1月2021

1月の例会=報告

1月例会
令和3年1月16日(土)
演題 新潟県 県民性の歴史
新潟青陵大学特任教授 伊藤 充 氏

〈講演要旨〉
1 私が県民性の歴史を研究する理由
 新潟県の県民性の歴史を見るときに興味深い全国統計結果がある。他の指標は決して上位ではないが、NHK受信料支払率2位、学校給食費支払者率3位と責任感の強さを表す。また、ある中学校で作成した「学習指導案」に生徒の実態として必ず書かれたキーワードが「まじめに取り組む」「素直に応ずる」「消極的」「表現力に乏しい」であり、先輩教師も後輩の若い教師も常套句としてきた。これはまさに現在の新潟県の県民性の一面であり、負の県民性である。これから世界の子供たちと共に生きる子供として成長していくためには、自らの県民性の歴史をしっかりと振り返る必要がある。そこで今日は新潟県の県民性を歴史・人物史・民俗史の観点から解き明かしたい。

2 県民性は、どのように生まれたか?
 井上慶隆氏は、県民性の形成を雪の生活、水との闘い、真宗門徒の生活、郷村の学問と教育に求めている。これは横の広がりを重視する視点であるが、私は縦割りの視点をとり、県民性を政治史・社会史・産業史・民俗史などの時間の積み重なりから総合的にとらえたい。
 今回は政治史から始める。結論的には新潟県の歴史は県外の人々により支配され続けたのが新潟県人であり、そこに県民性形成への根源が求められるだろう。縄文人の遺伝的形質を最も受け継ぐ新潟県域へ渡来系の遺伝的形質を持つ弥生人や古墳時代人が大和朝廷として支配をのばし、平安末期には、秋田に出自をもつ城氏が平氏政権の越後守に任命される。鎌倉期には滋賀の佐々木氏、静岡の北条氏、群馬の新田氏が守護を務め、南北朝期には栃木の上杉氏が守護、神奈川の長尾氏が守護代となった。近世になると秀吉により高田に岐阜の堀氏、新発田に愛知の溝口氏、村上に長野の村上氏を配置した。家康が江戸幕府を開くと、高田藩は六男忠輝改易後に群馬の酒井氏、兵庫の榊原氏など、長岡藩は愛知の牧野氏、新発田藩は溝口氏、村上藩は愛知の内藤氏、村松藩は堀氏というように武家政権の時代は、頼朝・秀吉・家康の家臣で関東・東海地方出身の支配者が多かった。明治以降になると歴代の県令・県知事は、京都の平松、佐賀の楠本・籠手田、鹿児島の永山・篠崎・千田と薩長土肥の維新政府の藩閥支配がつづき、新潟県出身の知事は、1947年の民選知事岡田正平をまたなければならない。このような状況で形成される県民性は、「実利的」「名より利益をとる」「消極的」などが指摘されることになる。
 次に人物史をみるなかで特に新潟県の「清酒」ブランドの礎を築いた人々をみたい。江戸時代の越後の酒は、軟水を使うので「金魚酒」とよばれ、薄くてまずい酒の代表とされた。明治以降伏見・灘の芳醇な銘酒をめざし改良につとめた。速醸元の発明で革命を起こした江田鎌治郎は酒造業のために特許を申請しなかった。「酒博士」と呼ばれた坂口謹一郎は酒造史と全国の酒蔵の調査・研究をした。太平洋戦争期に政府は酒造の停止と統合を進め、石本酒造や宮尾酒造などは休業蔵となり、潜水艦の部品となる酒石酸を製造させられた。戦後酒不足に直面した政府は、模造酒である「三倍醸造清酒」の生産を奨励した。関東信越国税局鑑定官田中哲郎は「研醸会」という酒造研究会をつくり、酒蔵に技術指導をした。その弟子である石本省吾は「幻の酒越乃寒梅」を生み出した。さらに嶋悌司は「新潟清酒学校」を創立し、特に中小の酒蔵を育成し、銘酒「久保田」をつくりあげた。ここからは「粘り強い」「現場を大切にする」「忍耐強い」などの県民性が導き出される。
 次に「県民性の再生産」という視点で、民俗史の「ことわざ」からみたい。第一の「越後の一つ残し」、消極性や雪国山村の旅人への優しさ、第二の「越後には杉の木と男の子は育たない」「亭主くわせられないば、嫁に行くな」、男子(特に長男)の凡庸性、女子のたくましさ・生活力、第三にの「頼まれれば越後から米つきに」、江戸の米つき行商人は、越後出身者が多く仕事はきついけれど、越後人の誠実さを表している。こうして新潟県民は、暮らし・習慣・労働慣行・雪の影響などを「ことわざ」として残し、自らの県民性を再生産しているのであろう。
 最後に新潟県の子供たちが将来、世界に貢献し名誉ある地位を占めることを心から祈って、今日の講演とします。