はあくまでも徳川家の家来としての行動であった。そして6月2日田中は江戸に向かって新潟を出立した。
明治時代田中は豊岡県(現兵庫県)の県令に就任し、その一方で大木喬任や井上馨の顧問のような仕事もした。また木戸孝允との交流もあり新政府要人らに提言したりした。今その活動を物語る手紙などが残されている。
2024年10月29日 7:56 PM |
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9月例会
令和6年9月15日(日)
演題:菖蒲塚古墳と菖蒲御前伝説
講師:新潟市歴史博物館副館長 小林隆幸 氏
〈講演要旨〉
菖蒲塚古墳は県内最大の前方後円墳で、4世紀に蒲原平野に君臨した有力者の墓です。古墳はやがて放置されますが、その異様性・神秘性から信仰の対象ともなり、古墳名称の由来となる菖蒲御前伝説との結びつきもあり、今日に至る人々との関係を概観してみます。
菖蒲塚古墳は4世紀半ば頃造られた全長53mの前方後円墳、金仙寺裏山の墓地の中に所在。副葬品には鼉龍鏡(径23.7㎝)・ヒスイ製勾玉や管玉があった。陪塚は隼人塚古墳。菖蒲塚古墳は大王墓の渋谷向山古墳(景行天皇陵)の5分の1で同企画。近接する南赤坂遺跡には北方系文化の系譜をもつ続縄文土器や土器も見つかり、菖蒲塚古墳の主のもとで北方の人々との鉄器の素材や皮などとの交易が行われていた可能性がある。
中世に入ると末法思想を背景に古墳が経塚として利用され、神聖な場所に位置づけられる。菖蒲塚古墳には、嘉応2(1170)年銘と享禄3(1530)年銘の経塚が出土している。嘉応2年銘は金仙寺が江戸期に発掘したもの、宋代の青白磁の小壷と合子、和鏡5点、陶製壺2点を埋納。享禄3年銘は六十六部聖が全国を巡礼し法華経一部を納めたもので越後では霊場として菖蒲塚が選定されたものと思われる。
菖蒲塚はその名称となった菖蒲御前の墓と伝えられている。金仙寺の山号は菖蒲山である。菖蒲御前は治承4(1180)年に宇治で戦死した源頼政の妻で、夫戦死した後に越後に逃れた。その子が後に小国氏の支城であった天神山城主となった。この菖蒲御前と関連するのが、金仙寺所蔵の聖観音坐像の底板に元徳3(1331)年「大施主貞阿」「女大施主」とある。また菖蒲塚古墳の近辺から掘り出された石塔に「菖蒲貞阿禅尼」印刻されている。過去帳には「菖蒲貞阿禅尼」が貞応2(1223)年没とあり、印刻名と同一人物と思われる。金仙寺で発掘された装身具も高貴な女性を連想させ、菖蒲御前伝説を後押しした可能性もある。
また古墳は盗掘され、鏡(鼉龍鏡)などが出土したとされ、盗掘品は市場に出ている。金仙寺の発掘の時期は文政期と思われるが、新発田藩の丹羽伯弘は鏡を実見し天保15年に拓本を取っており、この拓本は近年みなとぴあに寄贈されている。盗掘された鏡はしばらく最初の所有者が保管、昭和27年齋藤秀平が漢式の四神四獣鏡と判定し話題となった。同年上原甲子郎氏が東京国立博物館に持ち込まれていた鏡の拓本を取った。以降、鏡は所有者の手を離れ行方不明となり昭和36年に所在が分かり、上原甲子郎氏が購入、令和2年に東京国立博物館に寄贈された。昭和37年に鏡は新潟県指定文化財、金仙寺所蔵の経塚出土品(重要文化財)はみなとぴあで保管・管理、地域の重要な文化資源となっている。
菖蒲塚古墳は地域の首長の墓として造営、中世には神聖な場所として経塚の役目をもち、近世には伝説と結びついて信仰の対象となっている。古墳時代の遺跡だけではなく、各時代に役目をもった複合遺跡といえるのではないか。
2024年9月18日 11:58 AM |
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8月例会
令和6年8月18日(日)
中越大震災20年と地域史研究・史料保存~災害と復興をかたりつぐために~
長岡市立科学博物館歴史研究室総括副主幹学芸係長 田中洋史 氏
〈講演要旨〉
中越地震から20年にわたる長岡市における災害資料の収集・保存の活動を中心にその概要を報告する。
中越地震被災時に読んだ『阪神淡路大震災にかかわる資料保存活動の記録』に啓発され、長岡において被災資料の救済と災害資料の収集活動を始めた。その活動は行政組織を動かして被災下の状況を踏まえて行い、市の復興計画に災害の記憶の伝承と地域振興での活用を盛り込むことによって、中央図書館文書資料室による災害復興資料収集の継続が可能となった。災害から4~6年を経て、学校などの市施設を対象に資料収集を拡大するとともに、資料を活用した展示会などを開いた。平成23年の東日本大震災の際には、文書資料室は、福島県からの避難者の避難所で作成・配布・掲示された資料の収集を行った。
中越地震から10年目には、市のフェニックスプロジェクトの一環として、「災害と復興をかたりつぐ」事業を実施し、それまでの被災救済資料や収集資料によって長岡市災害復興文庫を開設し、市内15か所でのリレー講演会や企画展を開催した。その後、中越地震以降の長岡市の活動を記録・刊行したり、展示会や講演会を開催したりするなど活動を通じて、全国に被災資料の救助と災害復興資料の保存の重要性を発信してきた。その結果、現在、全国で多発する災害に際して長岡市の施策が参考にされるようになっている。
こうした活動が継続できた背景には、行政における事業の位置づけを明確にしたこととともに、市民協働の力が大きい。被災資料や災害復興資料の整理には長岡市資料整理ボランティアが大きな役割を果たしている。また、新潟歴史資料救済ネットワークとの連携も重要であった。
こうした市民や関係団体との連携を踏まえて、長岡市は令和6年長岡市歴史文書館を開館した。また、長岡市と市民の活動を伝える「救え!山古志の文化財~民具と古文書が語るもの~」を開催した。今後、歴史文書館と博物館、図書館が連携して活動を継続発展させる必要があろう。また、これからも発生する災害とともに、長岡市に甚大な被害をもたらした戦災に関する資料収集・保存・活用も今後の課題である。人々の暮らしのなかで誰もが体験したこと、日常的なことは資料として残されない。こうした資料を意識的に収集・保存・活用することが重要だと考える。
2024年8月20日 9:48 PM |
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7月例会
令和6年7月28日(日)
「北前船と新潟 −廻船と日本海海運の時代−」展について
新潟市歴史博物館学芸員 安宅俊介 氏
<講演要旨>
そもそも「北前船」という言葉は新潟ではあまり用いず、単に「廻船」などと呼ばれていた。日本遺産「北前船」では、「江戸時代中期(18世紀中ごろ)から明治30年代に大阪と北海道を日本海回りで商品を売り買いしながら結んでいた商船群」と定義し、船主の出身地を重視しない中西聡氏の見解とほぼ同じ立場をとっている。本展も、この柔らかめな捉え方で考えている。新潟市(新潟町)には「北前船」に関する史料がそれほど多くは残っていない。そこで、今回は「廻船と日本海海運の時代」という副題をつけた。廻船(北前船を含む)と海運、そして「みなと」を広く捉える展示にせざるを得なかった。
本展の展示構成を示す。全4章で構成し、1北前船の登場、2新潟町と廻船、3廻船問屋と船主、4海運の荷品とし、プロローグとエピローグをつけている。1北前船の登場では、北前船全般の説明をし、近世初期の新潟湊に関する絵図、船路や船、船具に関する展示、特に船と航海の安全を祈るための史料を多く展示している。2新潟町と廻船では、新潟町を中心に湊町の史料を紹介している。湊ならではの仕事に関する史料を中心に展示し、「大新潟湊」展以降に把握した史料も出ている。3廻船問屋と船主では、北前船をはじめとした廻船の取引仲介などを行った廻船問屋に関する史料を最新の研究をふまえて紹介している。廻船の船主(北前船主)の具体例として小澤家文書を中心に紹介している。実際の航海の損益がいかほどだったか、また変動する相場への対応なども紹介している。4海運の荷品では、海運によって運ばれたものを紹介している。北前船に限らず具体的なモノ史料とあわせて北前船が売買をした取引文書もモノにあわせて紹介している。特に佐渡にもたらされた人形などは多めに展示している。5エピローグでは、斎藤喜十郎、小澤七三郎、小池上春五郎、鈴木長蔵などの廻船問屋や北前船主の近代以降のあり方を紹介している。また新潟町(新潟市、新潟港)の近代以降について、ごく簡単に紹介している。
おわりに、北前船とその後について触れたい。北前船は幕末から明治初期にかけて最盛期を迎えたといわれている。しかしその後、各地の相場情報を瞬時に伝える電報などの新たな通信手段が生まれ、それまでの木造和船と比べて大量の荷物を運ぶことができる大型の蒸気船の登場やさらに新たな陸上輸送として各地に網を広げていった鉄道などの近代的な交通手段の登場によって明治20年代以降衰退していった。こうしたなか船主や廻船問屋のなかには没落していく人もあれば、それまでに蓄積した資本を新たな方向に振って経営を拡大していった人もいた。新潟市の船主や廻船問屋の場合、土地集積による地主化、銀行・会社の設立・経営、米穀、石油、酒などの委託販売業、汽船を用いた近代的海運業、北洋漁業への進出などがみられる。〈この後、展示解説が行われた。〉
2024年8月7日 9:52 PM |
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5月例会
令和6年5月18日(土)
借金証文にみる越佐の社会 -江戸から明治時代まで-
当会会員 本田 雄二 氏
<講演要旨>
本日は江戸から明治時代の借金証文を通して、どのような社会状況がうかがえるのかをテーマにお話ししたい。
借金証文には借用金額、利息、借用理由、返済期日、借主、貸主などが記載されているが、明治になると表題が「借用金証書」「借用証」「証」などと簡略化されている。同時に証印が黒印から朱印に変わり、円が使われ、収入印紙が使用されるようになった。ただ明治になってすぐに変わったわけではなく、従来通り黒印が使われたり、収入印紙が貼られない場合もあった。
越後・佐渡各地の借金証文について、その地域性を見てみたいと考え平野部、山間部、漁村部の3つに区分してみた。その結果、たとえば利息について蒲原など平野部は「月一分」が多くやや低利、それに比べ魚沼など山間部はやや高いように思われる。これはおそらく収穫、収入時期の回数の違いによるもので、山間部は収穫、収入の時期が年一回ということが背景にあるのではなかろうか。利息が「世間並」と記されている例も多く、時代や地域によってそれぞれ異なっていると思われる。
借金の理由については「要用につき」と記されている例が多いが、「年貢上納金に差し支え」「酒造仕入方に引き詰り」「倅婚姻に差し支え」などと実際の生活の中での具体的な理由が記されている。借金の担保(引当)物件としては、土地、屋敷が多い。他には家財、商品、脇差、蝋、木炉(薪)、蚕(繭)、人足奉公、杉木、臭水油(石油)など様々である。講の組織によって集められた頼母子金が担保になっている場合があり、同時にその講から借金をしている例も見ることができる。
借金はどのような方法で返済されたのであろうか。農林水産業、手工業、商売など家業で得た収入で返済、日雇い、奉公など労働賃金で返済、講組織による講金で返済など様々な事例があった。また「返済した」という証明は、文書に記された金額や関係者名、印鑑の部分を抹消したり、あるいは文書全文を抹消し「返済証明」としていた。明治時代新潟銀行が「消印」というゴム印を作り、それを使った文書も残されている。
以上、江戸から明治時代にかけての借金証文を見ることにより、借金事例や担保物件の種類が増加し、経済活動の活発化していったことがうかがえる。そして借金理由やその利息、返済方法などから、当時の社会の姿や人々の暮らしの一端を知ることができるのではなかろうか。
2024年5月26日 12:45 PM |
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令和6年4月27日(土)
ドイツ史料が描く新潟開港と戊辰戦争
当会会員 青柳 正俊 氏
<講演要旨>
新潟は開港五港の一つとして外国に注目された町であった。戊辰戦争期の新潟開港とドイツとの関わりを、新たにドイツの公文書によって考えていく。内戦の最中に開港日を迎えた新潟をめぐる国際関係は、新政府を後押しするイギリスとこれに対峙するプロイセン(北ドイツ連邦、後のドイツ帝国、以下ドイツ)が存在感を発揮している。イタリアは自国産業に不可欠の蚕種(産卵紙)の輸入継続を望み列強に支援を求め、ドイツはこの問題を共有していないのに列強協調路線を離脱、列藩同盟側の軍事補給基地となった新潟との関係など、どこまで確認できるかを繙きたい。
近年はドイツ公文書館の日本関係史料がデジタル画像化されウェブ上で公開された。従来の新潟開港は英・米・仏列強3国の内情によって分析されてきたが、今回はブラント(ドイツ駐日代理公使)からビスマルク(ドイツ首相兼外相)への報告やブラントへの指示文書、往復文書などを解読、分析したものである。
ブラントは1863年日独修好通商条約発効と共に日本領事として横浜着任、1867年一時帰国の後ドイツ代理公使として帰任、1871年駐日ドイツ帝国公使、1875年駐清国公使として転任した。
研究成果の一つとしてドイツによる蝦夷地の植民地化計画をみると、1868/7/31ブラントはビスマルクに「会津・庄内から蝦夷地・日本西海岸の領地をドイツに売却したい」旨の報告、本国は「英米の動きが事実であれば交渉を開始してよい」と指示。さらにブラントは同年11/12~13にビスマルクに「蝦夷地を借款と引替に99年担保に出すとの委任状を持参」と説明し、本国の判断を求めている。最終的には本国政府が蝦夷地植民地化に動くことはなかった。
次に新潟開港、戊辰戦争期、局外中立をめぐる本国訓令の三つのステップに分けてブラント報告と本国の対応をみよう。ブラントは新潟開港は予定通りに行くと報告、イタリアは蚕種確保のため新潟に入港し、ブラントは友好関係を正当化する行動と報告している。ビスマルクは列強の不一致を憂慮するが、ブラントの取った姿勢に同意を与えている。1868/9/11新政府軍は新潟港封鎖を宣言し新潟を占領、外国商人は一掃された。この間の動向について全体としてドイツ史料には不可解な面があり、更に分析する必要がある。
戊辰戦争についてブラントは当初仏ロッシュの大君に同一化の行動を問題視、さらに英のミカド謁見や新政府承認、新潟開港問題での対応の相違、東北戦争の米沢・会津の降伏後での内戦継続などを批判している。また新政府は列強代表に局外中立の撤廃を迫ったが、英パークスの行動は列強協調と局外中立に反するとビスマルクに繰り返し報告した。
本国特にビスマルクからブラントへの訓令をみると、ブラントは各国代表と協調し局外中立宣言を行い、自国民・自国領事への警告を出した。本国の基本姿勢は、内乱に対する完全な中立と団結は日本との関係の発展を保証する、この方針で各国代表との対処を要請した。本官(ビスマルク)はミカドの招待に応ずる是非を予断できないが、内戦の一方に組みしているとみられることを避けるべきと訓令している。一方パークスは英枢密院勅令に基づき、開港地でのすべての商取引は中立宣言の範疇外とした。ブラントも同様に軌道修正を試みるが、本国は利益を優先させる商業者による中立違反を助長しかねないとして局外中立をへの働きかけを訓令した。しかし英パークス公認で英船舶による新政府軍兵員輸送を認識したため、ブラントのそれに追随する方針転換に対しては本国も全面的に是認した。ビスマルクは英パークスの党派的な姿勢を認識し、パークスに対する反感をブラントと共有していた。
現段階のまとめではビスマルクは内戦の一方に荷担する非を説いていた。ブラントは英パークスの行動の反作用として反新政府的な姿勢を強めていたが、やがて列強の大勢につき本国政府の是認を請けている。新潟開港の意図はイタリアの支援、自国商人の通商活動の促進、戊辰戦争をめぐる英パークスへの対抗にあった。
2024年5月2日 8:57 PM |
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3月例会
令和6年3月17日(日)
師範学校を卒業した人々の『戦中記』について―昭和一六年三月卒業生を中心にして―
本会理事 山上 卓夫 氏
<講演要旨>
昭和62年6月刊行の『私たちの戦中記』は、新潟師範学校を昭和16年3月に卒業した紀一会の会員が、太平洋戦争の最中にそれぞれが体験したことを書き綴ったものである。文章を寄せた63名のうち6名を紹介する。まず、中心人物の北上芳樹氏。氏は卒業の翌年に舞鶴海兵団に入隊、第2期師範徴兵となる。氏によれば、かつて師範学校出身者は卒業後6か月間の兵役に服すれば、以後の兵役義務はすべて免除されていたという。しかし日支事変後、昭和15年卒の人たちから一般の徴兵と同じ取扱いを受けることになった。氏の文章から「こんなはずではなかった」という思いがうかがえる。氏はソロモン海戦で死線をさまよう体験をしたが、直後の帰郷先では教師が碁に興じるなど楽天的な空気が漂い、戦地との落差を感じたという。氏はその後、舞鶴海兵団少年練習兵普通学の教員となり、終戦を迎えるが、氏のように海軍関係機関の教員となった人々も多い。この戦争で戦没した新潟師範学校卒業生は多いが、なかでも昭和15年から17年卒業生の戦没率は際立っている。ノンフィクション作家の保阪正康氏は「学徒の頭脳が必要だった」という軍事課将校の言を紹介し、大学生や師範学校卒業生の多くが戦争の犠牲になったと指摘する。
次に山崎仁一郎氏。氏は館山海軍砲術学校卒業と同時に少尉に任官し、北千島の占守島防空隊指揮官となった。そこで捕えられた米軍捕虜が櫛を離さず持っていることに驚いたという。そして、「たとい戦争とはいえ、同じ人間同士が殺し合わねばならないということは全くおかしなことではあるまいか」と綴っている。次に池田一男氏。氏はフィリピン沖海戦後、滋賀海軍航空隊の甲種予科練習生の教員となった。滋賀では、自分が軍艦の兵隊であったことがすぐに察せられたという。目つきが常人とは違っていて、戦争の中で、軍隊の中で、いつの間にか人間性を失ってきている自分に気がついて、慄然たる思いに陥ったという。氏はその後、新潟県史編さんにも関わり、『新潟県農民運動史(戦前編)』という大著をものにしている。次に杵渕浩氏。氏は卒業後、新潟市関屋小学校教員となったが、まもなくインパール・コヒマへ従軍。攻撃中、右肘関節部に激痛を感じた。氏のすぐ前にいた中隊長と隣にいた上等兵は戦死し、自分は捕虜となった。次に治田稔氏。氏は私(山上)の母のいとこに当たる人で、コヒマで戦死している。治田氏の義弟である嘉村正規氏から提供を受けた父・弟・妹への書簡が「戦場からのたより」として紹介されている。最後に田原智城氏。氏もインパールに従軍。この戦闘で同級生や先輩の多くが戦死し、残った紀一会員は余田・杵渕と自分のみで、「戦闘とは食う飯も飲む水も無くなるものであることを知る」と述懐している。終わりに、師範学校卒業生たち戦中派は「戦争は駄目だ」ということを若い人に伝えたいという信念を持ち、文章を書いているように思う。
2024年3月21日 8:45 PM |
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2月例会
令和6年2月18日(日)
シンポジウム・新潟郷土史研究会のSDGs
「郷土史研究と学校教育との連携」
新潟郷土史研究会理事 竹内 公英 氏
新潟市立内野中学校教諭 江口麻衣子 氏
新潟県立新津高等学校教諭 小島 大介 氏
<講演要旨>
<竹内>本日は今までにないテーマであるが、郷土史研究がどのように進められていったら良いのか。一つの参考例になればありがたい。また貧困、教育、平和等SDGsの目標が示されているが、郷土史研究の中でどのような貢献ができるのかも考えてみたい。現在の中学、高校教育は昔と比べ大きく変化している。知識はネットですぐに知ることができる。自分達で調べ学んでいくことが大切である。今日は二人の先生から中学、高校の授業の現状を話していただき意見交換を行いたい。
<江口>中学校学習指導要領の解説に「地域に残る文化財や諸資料を活用」と記されている。同時に私は歴史事象の背景について考え学んでいくことが大切であると考えている。そのためにも地域の資料を揃えていきたい。たとえば江戸時代の課題の一つとして新潟町の人口についてとりあげてみた。「江戸時代の新潟町の人口の推移」のグラフを示し、新潟町の人口が江戸時代の初めに比べ幕末の頃になると6倍に増えている。なぜ増えたのか、その背景について新田開発や産業、交通の発展などとの関係に触れながら授業を進めていった。
<小島>今年度は高校が新課程となり歴史総合が2年目、日本史探究が1年目の年である。今日本史探究を担当しているが、地域の資料は授業の中で差しはさむ程度である。
<竹内>郷土史研究会など学校外の団体や組織と授業担当者との連携について、どのようなことができるだろうか。
<江口>以前勤務していた学校では県政記念館で授業を行ったことがある。準備が大変であったが有意義であったと感じている。
<小島>新潟大学の先生から災害の歴史について授業を担当してもらった。また総合学習の授業で新津駅や埋蔵センターへ行って調べたりした。
<出席者A>シティガイドをやっている関係で毎年中学生に街歩きのガイドをしている。コロナ禍で街歩きができない年は事前に街歩きのビデオを撮り、それをバーチャル授業の中で使い、私達と中学生とがお互い質問しあいながら進めていった。事前の用意が大変であったがいい経験であった。
<出席者B>私もシティガイドをやっているが、事前に質問項目を提示される先生がいて助かっている。先生方のリーダーシップが大切であると感じている。
<竹内>新潟郷土史研究会のSDGsとの関連で、学校と連携したり、もっと若い人達に会員になってもらったりするにはどうしたらいいのか。そして公立の先生方は転勤で異動しなければならない。そのような中でこれだけはこの地域で教えてほしいということがあれば出していただきたい。
<出席者C>護国神社戦没者霊園に行くといい。東西両軍の戦没者が祀られているまれな霊園である。
<出席者D>地元中学生が万代橋や祭りのことをガイドし伝えている。白山公園についても近くの小学生が宣伝している。学校が広い視野で羽ばたいてほしい。
<出席者E>郷土史研究会の蓄積を地域の学校に届けてほしい。「こういうことだったらできます。できそうです」と届けてほしい。
<竹内>新潟には私達が想像している以上に誇れるものがあると思う。それらを財産として今後とも子供達に伝えていく必要があると感じている。本日はありがとうございました。
2024年2月27日 7:06 PM |
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1月例会
令和6年1月21日(日)
蒲原平野の「若き者共」 -新発田藩領を中心に-
新潟市歴史博物館前館長(当会会員) 伊東祐之 氏
<講演要旨>
江戸時代後期に蒲原平野で「若き者共」と呼ばれた者たちの事件史料を検討して領主や村社会からどのように認識され、どのような存在であったのかを考えてみたい。
近世~明治中期の青年団体として「若者組」がある。この基本的性格は村人としての訓練を行う場である。岩田重則は若者を3類型に分け、その一つとしてとして、東北地方に濃厚に分布し未研究の部分はあるが若者奉公人をあげている。
「若き者共」とは新発田藩領で史料に表記されている呼称であり、その実態を史料に基づいてお話しする。新発田藩の「達・触」をみると、「若き者共」は安永・宝暦の史料で「農業不働」、盆中に他村に出かけ「喧嘩口論」などを行っていると指摘。藩や村は、喧嘩口論、付休・押休等の申合や実行、祭礼・習俗の強行や暴行などを規制している。
具体的には、弘化2(1845)年に新潟の付寄島(流作場)の若者が紫竹山新田に出かけ、7月15日に付寄島の若者共が大勢で踊見物に出かけ足を踏んだことで喧嘩が起こり、7月19日には女池新田皆応寺の相撲見物に出かけた帰りに紫竹山新田で大声、悪口雑言をなした事例がある。異装、飲酒して隣村の祭礼に押しかけ喧嘩、饗応の強要、祭礼場所の破壊などを行っていた。天保5(1834)年の「休日一件請書帳」には村が年間の休日を定めており、6日に1日休む「六歳休」もあって想定以上に休日が設けられている面もあるが、なお休日を延長して休みにする「付休」や臨時に休みを強行してしまう「押休」などの要求事例もあった。「若きもの共大勢申合自己ニ而付休等触来」の場合、名前を聞き名主に届けよと定めている。女池新田の天保12年の願書には奉公人(若者共)が付休を取った、若者仲間は集落ごとにまとまって行動し吟味に対し黙秘や欠落を行っている。「付休・押休」に対し名主への願い出で許可することもあったが、守らない場合の制裁もあった。
さらに村の習俗とも関連し、婚礼の際に石礫を投げたり祝儀の馳走に預かったり戸障子を打ち破り家内乱す、神事の際に大勢で他村へ押しかけての理不尽な所業もみられた。小泉蒼軒の「越後志料風俗問状三之巻」には、「わかき者共」はくじ引きで選んだ村内の若い女を性的対象として束縛する「盆割」の習俗を記載。また寺社の祭礼の遊芸・芝居などに参加便乗、歌舞伎狂言見物の木戸銭請取、博奕を催すなどの事例もあった。
このような事例を内済で収める相手は「若き者共」の「父兄・主人」であった。、この「若き者共」の年齢や家族構成をみると、天保12年の女池新田の仲間70人でみると年齢は15歳から29歳が主、奉公人が68%を占め、村の戸主の長男は3人である。蒲原地方の「若き者共」は、オジと若者奉公人などが主であったと思われる。この「若き者共」は近世初期においては一定の階層とはみられていなく、宝暦・安永期(18C中・後半)以降、社会的な意義をもつ階層となっている。
江戸時代初期の大経営に包摂されていた家族が前期に小農として自立したが、分家などによる傍系家族の自立は困難なため家族内労働として存在するか、労働力不足の経営へ一季奉公人として供出される層がかなりいたと考えられる。彼らが労働の軽減、娯楽を求め押休、喧嘩、酒食強要、盆割などの活動をする。やがてこうした者を領主や村は「若き者共」と認識し、その活動を問題視するようになる。蒲原平野にとって経済・社会的には不可欠な存在でありながら、村の統治のなかでは周縁的存在であり、村社会の矛盾を体現する存在の一つであったと思われる。
2024年1月26日 9:31 PM |
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12月例会
令和5年12月17日(日)
最後の新潟奉行白石千別とその日記
東京大学史料編纂所学術支援専門職員 杉山 巌 氏
<講演要旨>
慶応元(1865)年より同4年迄新潟に在勤し、開港に関わる行政事務を管掌した、最後の新潟奉行である幕臣白石千別の日記や関係文書を紹介しながら、千別の生涯と開港直前の新潟の様子を話したい。
初代新潟奉行川村修就の日記は、「川村家文書」(新潟市所蔵)として知られ、広く活用されているが、最後の奉行白石千別の日記は、東北大学付属図書館、国立国会図書館に分蔵されていることなどもあり、あまり注目されていないようである。
千別は文化14(1817)年、江戸幕府勘定方役人勘定組頭を務めた白石吉郎久竈の子息として生まれ、父が普請役より佐渡奉行所広間役に転任したため、文政11(1828)年3月~天保6(1835)12月迄を佐渡で過ごした。当時の佐渡には、すでに学問所「修教館」も設置されており、千別は国学・和歌なども学び、その学問の基礎が出来上がったものと思われる。
その後父が勘定所の支配勘定に転任したことで千別も江戸に戻り、天保9年12月から支配勘定見習いとして勘定方に出仕するに至り、勘定奉行の役宅新築工事などを担当し、その功績により他の担当者と共に褒章され銀7枚を与えられている。そして天保14年12月、27歳の時に白石家の家督を相続し、この頃から日記を記し始めたと考えられる。
千別は日記からも分かるように筆のたつ人物であり、弘化2(1845)年11月に表右筆に任用され、嘉永元(1848)年9月には機密文書作成を担当する奥右筆留物方、そして同4年から直轄領を管轄する代官に任用され、柴橋(出羽)、生野(但馬)、大坂谷町の代官を歴任し、安政6(1859)年2月には、外交を専門に担当する外国奉行支配組頭に登用された。
外国方在勤時代に、外国人接遇所建設、小笠原島開拓、外国公使らを攘夷のテロから護衛する「別手組」を管轄する外国御用出役頭取元締、さらに元治元(1864)年8月には神奈川奉行へと昇進し、各国公使と横浜居留地に関する覚書にも調印している。
こうした手腕を買われ、開港が切迫した状況となりつつあった新潟に、奉行として転任することとなるが、この新潟在勤時代の慶応2~4年に渡る日記3冊が、東北大学附属図書館(狩野文庫)に残されている。一方、安政3年~元治元年の日記としては『幕末外国奉行白石忠太夫日記』の名で、国立国会図書館古典籍資料室に所蔵されている。「狩野文庫本」にも神奈川在勤時代の公務日誌が残されており、「国会本」をあわせると13年にもわたる日記14冊が伝来されていることになり、外国方役人の日記としては、神戸市文書館所蔵の「柴田日向守剛中日記」と並ぶ大部の日記として非常に貴重なものである。
なお、千別は新潟奉行に就任するに際し、一旦外国奉行に任じられてから転任している。新潟奉行が外務担当の職であることを示すためであるが、このことは喫緊の開港問題を抱えて、佐渡奉行の次席であった新潟奉行の格式が上がったことも示している。実際在勤中には、英軍艦サーペント号の入港、英全権公使パークスや外国奉行の視察等があり、慶応3年10月には江戸在勤の奉行と共に2人体制が敷かれ、その重責の程が伺える。
しかし大政奉還がなされ、千別は慶応4年5月に職を免ぜられ、新潟奉行所は組頭の田中廉太郎が代理となって、同年6月に米沢藩仮預所へ引き渡され終焉することとなった。
その後隠居した千別ではあったが、明治20(1887)年71歳で死去する迄、国学者・歌人、そして新聞人として活躍し、宮内省に出仕し皇室系図を考証したり、「今様翁」と号して和歌研究に勤しんだだけでなく、『有喜世新聞』の編集長としても活動している。
2023年12月23日 8:55 AM |
カテゴリー:月例会 |
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