月例会

3月の例会=報告

3月例会

令和6年3月17日(日)

師範学校を卒業した人々の『戦中記』について―昭和一六年三月卒業生を中心にして―

本会理事 山上 卓夫 氏

<講演要旨>

 昭和62年6月刊行の『私たちの戦中記』は、新潟師範学校を昭和16年3月に卒業した紀一会の会員が、太平洋戦争の最中にそれぞれが体験したことを書き綴ったものである。文章を寄せた63名のうち6名を紹介する。まず、中心人物の北上芳樹氏。氏は卒業の翌年に舞鶴海兵団に入隊、第2期師範徴兵となる。氏によれば、かつて師範学校出身者は卒業後6か月間の兵役に服すれば、以後の兵役義務はすべて免除されていたという。しかし日支事変後、昭和15年卒の人たちから一般の徴兵と同じ取扱いを受けることになった。氏の文章から「こんなはずではなかった」という思いがうかがえる。氏はソロモン海戦で死線をさまよう体験をしたが、直後の帰郷先では教師が碁に興じるなど楽天的な空気が漂い、戦地との落差を感じたという。氏はその後、舞鶴海兵団少年練習兵普通学の教員となり、終戦を迎えるが、氏のように海軍関係機関の教員となった人々も多い。この戦争で戦没した新潟師範学校卒業生は多いが、なかでも昭和15年から17年卒業生の戦没率は際立っている。ノンフィクション作家の保阪正康氏は「学徒の頭脳が必要だった」という軍事課将校の言を紹介し、大学生や師範学校卒業生の多くが戦争の犠牲になったと指摘する。

 次に山崎仁一郎氏。氏は館山海軍砲術学校卒業と同時に少尉に任官し、北千島の占守島防空隊指揮官となった。そこで捕えられた米軍捕虜が櫛を離さず持っていることに驚いたという。そして、「たとい戦争とはいえ、同じ人間同士が殺し合わねばならないということは全くおかしなことではあるまいか」と綴っている。次に池田一男氏。氏はフィリピン沖海戦後、滋賀海軍航空隊の甲種予科練習生の教員となった。滋賀では、自分が軍艦の兵隊であったことがすぐに察せられたという。目つきが常人とは違っていて、戦争の中で、軍隊の中で、いつの間にか人間性を失ってきている自分に気がついて、慄然たる思いに陥ったという。氏はその後、新潟県史編さんにも関わり、『新潟県農民運動史(戦前編)』という大著をものにしている。次に杵渕浩氏。氏は卒業後、新潟市関屋小学校教員となったが、まもなくインパール・コヒマへ従軍。攻撃中、右肘関節部に激痛を感じた。氏のすぐ前にいた中隊長と隣にいた上等兵は戦死し、自分は捕虜となった。次に治田稔氏。氏は私(山上)の母のいとこに当たる人で、コヒマで戦死している。治田氏の義弟である嘉村正規氏から提供を受けた父・弟・妹への書簡が「戦場からのたより」として紹介されている。最後に田原智城氏。氏もインパールに従軍。この戦闘で同級生や先輩の多くが戦死し、残った紀一会員は余田・杵渕と自分のみで、「戦闘とは食う飯も飲む水も無くなるものであることを知る」と述懐している。終わりに、師範学校卒業生たち戦中派は「戦争は駄目だ」ということを若い人に伝えたいという信念を持ち、文章を書いているように思う。

2月の例会=報告

2月例会

令和6年2月18日(日)

シンポジウム・新潟郷土史研究会のSDGs

「郷土史研究と学校教育との連携」

新潟郷土史研究会理事   竹内 公英 氏

新潟市立内野中学校教諭  江口麻衣子 氏

新潟県立新津高等学校教諭 小島 大介 氏

<講演要旨>

<竹内>本日は今までにないテーマであるが、郷土史研究がどのように進められていったら良いのか。一つの参考例になればありがたい。また貧困、教育、平和等SDGsの目標が示されているが、郷土史研究の中でどのような貢献ができるのかも考えてみたい。現在の中学、高校教育は昔と比べ大きく変化している。知識はネットですぐに知ることができる。自分達で調べ学んでいくことが大切である。今日は二人の先生から中学、高校の授業の現状を話していただき意見交換を行いたい。

<江口>中学校学習指導要領の解説に「地域に残る文化財や諸資料を活用」と記されている。同時に私は歴史事象の背景について考え学んでいくことが大切であると考えている。そのためにも地域の資料を揃えていきたい。たとえば江戸時代の課題の一つとして新潟町の人口についてとりあげてみた。「江戸時代の新潟町の人口の推移」のグラフを示し、新潟町の人口が江戸時代の初めに比べ幕末の頃になると6倍に増えている。なぜ増えたのか、その背景について新田開発や産業、交通の発展などとの関係に触れながら授業を進めていった。

<小島>今年度は高校が新課程となり歴史総合が2年目、日本史探究が1年目の年である。今日本史探究を担当しているが、地域の資料は授業の中で差しはさむ程度である。

<竹内>郷土史研究会など学校外の団体や組織と授業担当者との連携について、どのようなことができるだろうか。

<江口>以前勤務していた学校では県政記念館で授業を行ったことがある。準備が大変であったが有意義であったと感じている。

<小島>新潟大学の先生から災害の歴史について授業を担当してもらった。また総合学習の授業で新津駅や埋蔵センターへ行って調べたりした。

<出席者A>シティガイドをやっている関係で毎年中学生に街歩きのガイドをしている。コロナ禍で街歩きができない年は事前に街歩きのビデオを撮り、それをバーチャル授業の中で使い、私達と中学生とがお互い質問しあいながら進めていった。事前の用意が大変であったがいい経験であった。

<出席者B>私もシティガイドをやっているが、事前に質問項目を提示される先生がいて助かっている。先生方のリーダーシップが大切であると感じている。

<竹内>新潟郷土史研究会のSDGsとの関連で、学校と連携したり、もっと若い人達に会員になってもらったりするにはどうしたらいいのか。そして公立の先生方は転勤で異動しなければならない。そのような中でこれだけはこの地域で教えてほしいということがあれば出していただきたい。

<出席者C>護国神社戦没者霊園に行くといい。東西両軍の戦没者が祀られているまれな霊園である。

<出席者D>地元中学生が万代橋や祭りのことをガイドし伝えている。白山公園についても近くの小学生が宣伝している。学校が広い視野で羽ばたいてほしい。

<出席者E>郷土史研究会の蓄積を地域の学校に届けてほしい。「こういうことだったらできます。できそうです」と届けてほしい。

<竹内>新潟には私達が想像している以上に誇れるものがあると思う。それらを財産として今後とも子供達に伝えていく必要があると感じている。本日はありがとうございました。

1月の例会=報告

1月例会

令和6年1月21日(日)

蒲原平野の「若き者共」 -新発田藩領を中心に-

新潟市歴史博物館前館長(当会会員) 伊東祐之 氏

<講演要旨>

 江戸時代後期に蒲原平野で「若き者共」と呼ばれた者たちの事件史料を検討して領主や村社会からどのように認識され、どのような存在であったのかを考えてみたい。

 近世~明治中期の青年団体として「若者組」がある。この基本的性格は村人としての訓練を行う場である。岩田重則は若者を3類型に分け、その一つとしてとして、東北地方に濃厚に分布し未研究の部分はあるが若者奉公人をあげている。

「若き者共」とは新発田藩領で史料に表記されている呼称であり、その実態を史料に基づいてお話しする。新発田藩の「達・触」をみると、「若き者共」は安永・宝暦の史料で「農業不働」、盆中に他村に出かけ「喧嘩口論」などを行っていると指摘。藩や村は、喧嘩口論、付休・押休等の申合や実行、祭礼・習俗の強行や暴行などを規制している。

 具体的には、弘化2(1845)年に新潟の付寄島(流作場)の若者が紫竹山新田に出かけ、7月15日に付寄島の若者共が大勢で踊見物に出かけ足を踏んだことで喧嘩が起こり、7月19日には女池新田皆応寺の相撲見物に出かけた帰りに紫竹山新田で大声、悪口雑言をなした事例がある。異装、飲酒して隣村の祭礼に押しかけ喧嘩、饗応の強要、祭礼場所の破壊などを行っていた。天保5(1834)年の「休日一件請書帳」には村が年間の休日を定めており、6日に1日休む「六歳休」もあって想定以上に休日が設けられている面もあるが、なお休日を延長して休みにする「付休」や臨時に休みを強行してしまう「押休」などの要求事例もあった。「若きもの共大勢申合自己ニ而付休等触来」の場合、名前を聞き名主に届けよと定めている。女池新田の天保12年の願書には奉公人(若者共)が付休を取った、若者仲間は集落ごとにまとまって行動し吟味に対し黙秘や欠落を行っている。「付休・押休」に対し名主への願い出で許可することもあったが、守らない場合の制裁もあった。

 さらに村の習俗とも関連し、婚礼の際に石礫を投げたり祝儀の馳走に預かったり戸障子を打ち破り家内乱す、神事の際に大勢で他村へ押しかけての理不尽な所業もみられた。小泉蒼軒の「越後志料風俗問状三之巻」には、「わかき者共」はくじ引きで選んだ村内の若い女を性的対象として束縛する「盆割」の習俗を記載。また寺社の祭礼の遊芸・芝居などに参加便乗、歌舞伎狂言見物の木戸銭請取、博奕を催すなどの事例もあった。

 このような事例を内済で収める相手は「若き者共」の「父兄・主人」であった。、この「若き者共」の年齢や家族構成をみると、天保12年の女池新田の仲間70人でみると年齢は15歳から29歳が主、奉公人が68%を占め、村の戸主の長男は3人である。蒲原地方の「若き者共」は、オジと若者奉公人などが主であったと思われる。この「若き者共」は近世初期においては一定の階層とはみられていなく、宝暦・安永期(18C中・後半)以降、社会的な意義をもつ階層となっている。

 江戸時代初期の大経営に包摂されていた家族が前期に小農として自立したが、分家などによる傍系家族の自立は困難なため家族内労働として存在するか、労働力不足の経営へ一季奉公人として供出される層がかなりいたと考えられる。彼らが労働の軽減、娯楽を求め押休、喧嘩、酒食強要、盆割などの活動をする。やがてこうした者を領主や村は「若き者共」と認識し、その活動を問題視するようになる。蒲原平野にとって経済・社会的には不可欠な存在でありながら、村の統治のなかでは周縁的存在であり、村社会の矛盾を体現する存在の一つであったと思われる。

12月の例会=報告

12月例会

令和5年12月17日(日)

最後の新潟奉行白石しらいしわきとその日記

東京大学史料編纂所学術支援専門職員  杉山 巌 氏

<講演要旨>

慶応元(1865)年より同4年迄新潟に在勤し、開港に関わる行政事務を管掌した、最後の新潟奉行である幕臣白石千別の日記や関係文書を紹介しながら、千別の生涯と開港直前の新潟の様子を話したい。

初代新潟奉行川村修就の日記は、「川村家文書」(新潟市所蔵)として知られ、広く活用されているが、最後の奉行白石千別の日記は、東北大学付属図書館、国立国会図書館に分蔵されていることなどもあり、あまり注目されていないようである。

千別は文化14(1817)年、江戸幕府勘定方役人勘定組頭を務めた白石吉郎久竈の子息として生まれ、父が普請役より佐渡奉行所広間役に転任したため、文政11(1828)年3月~天保6(1835)12月迄を佐渡で過ごした。当時の佐渡には、すでに学問所「修教館」も設置されており、千別は国学・和歌なども学び、その学問の基礎が出来上がったものと思われる。

その後父が勘定所の支配勘定に転任したことで千別も江戸に戻り、天保9年12月から支配勘定見習いとして勘定方に出仕するに至り、勘定奉行の役宅新築工事などを担当し、その功績により他の担当者と共に褒章され銀7枚を与えられている。そして天保14年12月、27歳の時に白石家の家督を相続し、この頃から日記を記し始めたと考えられる。

千別は日記からも分かるように筆のたつ人物であり、弘化2(1845)年11月に表右筆に任用され、嘉永元(1848)年9月には機密文書作成を担当する奥右筆留物方、そして同4年から直轄領を管轄する代官に任用され、柴橋(出羽)、生野(但馬)、大坂谷町の代官を歴任し、安政6(1859)年2月には、外交を専門に担当する外国奉行支配組頭に登用された。

外国方在勤時代に、外国人接遇所建設、小笠原島開拓、外国公使らを攘夷のテロから護衛する「別手組」を管轄する外国御用出役頭取元締、さらに元治元(1864)年8月には神奈川奉行へと昇進し、各国公使と横浜居留地に関する覚書にも調印している。

こうした手腕を買われ、開港が切迫した状況となりつつあった新潟に、奉行として転任することとなるが、この新潟在勤時代の慶応2~4年に渡る日記3冊が、東北大学附属図書館(狩野文庫)に残されている。一方、安政3年~元治元年の日記としては『幕末外国奉行白石忠太夫日記』の名で、国立国会図書館古典籍資料室に所蔵されている。「狩野文庫本」にも神奈川在勤時代の公務日誌が残されており、「国会本」をあわせると13年にもわたる日記14冊が伝来されていることになり、外国方役人の日記としては、神戸市文書館所蔵の「柴田日向守剛中日記」と並ぶ大部の日記として非常に貴重なものである。

なお、千別は新潟奉行に就任するに際し、一旦外国奉行に任じられてから転任している。新潟奉行が外務担当の職であることを示すためであるが、このことは喫緊の開港問題を抱えて、佐渡奉行の次席であった新潟奉行の格式が上がったことも示している。実際在勤中には、英軍艦サーペント号の入港、英全権公使パークスや外国奉行の視察等があり、慶応3年10月には江戸在勤の奉行と共に2人体制が敷かれ、その重責の程が伺える。

しかし大政奉還がなされ、千別は慶応4年5月に職を免ぜられ、新潟奉行所は組頭の田中廉太郎が代理となって、同年6月に米沢藩仮預所へ引き渡され終焉することとなった。

その後隠居した千別ではあったが、明治20(1887)年71歳で死去する迄、国学者・歌人、そして新聞人として活躍し、宮内省に出仕し皇室系図を考証したり、「今様翁」と号して和歌研究に勤しんだだけでなく、『有喜世新聞』の編集長としても活動している。

11月の例会=報告

11月例会

令和5年11月19日(日)

質地証文を考える

新潟市文書館職員 八木 千恵子 氏

<講演要旨>

質地証文は旧庄屋・大地主宅などでよく見かけるが、これまで中身を丹念に読むことよりも数的分析で処理してきた。県史編さんの際に、「百姓は土地所有をしているのではなく土地を所持しているのである。土地を所有しているのは領主である」との話があった。それ以来、自分が持っていない土地を質地に出すのはおかしいのではないかと疑問を持ち改めて質地証文を見直すことにした。質地証文は地域によって文面に違いもみられる。

土地売買は古くから行われてきたが、その流れを引いている近世初頭における佐渡の文書が資料1である。延宝5年(1677)2月の永代売渡証文であり、先祖代々持っている土地を売り渡すが、人足はこれまでどおり売った側がつとめるとしている。資料2は寛永20年(1643)3月に幕府から出された田畑永代売買禁止令であり、「田畑永代売御仕置」「土民仕置覚」を含めての総称である。資料3は、これを受けて越後・佐渡各地に出されたものを示した。佐渡では同年同月の「条々」で、「土民仕置覚」を簡略化して出している。村上藩は寛文8年(1668)4月に榊原家郷村法度「口上之覚」として出し、長岡藩は延宝5年(1677)9月に郷中法度「覚」として出している。長岡藩では、田地家屋敷売買は村役人に知らせれば売ってもよいとしている。新発田藩は正徳3年(1713)6月に「覚」として出し、他領に売ってはいけないが領内ならよいとしており、田畑永代売買禁止令が徹底していたかは怪しい。佐渡には元禄16年(1703)12月の年季売り証文がある。田畑永代売りがだめなら三年季で売るという証文で、法の網をくぐるやり方がとられていた。

近世中期になると、質地証文という形での実質の売渡証文が出てくる。幕府は享保3年(1718)8月に質地条目を出し、同6年10月に流質地禁止令を出す。質地条目では質年季は10年を限っていたが、流質地禁止令では年季明け何年たっても質流れにはならないとした。これをきっかけに質地を返せという頸城質地騒動が起こったが、佐渡では大規模な騒動は起きていない。

資料4は元文2年(1737)11月の四日町村(魚沼市)の質地証文である。年季が来たら5両2分を済ませて請け返す。請け返すまではあなたが作ってもらってかまわないとしているが、あくまで自分の土地だということを主張し続けている。無年季質地証文は頸城・魚沼地域では見られるが、蒲原地域には見当たらない。信越国境争論を題材にした「信州飯山目安」という手習本がある。そこには「地頭は当分の儀、百姓は永代の儀」という文言があり、土地は自分の財産であるという発想があったことがわかる。佐渡では土地を媒介しないでお金が動いていく。先祖から持ち続けてきた土地への意識がどう変わっていくのか、また佐渡と越後での土地意識はどう違うのかも合わせて検討していく必要がある。

10月の行事=報告

秋の研修旅行 令和5年10月21日(土)

新潟市文書館・新津鉄道資料館:午前の半日日程で視察研修旅行を実施。

9月の例会=報告

9月例会

令和5年9月17日(日)

新潟市水道事始め-新潟市水道発祥の地・関屋~新潟地震の水道復旧対応-

本会事務局長  高橋邦比古氏

<講演要旨>

 新潟町は元和2(1616)年堀直寄の「町建て令」以降、交通の動脈として堀が整備され、道路とともに町の骨格が出来あがっていった。同時に人口が増えるにしたがい飲料水の確保が問題となっていった。

 江戸から明治の時代、信濃川の中程から水を取る「水売り」の商売が繁盛した。当時の信濃川での「水汲み」「水売り」を描いた「濾過船之図」や「販水船之図」が残されているが、信濃川中流に一艘の濾過船を係留させ、濾過された上部の水を汲み、それを専用の販水船に移し運搬して売っていた。

 明治12(1879)・15・19年とコレラが大流行し、県では水汲み、水売り業者に様々な規制や取り締まりを行った。新潟町はコレラ対策として何よりも水道を必要としていた。

 明治20(1887)年横浜に水道が布設され、その後全国の大都市に水道布設の動きが見られた。新潟市は明治27年お雇い外国人バルトンを招聘し調査を依頼したが実現には至らなかった。同32・34年中島鋭治の調査により信濃川から取水する案が提示され、信濃川寺地付近が取水地として決定された。市議会も水道優先の動きをとり、同40年12月「水道布設許可書」を得ることができた。そして同43年10月関屋浄水場で通水式が行われ、新潟市における近代水道が完成するに至った。

 当初寺地から関屋浄水場へ原水を送水していたが、浄水場の拡張に伴い青山浄水場へも送水するようにした。現在信濃川取水場から信濃川水管橋-西川水管橋-青山浄水場へ原水が送水され、青山浄水場から浦山調圧水槽-有明大橋-文京町-金衛町-護国神社裏-付属小中学校前-ライオンズマンション前-南山配水場表側へと浄水が送水されている。 

 昭和39(1964)年6月16日の新潟地震により水道施設である導水管、配水管の被害が大きく、機能を失ってしまった。ただ寺地取水場や浄水場の被害は軽微で、応急対応が即可能であることがわかった。被害が軽微であった浄水場の貯水を車両に入れ、緊急給水計画を開始し、数百台の給水車を稼働させ、ドラム缶延べ1,000本によるサイフォン給水を実施した。同時に復旧作業の進まない所は「共同栓方式」に踏み切り、地上に水道管を配置し、50m間隔に共同栓を設置した。

 このような新潟市の水道復旧作業は、新潟市水道の「地震対策マニュアル」として、その後の地震災害対応に応用されている。

(予定していた映画「生活と水」は、映像機器の関係から上映されませんでした)

8月の例会=報告

8月例会

令和5年8月20日(日)

新潟名所双六と連合共進会

新潟青陵大学非常勤講師 後藤一雄 氏

<講演要旨>

 古文書だけではとらえることのできない側面を、図版資料によって見い出せないかという視点で収集するようになった。その過程で双六に出会い、子供のゲームだけではなくその歴史的活用についても考えてみた。今回は新潟名所双六と連合共進会のお話をしたい。

 双六の初見は日本書紀持統3(689)年の双六禁止の記事である。仏教の教えを表す「浄土双六」は江戸時代に成立したと思われ、女性の一生を描いた「娘一代成人双六」もある。

 今回は三種類の新潟名所双六をみる。『郷土新潟』には新潟関係の双六が報告されている。明治20年発行の45コマ一枚の回り双六「新潟名所雙六」は、振り出しが郵便電信局で官公庁、寺社、料亭、芝居小屋、商店などを回り、上がりが萬代橋(初代、明治19.11.4渡り初め)である。

 また発行年代未詳の「しん版新潟名所双六」は37コマで振り出しが灯台(ヵ)、上がりが白山神社である。日和山櫓、病院、学校、魚町魚売り、第四国立銀行、入船地蔵、だぼんこうじ(小路)などがある。この双六は明治20年の双六より以前の成立と思われる。灯台は2代灯台(明治10年)であり、3代灯台(明治15年)とは異なるためこれ以前。明治10年成立の新潟米商会所や明治12年設立の三菱会社新潟支店、明治13年新築移転された県庁が記載されていることから、明治13年から15年の間に作成された双六と推定される。

 3つめは明治34年発行の「新潟名所すご六」は、明治34年刊行の『改正新潟市全図』の裏面に印刷された新潟名所の写真と同一であり、発行者は両方とも新潟市古町通7番町の沢井清次郎である。21コマあり、振り出しは萬代橋(初代)、上がりが一府十一県聯合共進会である。商店や料亭はなくなり官公庁、寺社、勧商場、学校などである。

 連合共進会について考えてみる。明治14年一使四県連合米繭共進会、明治17年新潟県主催四県連合共進会、明治34年新潟県主催一府十一県聯合共進会を取り上げる。共進会の目的は重要物産を陳列してこれら生産業の進歩発展を図るもので、学問美術生産業に関する事物を陳列して一般に紹介し発展を図る博覧会と異なる目的をもっていた。明治14年の一使四県の共進会の米の部門では、新潟県は出品人485人(全体1,197人)で表彰数3等~6等で85人、うち6等は57人。1等から6等で表彰された全体数402人のうち、石川県は2等~6等で150人、秋田県は1等~6等で87人となっている。明治9年の勧農局「全国農産表」によると全国の米収穫量は23,677,057石で、新潟県は1,275,851石で第1位である。米の生産が最多であったことが分かる。また明治17年9月に実施された新潟県主催の新潟・石川・富山・山形の四県連合共進会は県会議事堂が会場となっている。

 明治34年の共進会会場の様子を描いた錦絵や風景写真も残されている。会場案内図に各府県の展示場所を明示、『共進会参観の枝折』には参観人心得も記載されている。翌年出された共進会報告書によると、8月10日から9月30日の来館者数218,226人、この年の新潟市人口56,268人。1府11県といっても新潟・富山・石川・群馬の4県で出品数の4割を占有。本県出品物報告には新潟県の米質は余り良くなく湿地の乾田化が必要との指摘がみえる。また表彰者の氏名・住所等の記載から、当時の米作りの地域が伺える。

7月の例会=報告

令和5年7月23日(日)

「川村修就と新潟」展について

新潟市歴史博物館学芸員 田嶋悠佑 氏

<講演要旨>

初代新潟奉行を務めたのが川村修就であるが、戦前から風間正太郎氏の研究や藤田福太郎らによる『新潟市史』編さんで川村家との接触があり、同家所蔵古文書についても触れられてきた。川村家の資料は国立国会図書館に寄託されていたが、昭和51年(1976)に新潟市郷土資料館と川上喜八郎市長の依頼により当市への寄贈が実現した。

川村家は代々江戸幕府の御庭番を務めていた。天保改革において綱紀粛正や海防にも力を尽くした。御庭番に焦点を当てた研究に小松重男氏と深井雅海氏の著作があり、天保改革に焦点を当てたものに伊東祐之氏と中野三義氏の論著がある。

明治38年(1905)1月の『東北日報』に風間正太郎氏の「川村清兵衛」という連載があり、川村家の文書を見て記事を書いている。この中で「蜑の手振り」など注目すべき資料をいくつか取り上げている。内容は古いが「川村修就」イメージ形成の歴史にとって重要である。明治の時点で、どういう資料に関心が向けられていたかという点でも興味深い。

これまでの新潟市郷土資料館、みなとぴあの企画展では川村修就の新潟での事蹟を中心に人柄や天保改革全般、海防に焦点を当ててきた。今回は広く内容を取扱い、これまで展示できなかった資料も積極的に出すなど、資料の面白さを軸にしている。

次に、今回の展示の注目資料を紹介する。新出のものとして、沢野家文書がある。これは、本町十七軒町加賀屋旧蔵の資料である。旧『新潟市史』にも言及があり、東大史料編纂所で写本も作られていたが、原本と考えられる資料が見つかったことで、意味が通るようになった。面白いと思った資料に、嘉永3年(1850)の川村修就の随筆「鳳木の記」がある。「鳳木」は文化15年(1818)から文政3年(1820)の内野新川掘削の際に水底から出土したものとされる。外観が「鳳のかしらによくもにかよひて」いたので修就が「鳳木」と名付けた。内野新川掘削により水害が減り、世が平穏になった印として「鳳木」が出現したと修就は解釈し、この工事を修就は高く評価している。次に、「嘉永元年戊申四月廿四日夕七時越後国ニテ望所白気ノ図」を紹介する。これは、嘉永元年(1848)に、修就が新潟で見た不思議な虹について詳しい者に問い合わせた記録である。修就は「白気」に関心を持ち、天変地異の予兆ではないかと幕府天文方の山路弥左衛門に問い合わせたが、山路はこの現象と災害との関係を否定している。次に紹介するのは明治7年(1874)の山際藤三郎等書簡である。維新後、東京にいた修就に対し、新潟の住人山際藤三郎らが出した手紙で、隠退後の修就の様子がわかる。みなとぴあには、このほかにも川村修就の子孫が新潟市へ寄贈した貴重な資料が保存されている。今回の展示では川村家の資料をイラスト使用などの工夫をし、わかりやすく紹介する。〈この後、展示解説が行われた。〉

5月の例会=報告

5月例会

令和5年5月21日(日)

新発田藩の銃隊について 

講師:本会会員 富井 秀正 氏

<講演要旨>

溝口秀勝は越前国北庄城主堀秀治の与力で、慶長3(1598)年秀治の越後移封にともない新発田へ入部し、初代新発田藩主となった人物である。この新発田藩(溝口家)の藩士及び銃隊が幕末にどのような動きをしたのかを見ていきたい。

幕府は天保年間(1830~43)西洋砲術を導入し、これが諸藩に伝わっていった。新発田藩では嘉永4(1851)年和流砲術師範藩士佐治孫兵衛と堀一藤次が西洋砲術修行のため江戸行きを命じられた。二人は江川太郎左衛門の門人井狩作蔵に入門し、二年後免許皆伝となって新発田に帰藩した。そして藩内で他の藩士に砲術指導を行った。

元治元(1864)年新発田藩では銃隊に主力をおいた洋式訓練、砲術稽古が行われた。まず藩士に訓練を行ったが藩士だけでは人数が不足し、村役人とその身内の者で15才から50才の者が1000人集められ城内で訓練が行われた。この時の「定」がある。「定」には稽古に精を出す、勝手なことを慎む、先輩に従う、火薬を粗末にしない等々が記され、これらのことを誓って稽古が始められた。

銃隊稽古が始まると、経費が増大し訓練期間が長く、しかも物価高騰などで迷惑している、隊員の士気にもかかわるので補助金を下賜してほしいと、隊員手当の増額を願い出る名主・組頭もいた。このような中で銃隊は大隊・小隊、太鼓隊などに組織され、また訓練では「直れ」「進め」「ねらえ」「打て」「込め」などの号令が発せられていた。

慶応元(1865)年の「銃隊組入用金拠出につき褒章通達書」が残されている。亀田町百姓甚兵衛・松三郎が400両献金し、「孫代まで苗字御免」の褒章をうけている。他にも多額の献金をし褒章をうけている者が多数おり、これらの多くの名主・百姓たちの献金によって銃隊が維持され、同時に献金により与えられた褒章が彼らにとっては非常に名誉なことでもあった。

慶応3年新発田藩は幕府から江戸城鍛冶橋御門番を命じられ、銃隊2小隊が出動した。横越組からは山ノ下新田名主ほか4名が動員されたが、動員された者たちは選ばれた優秀な者たちであった。

同4年4月非常時の備えとして銃隊の沼垂への出張が命じられたが、同年7月25日新政府軍が太夫浜に上陸、新発田藩は反幕府方として行動するところとなった。この北越戊辰戦争に関し、新発田藩は何もしていないという意見があるが、そうではなく、銃隊をはじめ様々な準備をしていたといえるのではなかろうか。