11月2023

11月の例会=報告

11月例会

令和5年11月19日(日)

質地証文を考える

新潟市文書館職員 八木 千恵子 氏

<講演要旨>

質地証文は旧庄屋・大地主宅などでよく見かけるが、これまで中身を丹念に読むことよりも数的分析で処理してきた。県史編さんの際に、「百姓は土地所有をしているのではなく土地を所持しているのである。土地を所有しているのは領主である」との話があった。それ以来、自分が持っていない土地を質地に出すのはおかしいのではないかと疑問を持ち改めて質地証文を見直すことにした。質地証文は地域によって文面に違いもみられる。

土地売買は古くから行われてきたが、その流れを引いている近世初頭における佐渡の文書が資料1である。延宝5年(1677)2月の永代売渡証文であり、先祖代々持っている土地を売り渡すが、人足はこれまでどおり売った側がつとめるとしている。資料2は寛永20年(1643)3月に幕府から出された田畑永代売買禁止令であり、「田畑永代売御仕置」「土民仕置覚」を含めての総称である。資料3は、これを受けて越後・佐渡各地に出されたものを示した。佐渡では同年同月の「条々」で、「土民仕置覚」を簡略化して出している。村上藩は寛文8年(1668)4月に榊原家郷村法度「口上之覚」として出し、長岡藩は延宝5年(1677)9月に郷中法度「覚」として出している。長岡藩では、田地家屋敷売買は村役人に知らせれば売ってもよいとしている。新発田藩は正徳3年(1713)6月に「覚」として出し、他領に売ってはいけないが領内ならよいとしており、田畑永代売買禁止令が徹底していたかは怪しい。佐渡には元禄16年(1703)12月の年季売り証文がある。田畑永代売りがだめなら三年季で売るという証文で、法の網をくぐるやり方がとられていた。

近世中期になると、質地証文という形での実質の売渡証文が出てくる。幕府は享保3年(1718)8月に質地条目を出し、同6年10月に流質地禁止令を出す。質地条目では質年季は10年を限っていたが、流質地禁止令では年季明け何年たっても質流れにはならないとした。これをきっかけに質地を返せという頸城質地騒動が起こったが、佐渡では大規模な騒動は起きていない。

資料4は元文2年(1737)11月の四日町村(魚沼市)の質地証文である。年季が来たら5両2分を済ませて請け返す。請け返すまではあなたが作ってもらってかまわないとしているが、あくまで自分の土地だということを主張し続けている。無年季質地証文は頸城・魚沼地域では見られるが、蒲原地域には見当たらない。信越国境争論を題材にした「信州飯山目安」という手習本がある。そこには「地頭は当分の儀、百姓は永代の儀」という文言があり、土地は自分の財産であるという発想があったことがわかる。佐渡では土地を媒介しないでお金が動いていく。先祖から持ち続けてきた土地への意識がどう変わっていくのか、また佐渡と越後での土地意識はどう違うのかも合わせて検討していく必要がある。