2月2018

新春講演会=報告

新春講演会
平成29年1月14日(日)

越後堀氏と堀直知―「上杉遺民一揆」を考える―
東京大学史料編纂所学術支援専門職員 杉山 巖 氏

〈講演要旨〉
本日は新潟の近世社会の前提となった堀家の時代の歴史的意義についてお話ししたい。とくに慶長5(1600)年に起きた上杉遺民一揆について、その後の社会に与えた影響も含めて考えてみたい。
堀家には堀久太郎家と堀(奥田)監物家の二つの家筋がある。久太郎家は美濃国の武士で織田信長に仕え、信長死後秀吉にも仕え、慶長3年越前国北庄から越後国へ移封となった大名家である。この時堀直政(監物家)、そして与力大名の村上氏、溝口氏らも越後へ移ってきた。堀監物家を興した直政(直寄の父)はもと奥田姓で、堀秀政(久太郎家)の娘を妻とし堀の名字を与えられた久太郎家の重臣であった。つまり二つの堀家は主従の関係であった。
慶長11年堀秀治(秀政の子)死後、子息の吉五郎は元服前であったが、監物家の直政が補佐し、彼が松平吉五郎忠俊と名乗れるまでに成長させた。しかし忠俊は家中を治めることができず、直政死後、直政の子供二人の兄弟喧嘩が起こった。幕府による裁定が下され、忠俊と兄の直知が処罰され、弟の直寄はお咎めなく信濃国飯山城主に移動を命じられた。直寄はその後長岡城主、村上城主となり、越後の近世社会の基礎を築いた人物として高く評価されている。
直寄の兄の実名は、系図によれば直次、または直清と記されている。当初は雅楽助を名乗り、父直政死後は監物を名乗ったが、どの時代の文書を見ても直知と署名している。彼の実名は直知で、直次、直清ではない。
上杉遺民一揆については、新領主となった堀氏の新税賦課に反発する農民たちが上杉氏の時代を慕い、これに乗じた上杉氏の扇動により広がった一揆、そして堀直政らの尽力により平定された一揆と通説的に理解されている。天正・慶長年間、領主の交替と百姓・町人の移動を原因とする大規模な一揆が発生しているが、上杉遺民一揆もその一つと考えられる。社会に与えた影響は大きく、越後堀氏は在方・町方の権利を大きく認める領主として認識されるようになった。とくに新潟町の場合、元和2年に出された直寄の法令を、在方・町方の人々は領主と交渉する際、「堀家から与えられた諸役免除の特権」として最大限に利用した。
郷土史や地域史研究の課題は、その地域のみを考えるのではなく、また日本史や世界史の枠組みをそのまま当てはめるのではなく、地域の歴史資料の分析や研究を通じて、規定の枠組みに再考を促すようなその姿勢が大切ではないかと考えている。

講演会終了後、恒例の新年会が行われました。当会名誉会長の篠田昭新潟市長の代理として、歴史文化課長藤井希伊子氏から激励のご挨拶をいただきました。