2月2017

新春講演会=報告

新春講演会
平成29年1月8日(日)

古代越後・佐渡における政治文化の展開
新潟大学教授 中林 隆之 氏

〈講演要旨〉
古代日本の社会は律令という法律にもとづいた支配体制であった。同時に都とその周辺を中心に編成された体制でもあった。
越後の初見史料は697年であるが、越後は越(こし)の一番北側で、7世紀中葉の渟足柵・磐舟柵設置以来北征を行い、北辺を管轄する位置を有していた。その性格は720年頃まで続いていた。佐渡の初見史料は700年で、磐舟柵修造の記事といっしょに出てきており、佐渡と磐舟との関連が考えられる。
新潟市的場遺跡から「狄食」「杦(狄?)人鮭」と記された木簡が出土している。狄は北方の異民族をさし、彼らに鮭などの食料を供給していたことがうかがえる。越後は北方への辺要としての位置を、佐渡はそれを補佐する位置を有していたと考えられよう。
7世紀末から8世紀初めに創建された横滝山廃寺の周辺は官衙遺跡が集中し、政治的拠点の一つであった。その後国府が上越へ移り越後国分寺が造られ、さらに佐渡国分寺も造られたが、その背景には渤海使来訪があった。佐渡国分寺が造られたことにより、外国への対応の役割が越後から佐渡へと変化していったと思われる。
752年の「造東大寺司牒」には、頸城郡膽君郷・磐舩船郡山家郷・賀茂郡殖栗郷・雑太郡幡多郷に各50戸ずつ、東大寺封戸の記載がある。この四つの郷は事実上東大寺の領地と推定できるが、山家郷からの貢納物は国津である蒲原津に運ばれていたであろう。また、佐渡の二つの郷からの貢納物も国衙の行政機構が使われ輸送されていたと考えられる。東大寺封戸と国府・国衙とのつながりは強かった。
11世紀にまとめられた『法華験記』には越後を舞台にした説話が4話登場している。この4話は国府や国衙、国上山や国上寺、東大寺領封戸や荘園所在地に関連した内容であり、おそらく都と地方を往来する僧侶、あるいは国司が資料を提供し、地方を題材にした話が都でアレンジされてできたものであろう。
12世紀に入り法華経を埋納する教えが広がり、その外容器に珠洲焼が使用されている例が多く見られる。佐渡沖や寺泊沖から海揚(うみあが)りの珠洲焼も発見され、日本海側一円に珠洲焼の分布が確認される。同時にそれは能生白山社、虫川白山社、寺泊白山比売神社など白山信仰の広がりとも一致し、珠洲焼と白山信仰の広がりや分布はともに連動していたことがわかる。
平安期以降、中央直轄の文化に変わりそれぞれの地域での文化圏が形成されていく。越後国の文化についても、その地域的文化圏の一つの表れとして考えていく必要があるように思われる。

講演会終了後、恒例の新年会が行われました。当会名誉会長の篠田昭新潟市長の代理として、文化スポーツ部長山口誠二氏から激励のご挨拶をいただきました。

新潟大学教授 中林隆之 氏



新潟市文化スポーツ部長 山口誠二 氏