3月の例会=報告

令和7年3月16日(日)

「神田正平のシベリア抑留記 -父の「我が思い出の記より- 私の昭和戦後史」

講師 当会会員・北方文化博物館館長 神田勝郎氏

〈講演要旨〉

 令和4年2月6日玄米を取りに蔵に入り、その時は玄米に向かわず父の書棚に積み上げた書類群に目が行きました。この中に父の書き残した原稿用紙70枚ほどの「我が思い出の記」と10枚程の「あらすじ」がありました。夕食後改めて読み進めると父の戦争体験記であることが分かり、弟妹に連絡して筆者の手で成文化することにした。書棚には『シベリア抑留体験記』の書籍もあり、父も触発され起草したのものと推測した。父の捕虜体験と戦争の悲惨さと残酷さを語り継ぐ史実としてご紹介するものです。

 昭和20年1月6日2度目の応召を受ける。横越神社で警防団の出初め式と戦勝祈願祭に出席し激励を受ける。1月8日仙台入隊のため出発、病臥の母は身体に気をつけてと見送ってくれたが、これが母との最期となった。仙台で親戚にお世話になり、博多、朝鮮の羅南に1月30日に着く。中隊の事務室勤務となった。

 8月15日の敗戦の報は朝鮮の豊利で知らされる。この連絡を前線の第一中隊成美中尉へ乗馬伝令を命じられ、成美中隊長から「戦争は終わったよ」と言われた。

 8月18日豆満江ほとりの日本赤十字社前でソ連の武装解除を受ける。その晩は野宿、月を見てわが家の家族への思いを馳せた。8月21日延吉に入る、その後ハバロフスクに着く。日本兵は2ヶ月間、風呂、水浴は一度もなく、ノミや虱に悩まされ、ソ連も衣服の消毒と入浴を認めた。港に連行されアムール河畔碇泊の黒龍丸が日本人捕虜の宿舎となった。翌日から貨車の石炭降ろしの労働作業が始まり夜12時までかかった。

 ある日、船内に「日本新聞」が配られ、広島・長崎の新型爆弾投下、軍艦ミズリー号の降伏調印も知らされた。後にこの教育研修への参加を強制され、ロシア革命からソ連の歩みを辿る思想教育であった。

 20年12月31日荷揚げの作業を終え、夕食のパンの支給を楽しみにしていたが、パン焼き器の故障で馬鈴薯の煮物2個というむなしい夕食となり、終生忘れることのできない痛恨の大晦日であった。

 21年3月新しい収容所が完成し陸上に移った。ソ連労働者との業務もあり、彼らのカッパライの巧みさを真似して港湾荷役作業で物資を失敬することがうまくなり、メリケン粉・大豆などを小隊に持ち帰って分配した。

 同年5月日本人捕虜の身体検査が始まり、軍医の前で四つん這いになりお尻をつままれ、その弾力度で1~3級に分けられた。1・2級は労働、3級はオーカーといわれ労働不可となり、自分は背中のこぶが悪性の腫瘍と見なされ3級となった。そのこぶは帰国後親戚の外科医によって切除手術を受け全快した。21年8月10日弱兵として別の収容所に移され、班長に任命された。弱わった日本兵を帰還させることが自分の使命と考え、朝食前の体操や歌謡曲の合唱、身の上話の開陳、ソ連が提案した「壁新聞」への俳句・短歌・小論などを募った。このころソ連の捕虜対応も緩和、落語など特技の披露や劇団の発表も行われた。

 昭和22年3月日本兵捕虜の第一回帰還計画が持ち上がる。5月には背中のこぶにより帰還者に認定された。同年7月6日ナホトカ港から帰還船で出発、7月9日舞鶴沖合で碇泊後、10日入港、京都の東本願寺で一泊、新潟を経て亀田に7月11日着き自宅に帰還した。

 父の帰還について、舞鶴入港は舞鶴引揚記念館で、東本願寺での一泊は東本願寺で、また新潟県では「軍籍簿」を閲覧、写し交付で確認することができました。父が生前一言も口にしなかったシベリア抑留記の存在について、新たな畏敬の念を抱かせるものとなりました。

 

2月の例会=報告

令和7年2月16日(日)

近世角田浜村における難船処置の事例

新潟市文書館 高野まりい氏

〈講演要旨〉

 新潟市文書館では、代々角田浜村の庄屋を務めた大越家に伝わった3200点ほどの文書を整理している。この資料の中から江戸時代に角田浜村の海岸に漂着した難船の事例から、難船救助や船道具、積荷の処理がどのように行われたのか報告する。

 角田浜村は、村明細帳に「当村男女稼耕作并海猟仕申候」とあり半農半漁とされる。大越家には浦高札があり、海難救助を担う浦村であった。文書の中に船往来があり村に廻船もあったかと思われるが詳細は不明である。安政5(1858)年の絵図によれば、角田浜村の海岸は遠浅の砂浜で、沖には岸に平行して三列の砂瀬が並んでおり、大型の廻船が入る湊ではなかった。

 難船の事例を8例あげる。事例1は、享保13(1728)年に破船が漂着した。村は船材や道具を引揚げて番人をつけて保管した。船は佐渡松ケ崎の船で、寺泊に漂着した乗組員や新潟・寺泊の船宿が確認に来た。引揚げた船材の不足を問題にしたが、翌年、引揚物を受け取っている。

事例2は、元文3(1738)年の東岩瀬の廻船が難風で積荷を捨て角田浜に漂着した。村人が乗組員を救助し、船も引揚げ、出港地新潟の船宿に引渡した。

事例3は、佐渡加茂郡の漁船が元文4年に角田浜に漂着し、村人大勢で乗組員と漁船を救助した。

事例4は、文政3(1820)年に酒田を出港した丹後の廻船が村の沖合で破船した。村役人が村人を率いて海中から積荷と船道具を引揚げた。積んであった荷物と引揚げた荷物を照合したうえで、引揚品は船頭・新潟船宿に引渡された。

事例5は、文政5年に佐渡杉野浦村の破船が漂着した。佐渡から船主が来村し自己の船と確認をして船道具類を引取った。

事例6は、寺泊の7人乗りの漁船が角田浜沖で破船した。村人が救助したが1人が溺死した。

事例7は、文政11年に新潟湊の廻船が塩屋で破船し、船道具が漂着した。引揚げた船道具は船主・新潟町問屋へ確認の上引渡されたが、船道具代の十分一として金1両余が村へ払われた。

事例8は、弘化4(1847)年に佐渡水津を出港した新潟町の廻船が角田浜沖で破船した。村では粉々になった船道具や積荷を引揚げた。新潟の船主・船頭が確認して引き揚げ品を受取り、そのうえで角田浜村において売払っている。

 以上の事例から、浦村である角田浜村では難船があった場合には村役人主導のもとで人命救助や積荷・船道具を引揚げ、また破船の船道具が漂着した場合にも引揚げて、村が保管した。これらの品々は船頭・船主・船宿らと村役人が立会って確認し、引渡し、請取りがなされた。その後、これらの品々が村で売り払われた事例もあった。

 大越家文書は整理中であり、今後の調査によって多くのことが明らかになると思われる。

 

1月の例会=報告

1月例会

令和7年1月18日(土)

新潟から出る遊女、新潟へ来る遊女

新潟大学人文学部教授 原 直史氏

<講演要旨>

 はじめに遊女「かしく」の半生を紹介する。嘉永4年(1851)蒲原郡東汰上村(新潟市西蒲区)に生まれ、安政5年(1858)7歳で下野国合戦場宿(栃木市)福田屋に召し抱えられ遊女となった。慶応2年(1866)15歳で江戸深川はしや政五郎方へ遊女として召し抱えられ、明治4年(1871)に新吉原三州屋に売り渡された。翌年「遊娼妓解放令」が出されると、なじみの吉原海老屋召使竹次郎と夫婦の約束を交わした。しかし政五郎が債権を主張し新吉原に売ると訴えたため、「かしく」らは「遊女はいやだ」と役所に訴え出る。江戸時代の経世家佐藤信淵は、「越後は間引を行わないが、女子を他国に売り出している。北越の売婦を非難する者もあるが、間引に比べれば仁術ともいえる」と述べている。

 蒲原郡から他国への飯盛奉公は多い。文政5年(1822)武州粕壁宿(埼玉県春日部市)違法営業で検挙された飯盛女21人中18人が越後出身、うち15人が蒲原郡出身。文久2年(1862)野州雀宮宿(栃木県宇都宮市)の下女53人のうち43人が越後出身(うち36人が蒲原郡)。文政6~7年頃の奥州郡山宿(福島県郡山市)で飯盛女・子供とみなされる167人のうち9割超の154人が蒲原郡出身。単に「真宗地帯」だけでは解けない。

 移動する新潟遊女について。新発田城下町は公娼を置かず、私娼「かぼちゃ」で著名。新発田町に文久2年(1862)10月、新潟売女を連れ寄せていた城下町人が複数摘発・処罰された。同時期に新発田川を航行する新興集団「通船路船乗」が形成され、元治元年~2年(1864~65)には木崎河岸の茶屋集団との紛争が起こるが、文久2年の規制強化により、遊興の場が新発田より陸路三里で到達でき新潟売女を呼び寄せられる木崎に移行していく。そもそも新潟の遊女は本来古町通・寺町通を営業範囲として、長岡領時代より「他門・本町通、芸者・遊女横行御停止」がたびたび触れられていた。新発田や木崎まで出かけたのは公認の遊女だろうか、あるいは後家などの私娼であろうか。天保8年(1837)会津屋金太抱女よしが客人に拘束され髪飾りを奪われる一件があったが、この客人は上州無宿であり、関東への奉公人を抱えに来ていた。この時期、揚屋公認の遊女を巡って様々な事件が起こっており、上州無宿をはじめとした広い交流のなかに遊女たちの境涯がある。

 次に野州合戦場宿への奉公について。嘉永7年(1854)新潟本町通借家娘もと22歳が合戦場宿旅籠屋に奉公し、請判を同宿の定右衛門に依頼している。合戦場宿には毎月の抱女数に応じた刎銭を出し、宿内入用の一部を賄い、宿役を勤める住人に残額を割渡すシステムがあり、そのために飯盛旅籠屋はある種の仲間を結成している。定右衛門は旅籠屋ネットワークに通じた女衒的存在である。こうしたネットワークの形成こそが蒲原郡から大量の飯盛女を送り出していったと想定できる。そうしたネットワークはいつ頃どのようにできていくかが大きな課題である。

11月の例会=報告

11月例会

令和6年11月17日(日)

演題:「疑惑の海峡 北前船海死事件を追う」

講師:当会理事  横木 剛 氏

<講演要旨>

 新潟町の廻船問屋前田松太郎(元は当銀屋重松と名乗る)は、北前船稼業で築き上げた資金を元手に、安政6(1859)年に廻船問屋株(営業権)を取得した。その時期の客船帳の中に、荒浜牧口庄三郎、その代理人米平がやって来て、そこで囲い船されていた小川屋喜兵衛の中古廻船を安政5年に買い入れ、整備して翌年2月に12人乗りの船「興栄丸」として出帆したとの記録が残されている。

 この牧口庄三郎は文化元(1804)年生まれ。牧口家三代目当主で、天保年間に五百石程の中型船を複数所有し、蝦夷地から上方までの買積廻船業を展開し、米や荒浜近在の麻の鰊網を蝦夷地へ、塩引き鮭や魚肥、昆布などを上方へという交易を行なっていた。

 現在柏崎市立図書館に所蔵されている「牧口庄三郎家旧蔵文書」の中に、この牧口庄三郎が訴訟人となって、万延元(1860)年7月に、居所を管轄する領主役所(与板藩奉行所)に村庄屋、割元を経由して、ある事件の吟味と裁判開始を訴えたことが分かる願書の控えが残されている。

 その訴訟相手は、雇用していた水主11人であり、前々年に購入したばかりの「興栄丸」が、根室から帰還途中に尻岸内村沖で難船して、船頭米平のみが不審死し、積荷処理も正当に行われていないという疑念から訴え出たものであった。

 「興栄丸」は安政7年春に蝦夷地へ向け出帆し、箱館→酒田→箱館と回り、冬季間は箱館で浮き囲いしていた。翌年3月15日に根室に向かい、根室から戻る途中の5月11日尻岸内村沖で事故に遭った。村役人を通じて急遽箱館まで飛脚を差立て、船宿浜田屋の手代鉄蔵と小宿由松の仲介で箱館奉行所へ出役を願い出て、米平の死体と積荷を処理した。

 水主たちは、その後箱館にやって来た庄三郎の息子虎之助とともに帰国し、さらに取り調べられることになり、8月には牧口に対して、状況を詳らかした詫び状と金銭的損失に対する念書を差し出すこととなった。

 その後牧口は、水主たちとの訴訟がある程度まとまった後の11月に、箱館奉行所と尻岸内村へ文書を出している。積荷を売り払うことに加担した(もしくは横領を主導した可能性もある)箱館の廻船問屋と、顛末を隠すことに協力し金品を得た尻岸内村を追及する方向に向かっているが、以後の関連史料は見当たらず、結末は不明である。今回の事件については、本来船の指導役である船頭の、米平のみがどうして死亡したのかの疑惑や、諸帳面の紛失により横領の疑念もぬぐい切れない。あわせて水主たちの金銭欲求や雇用管理の関りで、買積廻船経営における水主の労働条件や環境という課題も提起され、北前船経営は、廻船主にとって管理が困難なビジネスという一面が見えてくる。

10月の例会=報告

10月例会

令和6年10月20日(日)

演題:新潟開港と戊辰戦争-新潟奉行代理田中廉太郎光儀(れんたろうみつよし)の生涯と御料所新潟の終焉-

講師:東京大学史料編纂所学術支援専門職員 杉山 巖 氏

〈講演要旨〉

 本日は新潟開港と幕末、明治維新期の新潟の歴史について、新潟奉行代理であった田中廉太郎光儀の生涯と関連させてお話したい。

 新潟の開港が最終的に決まったのは慶応3(1867)年8である。その開港をひかえ外国方の上級事務を担当していた白石千別、糟屋義明が新潟奉行に就任した。また同4年正月、田中光儀が新潟奉行所ナンバー2の組頭として就任し、さらに同年閏4月新潟奉行勤向(奉行代理)に昇任した。

 田中光儀は幕府代官所手代の子息として生まれ、のち浦賀奉行所の役人であった田中家の養嗣子となり家督を相続した人物である。彼は浦賀奉行所や長崎奉行所に在勤し、その後幕府の外国方の役人となり小笠原島問題を担当することとなった。この時小笠原島開拓担当の外国奉行組頭が白石千別で、その下の調役が田中であった。

 また彼は横浜鎖港問題の交渉使節団の一員としてヨーロッパへ派遣された。使節団は文久4(1864)年正月上海に到着、その後各地を経由しパリに到着、フランスと交渉するが失敗、同年7月帰国。団員は失敗の咎を受け、田中も役職を離任した。

 慶応3年10月14日に大政奉還が行われ、同年11月徳川家は新潟に在勤していた新潟奉行白石千別を江戸に呼び戻した。新潟開港が切迫していたため白石は江戸在勤の糟屋義明らと協議し、同3年12月7日の開港予定を翌4年3月9日に延期することを決定した。そして同4年正月新潟奉行所組頭に田中が就任し、白石、田中の二人は新潟に来た。二人は外国奉行所時代の上司と部下であった。

 同4年3月15日明治新政府の北陸道鎮撫使が来越、新潟奉行も召喚された。鎮撫使にようやく会えた田中は行政事務の引き継ぎを命じられた。そして4月4日徳川家の指示を仰ぐため白石と田中は会津を経由して江戸へ行った。白石は新潟奉行を免じられ江戸にとどまることとなった。一方田中は奉行勤向に就任し5月2日新潟に戻った。戻った彼は新潟を米沢藩の「当分預所」とする決断を下した。この決断は徳川家の方針にそったもので田中が勝手にやったわけではないと言える。田中の行動はあくまでも徳川家の家来としての行動であった。そして6月2日田中は江戸に向かって新潟を出立した。

 明治時代田中は豊岡県(現兵庫県)の県令に就任し、その一方で大木喬任や井上馨の顧問のような仕事もした。また木戸孝允との交流もあり新政府要人らに提言したりした。今その活動を物語る手紙などが残されている。

9月の例会=報告

9月例会

令和6年9月15日(日)

演題:菖蒲塚古墳と菖蒲御前伝説

講師:新潟市歴史博物館副館長 小林隆幸 氏

〈講演要旨〉

 菖蒲塚古墳は県内最大の前方後円墳で、4世紀に蒲原平野に君臨した有力者の墓です。古墳はやがて放置されますが、その異様性・神秘性から信仰の対象ともなり、古墳名称の由来となる菖蒲御前伝説との結びつきもあり、今日に至る人々との関係を概観してみます。

 菖蒲塚古墳は4世紀半ば頃造られた全長53mの前方後円墳、金仙寺裏山の墓地の中に所在。副葬品には鼉龍鏡(径23.7㎝)・ヒスイ製勾玉や管玉があった。陪塚は隼人塚古墳。菖蒲塚古墳は大王墓の渋谷向山古墳(景行天皇陵)の5分の1で同企画。近接する南赤坂遺跡には北方系文化の系譜をもつ続縄文土器や土器も見つかり、菖蒲塚古墳の主のもとで北方の人々との鉄器の素材や皮などとの交易が行われていた可能性がある。

 中世に入ると末法思想を背景に古墳が経塚として利用され、神聖な場所に位置づけられる。菖蒲塚古墳には、嘉応2(1170)年銘と享禄3(1530)年銘の経塚が出土している。嘉応2年銘は金仙寺が江戸期に発掘したもの、宋代の青白磁の小壷と合子、和鏡5点、陶製壺2点を埋納。享禄3年銘は六十六部聖が全国を巡礼し法華経一部を納めたもので越後では霊場として菖蒲塚が選定されたものと思われる。

 菖蒲塚はその名称となった菖蒲御前の墓と伝えられている。金仙寺の山号は菖蒲山である。菖蒲御前は治承4(1180)年に宇治で戦死した源頼政の妻で、夫戦死した後に越後に逃れた。その子が後に小国氏の支城であった天神山城主となった。この菖蒲御前と関連するのが、金仙寺所蔵の聖観音坐像の底板に元徳3(1331)年「大施主貞阿」「女大施主」とある。また菖蒲塚古墳の近辺から掘り出された石塔に「菖蒲貞阿禅尼」印刻されている。過去帳には「菖蒲貞阿禅尼」が貞応2(1223)年没とあり、印刻名と同一人物と思われる。金仙寺で発掘された装身具も高貴な女性を連想させ、菖蒲御前伝説を後押しした可能性もある。

 また古墳は盗掘され、鏡(鼉龍鏡)などが出土したとされ、盗掘品は市場に出ている。金仙寺の発掘の時期は文政期と思われるが、新発田藩の丹羽伯弘は鏡を実見し天保15年に拓本を取っており、この拓本は近年みなとぴあに寄贈されている。盗掘された鏡はしばらく最初の所有者が保管、昭和27年齋藤秀平が漢式の四神四獣鏡と判定し話題となった。同年上原甲子郎氏が東京国立博物館に持ち込まれていた鏡の拓本を取った。以降、鏡は所有者の手を離れ行方不明となり昭和36年に所在が分かり、上原甲子郎氏が購入、令和2年に東京国立博物館に寄贈された。昭和37年に鏡は新潟県指定文化財、金仙寺所蔵の経塚出土品(重要文化財)はみなとぴあで保管・管理、地域の重要な文化資源となっている。

 菖蒲塚古墳は地域の首長の墓として造営、中世には神聖な場所として経塚の役目をもち、近世には伝説と結びついて信仰の対象となっている。古墳時代の遺跡だけではなく、各時代に役目をもった複合遺跡といえるのではないか。

8月の例会=報告

8月例会

令和6年8月18日(日)

中越大震災20年と地域史研究・史料保存~災害と復興をかたりつぐために~

長岡市立科学博物館歴史研究室総括副主幹学芸係長 田中洋史 氏

〈講演要旨〉

 中越地震から20年にわたる長岡市における災害資料の収集・保存の活動を中心にその概要を報告する。

 中越地震被災時に読んだ『阪神淡路大震災にかかわる資料保存活動の記録』に啓発され、長岡において被災資料の救済と災害資料の収集活動を始めた。その活動は行政組織を動かして被災下の状況を踏まえて行い、市の復興計画に災害の記憶の伝承と地域振興での活用を盛り込むことによって、中央図書館文書資料室による災害復興資料収集の継続が可能となった。災害から4~6年を経て、学校などの市施設を対象に資料収集を拡大するとともに、資料を活用した展示会などを開いた。平成23年の東日本大震災の際には、文書資料室は、福島県からの避難者の避難所で作成・配布・掲示された資料の収集を行った。

 中越地震から10年目には、市のフェニックスプロジェクトの一環として、「災害と復興をかたりつぐ」事業を実施し、それまでの被災救済資料や収集資料によって長岡市災害復興文庫を開設し、市内15か所でのリレー講演会や企画展を開催した。その後、中越地震以降の長岡市の活動を記録・刊行したり、展示会や講演会を開催したりするなど活動を通じて、全国に被災資料の救助と災害復興資料の保存の重要性を発信してきた。その結果、現在、全国で多発する災害に際して長岡市の施策が参考にされるようになっている。

 こうした活動が継続できた背景には、行政における事業の位置づけを明確にしたこととともに、市民協働の力が大きい。被災資料や災害復興資料の整理には長岡市資料整理ボランティアが大きな役割を果たしている。また、新潟歴史資料救済ネットワークとの連携も重要であった。

 こうした市民や関係団体との連携を踏まえて、長岡市は令和6年長岡市歴史文書館を開館した。また、長岡市と市民の活動を伝える「救え!山古志の文化財~民具と古文書が語るもの~」を開催した。今後、歴史文書館と博物館、図書館が連携して活動を継続発展させる必要があろう。また、これからも発生する災害とともに、長岡市に甚大な被害をもたらした戦災に関する資料収集・保存・活用も今後の課題である。人々の暮らしのなかで誰もが体験したこと、日常的なことは資料として残されない。こうした資料を意識的に収集・保存・活用することが重要だと考える。

7月の例会=報告

7月例会

令和6年7月28日(日)

「北前船と新潟 −廻船と日本海海運の時代−」展について

新潟市歴史博物館学芸員 安宅俊介 氏

<講演要旨>

 そもそも「北前船」という言葉は新潟ではあまり用いず、単に「廻船」などと呼ばれていた。日本遺産「北前船」では、「江戸時代中期(18世紀中ごろ)から明治30年代に大阪と北海道を日本海回りで商品を売り買いしながら結んでいた商船群」と定義し、船主の出身地を重視しない中西聡氏の見解とほぼ同じ立場をとっている。本展も、この柔らかめな捉え方で考えている。新潟市(新潟町)には「北前船」に関する史料がそれほど多くは残っていない。そこで、今回は「廻船と日本海海運の時代」という副題をつけた。廻船(北前船を含む)と海運、そして「みなと」を広く捉える展示にせざるを得なかった。

 本展の展示構成を示す。全4章で構成し、1北前船の登場、2新潟町と廻船、3廻船問屋と船主、4海運の荷品とし、プロローグとエピローグをつけている。1北前船の登場では、北前船全般の説明をし、近世初期の新潟湊に関する絵図、船路や船、船具に関する展示、特に船と航海の安全を祈るための史料を多く展示している。2新潟町と廻船では、新潟町を中心に湊町の史料を紹介している。湊ならではの仕事に関する史料を中心に展示し、「大新潟湊」展以降に把握した史料も出ている。3廻船問屋と船主では、北前船をはじめとした廻船の取引仲介などを行った廻船問屋に関する史料を最新の研究をふまえて紹介している。廻船の船主(北前船主)の具体例として小澤家文書を中心に紹介している。実際の航海の損益がいかほどだったか、また変動する相場への対応なども紹介している。4海運の荷品では、海運によって運ばれたものを紹介している。北前船に限らず具体的なモノ史料とあわせて北前船が売買をした取引文書もモノにあわせて紹介している。特に佐渡にもたらされた人形などは多めに展示している。5エピローグでは、斎藤喜十郎、小澤七三郎、小池上春五郎、鈴木長蔵などの廻船問屋や北前船主の近代以降のあり方を紹介している。また新潟町(新潟市、新潟港)の近代以降について、ごく簡単に紹介している。

 おわりに、北前船とその後について触れたい。北前船は幕末から明治初期にかけて最盛期を迎えたといわれている。しかしその後、各地の相場情報を瞬時に伝える電報などの新たな通信手段が生まれ、それまでの木造和船と比べて大量の荷物を運ぶことができる大型の蒸気船の登場やさらに新たな陸上輸送として各地に網を広げていった鉄道などの近代的な交通手段の登場によって明治20年代以降衰退していった。こうしたなか船主や廻船問屋のなかには没落していく人もあれば、それまでに蓄積した資本を新たな方向に振って経営を拡大していった人もいた。新潟市の船主や廻船問屋の場合、土地集積による地主化、銀行・会社の設立・経営、米穀、石油、酒などの委託販売業、汽船を用いた近代的海運業、北洋漁業への進出などがみられる。〈この後、展示解説が行われた。〉

5月の例会=報告

5月例会

令和6年5月18日(土)

借金証文にみる越佐の社会 -江戸から明治時代まで-

当会会員 本田 雄二 氏

<講演要旨>

 本日は江戸から明治時代の借金証文を通して、どのような社会状況がうかがえるのかをテーマにお話ししたい。

 借金証文には借用金額、利息、借用理由、返済期日、借主、貸主などが記載されているが、明治になると表題が「借用金証書」「借用証」「証」などと簡略化されている。同時に証印が黒印から朱印に変わり、円が使われ、収入印紙が使用されるようになった。ただ明治になってすぐに変わったわけではなく、従来通り黒印が使われたり、収入印紙が貼られない場合もあった。

 越後・佐渡各地の借金証文について、その地域性を見てみたいと考え平野部、山間部、漁村部の3つに区分してみた。その結果、たとえば利息について蒲原など平野部は「月一分」が多くやや低利、それに比べ魚沼など山間部はやや高いように思われる。これはおそらく収穫、収入時期の回数の違いによるもので、山間部は収穫、収入の時期が年一回ということが背景にあるのではなかろうか。利息が「世間並」と記されている例も多く、時代や地域によってそれぞれ異なっていると思われる。

 借金の理由については「要用につき」と記されている例が多いが、「年貢上納金に差し支え」「酒造仕入方に引き詰り」「倅婚姻に差し支え」などと実際の生活の中での具体的な理由が記されている。借金の担保(引当)物件としては、土地、屋敷が多い。他には家財、商品、脇差、蝋、木炉(薪)、蚕(繭)、人足奉公、杉木、臭水油(石油)など様々である。講の組織によって集められた頼母子金が担保になっている場合があり、同時にその講から借金をしている例も見ることができる。

 借金はどのような方法で返済されたのであろうか。農林水産業、手工業、商売など家業で得た収入で返済、日雇い、奉公など労働賃金で返済、講組織による講金で返済など様々な事例があった。また「返済した」という証明は、文書に記された金額や関係者名、印鑑の部分を抹消したり、あるいは文書全文を抹消し「返済証明」としていた。明治時代新潟銀行が「消印」というゴム印を作り、それを使った文書も残されている。

 以上、江戸から明治時代にかけての借金証文を見ることにより、借金事例や担保物件の種類が増加し、経済活動の活発化していったことがうかがえる。そして借金理由やその利息、返済方法などから、当時の社会の姿や人々の暮らしの一端を知ることができるのではなかろうか。

4月の例会=報告

令和6年4月27日(土)

ドイツ史料が描く新潟開港と戊辰戦争

当会会員 青柳 正俊 氏

<講演要旨>

 新潟は開港五港の一つとして外国に注目された町であった。戊辰戦争期の新潟開港とドイツとの関わりを、新たにドイツの公文書によって考えていく。内戦の最中に開港日を迎えた新潟をめぐる国際関係は、新政府を後押しするイギリスとこれに対峙するプロイセン(北ドイツ連邦、後のドイツ帝国、以下ドイツ)が存在感を発揮している。イタリアは自国産業に不可欠の蚕種(産卵紙)の輸入継続を望み列強に支援を求め、ドイツはこの問題を共有していないのに列強協調路線を離脱、列藩同盟側の軍事補給基地となった新潟との関係など、どこまで確認できるかを繙きたい。

 近年はドイツ公文書館の日本関係史料がデジタル画像化されウェブ上で公開された。従来の新潟開港は英・米・仏列強3国の内情によって分析されてきたが、今回はブラント(ドイツ駐日代理公使)からビスマルク(ドイツ首相兼外相)への報告やブラントへの指示文書、往復文書などを解読、分析したものである。

 ブラントは1863年日独修好通商条約発効と共に日本領事として横浜着任、1867年一時帰国の後ドイツ代理公使として帰任、1871年駐日ドイツ帝国公使、1875年駐清国公使として転任した。

 研究成果の一つとしてドイツによる蝦夷地の植民地化計画をみると、1868/7/31ブラントはビスマルクに「会津・庄内から蝦夷地・日本西海岸の領地をドイツに売却したい」旨の報告、本国は「英米の動きが事実であれば交渉を開始してよい」と指示。さらにブラントは同年11/12~13にビスマルクに「蝦夷地を借款と引替に99年担保に出すとの委任状を持参」と説明し、本国の判断を求めている。最終的には本国政府が蝦夷地植民地化に動くことはなかった。

 次に新潟開港、戊辰戦争期、局外中立をめぐる本国訓令の三つのステップに分けてブラント報告と本国の対応をみよう。ブラントは新潟開港は予定通りに行くと報告、イタリアは蚕種確保のため新潟に入港し、ブラントは友好関係を正当化する行動と報告している。ビスマルクは列強の不一致を憂慮するが、ブラントの取った姿勢に同意を与えている。1868/9/11新政府軍は新潟港封鎖を宣言し新潟を占領、外国商人は一掃された。この間の動向について全体としてドイツ史料には不可解な面があり、更に分析する必要がある。

 戊辰戦争についてブラントは当初仏ロッシュの大君に同一化の行動を問題視、さらに英のミカド謁見や新政府承認、新潟開港問題での対応の相違、東北戦争の米沢・会津の降伏後での内戦継続などを批判している。また新政府は列強代表に局外中立の撤廃を迫ったが、英パークスの行動は列強協調と局外中立に反するとビスマルクに繰り返し報告した。

 本国特にビスマルクからブラントへの訓令をみると、ブラントは各国代表と協調し局外中立宣言を行い、自国民・自国領事への警告を出した。本国の基本姿勢は、内乱に対する完全な中立と団結は日本との関係の発展を保証する、この方針で各国代表との対処を要請した。本官(ビスマルク)はミカドの招待に応ずる是非を予断できないが、内戦の一方に組みしているとみられることを避けるべきと訓令している。一方パークスは英枢密院勅令に基づき、開港地でのすべての商取引は中立宣言の範疇外とした。ブラントも同様に軌道修正を試みるが、本国は利益を優先させる商業者による中立違反を助長しかねないとして局外中立をへの働きかけを訓令した。しかし英パークス公認で英船舶による新政府軍兵員輸送を認識したため、ブラントのそれに追随する方針転換に対しては本国も全面的に是認した。ビスマルクは英パークスの党派的な姿勢を認識し、パークスに対する反感をブラントと共有していた。

 現段階のまとめではビスマルクは内戦の一方に荷担する非を説いていた。ブラントは英パークスの行動の反作用として反新政府的な姿勢を強めていたが、やがて列強の大勢につき本国政府の是認を請けている。新潟開港の意図はイタリアの支援、自国商人の通商活動の促進、戊辰戦争をめぐる英パークスへの対抗にあった。