11月2021

11月の例会=報告

11月例会
令和3年11月20日(土)

高野山清浄心院「越後過去名簿」に記されている「氏名」と「逆」について
新潟郷土史研究会会員  山上 卓夫 氏

<講演要旨>
 真言宗空海(弘法大師)によって創建された日本の一大霊場高野山、その清浄心院(宿坊を経営)にある「越後過去名簿」より、上杉氏時代の越後とのつながりとその実態を探る。
 当時の「高野僧」は「取次」(地方の寺院など)を拠点にしながら、地方を回って依頼を受けて供養料を得ることも多かった。「越後過去名簿」に残されているその記録の中には、大永8(1528)年に新潟新津屋四良衛門と同坂内新兵衛の身内の供養依頼が見える。また天文10(1541)年には、府中(直江津)の長尾為景(越後守護代)供養記録があり、為景死亡推定年が従来と異なる可能性も読み取ることができる。なお、その翌年には娘道五の供養依頼もあわせて記録されている。
 そして、上杉氏-長尾氏のもとに連なる、色部氏、水原氏、新発田氏、安田氏といった国人領主層からの供養依頼、さらにその輩下の、例えば安田氏の田那部、高山、石塚、渡辺といった小領主(村殿)からの依頼記録も残っており、高野山とつながる越後における広域でのまとまりを窺うことができる。実際安田氏は、上杉家臣団の中でも相応の軍役を担う重臣として仕え、その輩下も「軍役衆」としてその中に組み込まれている。また「岩船衆」であった鈴木新右衛門や須貝藤左衛門が、生前供養である「逆」(逆修)を依頼していた記録が残っており、色部氏支配下地域においてもそのつながりが確認できる。
 さらに、上田長尾氏の元々の拠点「樺沢」(旧塩沢町)に由縁のある、宮島氏、田中氏親族の供養が、天文4(1535)年に依頼された記録も残されている。この宮島氏らはのちに、上杉景勝によって取り立てられた家臣団である「上田衆」として、越後・佐渡全域に派遣されて支配力強化の一翼を担うことになる。文禄3(1594)年に、宮島氏(三河守)は栃尾から新発田へと、黒金氏(安芸守)は佐渡羽茂へと派遣されていることが、「定納員数目録」から確認される。
 この「越後過去名簿」には合計1160件(含、年不明51件)が記され、うち生前供養「逆」の記載が223件(含、年不明2件)ある。他国の「供養帳」などと比してもこの「逆」の割合は決して高くなく、中世においては「擬死再生(よみがえり)」の儀式によって、幸福が来て寿命を長くするという信仰が広くあったものと考えられる。
 こうした中で、僧侶へ依頼する供養だけではなく、「良(入)阿弥陀仏」などの号を刻んだ「板碑」を造立することも行われていた。しかしその際も、経済的な差異によって石に墨で書くだけ、又はただ石を置くだけという階層が大部分であったことを、郷土史を勉強する者として見通すことが大切である。