9月2014

9月の例会=報告

9月例会

平成26年9月21日(日)

「古地図が誘う越後の中世」
新潟県立文書館副館長 中川浩宣 氏

〈講演要旨〉
11世紀後半の越後の様子を描いた絵図として「康平図・寛治図」―いわゆる「越後古図」が有名である。この二つの絵図の特徴は、①新潟平野が海として描かれている、②佐渡に向かって幻の半島が描かれている、③複数の小島が描かれている、の三点であろう。
「越後古図」の評価をめぐっては様々な議論がなされている。その中で、近年、正確なものではないが地理的環境を読み取るある素材として使えるのではないのか、ハザードマップとしてとらえると「なるほど」と思える部分が存在しているのではないのか、海として描かれている越後平野は水没してしまう土地であるという意識で描かれているのではないのか、等々の意見が提示されている。
私は以前、横田切れ「水害図」の中の水に浸かった部分を見た時「越後古図」を思い出し、「水害図」と「越後古図」とがだぶって見えた。そして「越後古図」はハザードマップと同一ではないのか、評価に値する部分があるのではないのかと考えるに至った。
中世の越後全体を描いた絵図はなく、当時の状況を確認することはできないが、中世の越後平野は「水の平野」であったと考えられる。また気候変動の面から見ても「越後古図」が描かれたといわれている11世紀は暖かい気候のピークで、海進がすすんだ頃ではなかっただろうか。平野のかなりの部分まで水が入っていてもおかしくなかったのかもしれない。そのためであろうか、越後平野を根拠地にした中世の有力武士層はほとんど登場していない。頸城(くびき)と揚(あが)北(きた)には有力武将が多いのに比べ越後平野には有力武将は育たなかったように思われる。
越後平野は治水・排水事業の進展等により「水の平野」から「米の平野」へと変化していった。しかしその変化の過程でも洪水は頻繁に発生していたと想像される。中世においても、史料がなく不明な点は多いが洪水は繰り返し発生していたであろう。このような環境の中で、「越後古図」は越後平野のハザードマップとして、また「生産の土地」ではあるが水没してしまう地域であるということを想像させる絵図として描かれた可能性があるのではなかろうか。同時にこれだけの水害の土地を切り開いてきたということを後世の人々に示すため描かれたのかもしれない。
越後平野の一つの「履歴書」として「越後古図」をこれからも見ていきたい。