11月2022

11月の例会=報告

11月例会

令和4年11月20日(日)

阿賀野川流域における筏流送及び川汽船就航について

元新潟市江南区郷土資料館長 齋藤 昭 氏

<講演要旨>

阿賀野川は全長210kmあり、只見川・伊南川などの支流が会津盆地で合流し、津川に至り、新潟で日本海に注ぐ。水運は舟と筏が中心で、津川が物流の中継地であった。会津藩から許可され、阿賀野川水運権を独占していたのが津川船道という舟運組織であった。

筏搬送について。筏は只見川等を流す上川筏、常浪川等を流す内川筏、津川から阿賀野川を流す下川筏があった。筏では杉・欅・松・栗などを搬送した。津川が筏の集積地であり、組み直しが行われた。筏搬送は江戸時代から行われ、大正から昭和20年代が絶頂期であったが、木材の伐採、鉄道・自動車など交通の発達、道路網の整備により衰退し、特に発電所建設に伴うダム築造により木材の流送不能に陥ったことが致命的打撃となった。

舟運について。阿賀野川を航行した舟には、貨物船としてのアガワ舟・カケチガイ舟、客船としての長舟などがあった。津川から新潟への下り荷には穀物・木炭・薪などがあり、新潟からの上り荷には塩・米・大豆などがあった。イザベラ・バード著『日本奥地紀行』によると、津川~新潟間就航定期船は長さ約14m・幅約2m、船賃30銭、後部にワラ屋根(乗客船室)が設置されていた。津川を午前6時に出航すれば、新潟には午後5時に着く。ただし、沿岸の着船地での乗降、積荷の搬出等により、途中の酒屋付近で一泊するのが普通であった。舟運も昭和36年の楊川ダム工事により終焉を迎える。

川汽船の就航について。川汽船は明治7年(1874)7月、楠本正隆県令の指示による信濃川航路の川汽船会社創設を端緒とする。同年10月に新潟~長岡間の営業が開始される。新潟を午前7時に出発し長岡に12時に着くため、従来は2~3日を要した時間が大幅に短縮され、大変な活況を呈した。こうして川汽船経営会社が次々に誕生することとなった。明治14年に長岡資本による安全社、明治15年に小千谷資本による彙進社などが創設されるが、会社間での過当競争が激しくなったため、会社の統合が進むこととなった。

阿賀野川航路での川汽船の航行は、明治15年11月の安全社による新潟~酒屋~分田間の往復航行に始まる。経営会社はその後、改進丸取扱所、西川汽船会社、阿賀川汽船会社、鉱汽会社・協益社、阿賀丸汽船会社と目まぐるしく変わるが、明治31年12月末をもって阿賀野川航路が終焉を迎えるに至る。

栗ノ木川航路での川汽船は、明治16年1月に亀田川汽船会社により亀田~新潟間の往復航行が開始された。同年5月に鶴遊社による航行も始まったが、同年内に両社合併に至る。亀田川汽船会社は明治17年に新潟~三条間の往復を開始したものの経営難に陥り明治18年に経営者が退陣、亀田汽船株式会社と改称した。栗ノ木川航路は明治31年12月に北越鉄道三条~沼垂間の開通、新潟~沼垂間の馬車開業の影響を受け、終焉を迎えた。