3月2017

3月の例会=報告

3月例会
平成29年3月18日(土)

幕末、新潟湊廻船問屋の栄枯盛衰 ―若狭屋市平・前田屋松太郎の客船帳を読む―
本会会員 横木 剛 氏

〈講演要旨〉
幕末から明治にかけて活動し、北越商工便覧や色鮮やかな引札から名前を知られる廻船問屋前田松太郎。その前田屋が扱った廻船を記した客船帳(入船帳)の存在が近年になってわかった。その史料は安政期と明治初期それぞれ数年分のみであるが、そこからは諸国廻船と結びつく廻船問屋の具体的様子や、周囲にある様々な事情を読み取ることができる。
株仲間による制限があった廻船問屋業に前田が進出できたきっかけは、天保期の抜け荷事件に関わった若狭屋(大塩)市兵衛が安政期に廃業する際に手放した株を取得したことであった。若狭屋は新潟町における初期商人の一人で近世初期から続く廻船問屋であるが天保六年の唐物抜荷事件に連座し処罰を受けた。事件後も廻船問屋業を続けており、安政期の顧客は隠岐、北陸、江差などで年間30隻程度であった。資料には客同士の中古船の売買、冬季間の囲い船などの記述がある。
弱体化している廻船問屋の株を引き継いだ前田の展開は厳しいものだったが、明治期になると北陸地方の新興廻船主を受け入れることで発展を見せ年間100隻程度の扱い数になる。しかし新潟湊に多く集まっていた蝦夷地向けの越後船の扱いは全く無く西国からの廻船が主な客であることに特徴があった。

2月の例会=報告

2月例会
平成29年2月19日(日)

佐渡金銀山の世界遺産登録推進に向けて ―近代化遺産の全容を知る―
佐渡市世界遺産推進課調査係長 宇佐美 亮 氏

〈講演要旨〉
新潟県と佐渡市では「金を中心とする佐渡鉱山の遺跡群」として、平成29年度の世界遺産登録に向け作業を進めているところである。今日はその現状と課題についてお話ししたい。
県と市は29年3月に推薦書原案(改訂版)を国に提出。7月国の世界文化遺産特別委員会で平成29年度の推薦候補の選定、30年1月国からユネスコへの推薦書提出、というスケジュールを考えている。その後もイコモス(ユネスコ諮問機関)の現地調査などがあり、最短でも2年後の世界遺産登録決定となる。国内外への一層のアピールと様々な情報発信が必要であり、登録して終わりではなく、いかに保存、活用していくかという点も重要な課題である。
西三川砂金山は『今昔物語集』に記録が残り、明治5年まで砂金採取が続けられていた。鶴子銀山は16世紀半ばに発見され、鉱石を採掘する本格的な鉱山開発が行われた。相川金銀山は16世紀末に発見され、1601年から道遊の割戸等で大規模な採掘が始められ、江戸幕府の財政を支えた。そして行政の中心として佐渡奉行所が置かれた。
明治以降の近代的鉱山の誕生と操業については明治2年の官営佐渡鉱山から始まる。同22年に宮内省御料局の所管となり、同29年からは三菱所有鉱山として開発が進められていった。明治初期、欧米の技術者(御雇外国人)により製錬技術が導入され、同16年初代佐渡鉱山局長として大島高任が赴任。高任竪坑の開削、道遊の割戸の採掘など近代化がなされ金銀産出量が増大した。鉱山への多大な功績により後に高任神社が建てられた。
昭和10年代、国策による金の大増産により北沢の浮遊選鉱場やシックナー等が建設されたが、同18年銅生産へと転換、同7年には大縮小、施設の多くが廃止となり、平成元年操業中止となった。
このような歴史的経過をたどりながら、今も残る佐渡金銀山の施設として、大立竪坑櫓、捲揚機室、道遊坑、高任粗砕場、高任貯鉱舎、北沢浮遊選鉱場、大間港港湾施設等がある。
これらの関連施設と同時に、鉱山の近代化に伴い導入された技術、たとえば軌道(トロッコ)による鉱石の搬出、大立竪坑の開削、削岩機の使用、架空索道(空中ケーブル)の導入等も貴重な遺産である。
このように佐渡金銀山の開発、発展により、様々な人々が居住し集落や町ができ、いろいろな物資が集まりインフラも整備された。そして佐渡独自の文化が形成されていったと考えられる。