5月2015

5月の例会=報告

5月例会
平成27年5月16日

「吉田松陰、越佐をゆく―45日の滞在とその後―」
新潟県立文書館主任文書研究員 加納直恵 氏

〈講演要旨〉
吉田松陰が新潟を通った時の『東北遊日記』が残されている。写本ではあるが和綴の日記を新潟県立文書館で見ることができる。その日記をたどってみたい。
吉田松陰は文政13(1830)年長州藩士の子として生まれ、5歳で叔父の山鹿流兵学師範吉田大助の養子となった。嘉永3(1850)年21歳の時に九州遊学、同4年江戸に遊学、佐久間象山に師事し海防の必要性を強く意識する。相模、安房を調査し、次は北方ということで同4年12月14日東北への旅に出た。
江戸を出発した彼は水戸で約1か月間滞在、おそらく尊王攘夷について討論していたのであろう。会津には7日間滞在し藩校を見学、会津藩士と励まし合っている。2月7日新潟に入った。会津から新潟へは雪が深く歩きにくかったようであるが天気は良かった。兎を見てその色が白いのにびっくりしている。新潟では日野三九郎、中川立庵を訪ね、商人味方関右衛門らと日和山に登っている。
新潟から松前まで船で直接行こうとしたが、彼岸の日まで出帆しないとのことで佐渡行きを決意、2月13日出雲崎へと向かった。岩室、弥彦、寺泊を通り15日出雲崎に到着、海が荒れて渡海はできず13日間出雲崎に滞在。その間『北越雪譜』など多くの書物を読んでいる。2月28日ようやく小木に到着、真野に行き順徳天皇陵に立ち寄り尊王の心を昂ぶらせた。相川金山や黒木御所、春日崎砲台などを見て両津、小木、出雲崎を経て閏2月11日再び新潟に到着、日野三九郎、中川立庵を訪ね宿泊、味方関右衛門に詩を贈っている。
その後彼は秋田、弘前、盛岡、仙台、米沢、会津、日光を通り4月5日江戸に帰着した。東北の旅を終えた彼は「旅をしてはじめて広く深く学ぶことができた」と友人斎藤新太郎への手紙に記している。そしてその体験が国史への開眼、日本の航海術の未熟さや社会の後れへの認識、欧米諸国への関心などと結び付き、結果として彼のアメリカ密航計画、松下村塾主宰への熱意、安政の大獄連坐へとつながっていったのではないかと考えられる。東北の旅後の彼の生活には勢いがあり、同時にブレることがほとんどなくなったように感じられる。
旅の途中の越後、佐渡での経験が、松陰の人生の中で特に重要な位置を占めているのではなかろうか。