9月2023

9月の例会=報告

9月例会

令和5年9月17日(日)

新潟市水道事始め-新潟市水道発祥の地・関屋~新潟地震の水道復旧対応-

本会事務局長  高橋邦比古氏

<講演要旨>

 新潟町は元和2(1616)年堀直寄の「町建て令」以降、交通の動脈として堀が整備され、道路とともに町の骨格が出来あがっていった。同時に人口が増えるにしたがい飲料水の確保が問題となっていった。

 江戸から明治の時代、信濃川の中程から水を取る「水売り」の商売が繁盛した。当時の信濃川での「水汲み」「水売り」を描いた「濾過船之図」や「販水船之図」が残されているが、信濃川中流に一艘の濾過船を係留させ、濾過された上部の水を汲み、それを専用の販水船に移し運搬して売っていた。

 明治12(1879)・15・19年とコレラが大流行し、県では水汲み、水売り業者に様々な規制や取り締まりを行った。新潟町はコレラ対策として何よりも水道を必要としていた。

 明治20(1887)年横浜に水道が布設され、その後全国の大都市に水道布設の動きが見られた。新潟市は明治27年お雇い外国人バルトンを招聘し調査を依頼したが実現には至らなかった。同32・34年中島鋭治の調査により信濃川から取水する案が提示され、信濃川寺地付近が取水地として決定された。市議会も水道優先の動きをとり、同40年12月「水道布設許可書」を得ることができた。そして同43年10月関屋浄水場で通水式が行われ、新潟市における近代水道が完成するに至った。

 当初寺地から関屋浄水場へ原水を送水していたが、浄水場の拡張に伴い青山浄水場へも送水するようにした。現在信濃川取水場から信濃川水管橋-西川水管橋-青山浄水場へ原水が送水され、青山浄水場から浦山調圧水槽-有明大橋-文京町-金衛町-護国神社裏-付属小中学校前-ライオンズマンション前-南山配水場表側へと浄水が送水されている。 

 昭和39(1964)年6月16日の新潟地震により水道施設である導水管、配水管の被害が大きく、機能を失ってしまった。ただ寺地取水場や浄水場の被害は軽微で、応急対応が即可能であることがわかった。被害が軽微であった浄水場の貯水を車両に入れ、緊急給水計画を開始し、数百台の給水車を稼働させ、ドラム缶延べ1,000本によるサイフォン給水を実施した。同時に復旧作業の進まない所は「共同栓方式」に踏み切り、地上に水道管を配置し、50m間隔に共同栓を設置した。

 このような新潟市の水道復旧作業は、新潟市水道の「地震対策マニュアル」として、その後の地震災害対応に応用されている。

(予定していた映画「生活と水」は、映像機器の関係から上映されませんでした)