9月2018

8月の例会=報告

8月例会
平成30年8月19日(日)

新潟の文明開化と洋方医竹山屯
新潟大学講師・本会名誉会員 蒲原 宏 氏

〈講演要旨〉
 竹山屯は天保11(1840)年熊の森(現燕市)の蘭方医竹山甫祐の四男として生まれた。亡くなったのが大正7(1918)年で、今年は彼の没後100年目の年になる。彼は学問全般、とくに医学の分野で、また文化の面でも多くの業績を残しており、彼についての資料をまとめていくことは重要なことであると考えている。
 母トミの実家は加茂の森田家で、叔父にあたる森田千庵の影響を強く受けた。また中之島(現長岡市)出身の入沢恭平は義兄にあたり、恭平から多くを学んだ。恭平の弟池田謙斎、恭平の子達吉とのつながりも強く、竹山、森田、入沢三家の家系図を見ると多くの医者を輩出しており、三家の知的力強さを感ずる。
 彼は慶応元(1865)年長崎に行きオランダ人教師マンスフェルトのもとで西洋医学を学んだ。軍医ではないマンスフェルトから医学一般を学んだということは重要なことであった。竹山屯筆記のマンスフェルト『中毒各論』が新大医学部図書館に寄贈されている。
 明治9年の天皇北陸巡幸の際、新潟に眼病者が多くいるということで1,000円が下賜された。しかしこれは少しできすぎている話ではなかろうか。池田謙斎宛の手紙の中に関連した文章が見られるが、西園寺公望とのつながりの中で有能な官僚のもと、下賜金の準備が事前にできていたのであろうと想像している。
 明治21年財政困難を理由に新潟医学校はじめ全国の医学校が廃止となった。しかし同26年近代的医学の必要性を訴え新潟医学校有志懇親会がつくられ、同43年には新潟医学専門学校が開校した。この新潟医専の早期開校実現の背景には、彼や長谷川寛治などの積極的な活動が大きかったと思われる。
 明治36年竹山病院が竣工し、新潟市内で最も近代的な病院として発展していった。リバーロッチィー式血圧計を新潟ではじめて導入するなど最先端の診療を行った。また彼は東大医学部の有能な人物に支援を惜しまなかった。なかでも沢田敬義や荻野久作などは世界的な業績を残した医者として有名である。
 彼の70歳を記念して出版された『香山古稀集』には、西園寺公望はじめ政治家、医師、学者、美術関係者等々89名の文章が掲載されている。彼の人脈の広さがうかがえる。
 彼は日本的な基礎教養を土台としつつ近代西洋医学を学び、西欧の近代合理主義を受容し、地方の文明開化を推進していった一人である。同時に自分をも開明していった努力家でもあった。一人の医者として生きた彼の努力、業績を評価し、その生き方、姿勢に私達はもっと学んでいく必要があるのではなかろうか。