7月2019

5月の例会=報告

5月例会
令和元年5月18日(土)

雑話:新潟湊に現れた異国船と関屋村
―おもに関屋村「安政6年 御用留」から拾う―
本会会員 植村敏秀 氏

〈講演要旨〉
 関屋村は、正保国絵図に「関屋村古新田」として初めて見える。半農半漁の寒村で、長岡藩の藩蔵の管理が村の経済的支柱となっていた。海岸砂丘地と信濃川沿岸の低地で、度重なる川欠けと飛砂に悩まされ、集落移転を繰り返していた。
 家伝によれば、斎藤家は越前朝倉氏の重臣で、朝倉氏滅亡により越後越前浜へ移住したという。天保10(1839)年ころ、11代斎藤金兵衛が関屋村に移住し庄屋株を得た。安政6(1859)年当時、長岡藩曽根組の坂井郷蔵組に属し、斎藤熊之助が庄屋の任に就いていた。
 今日は、安政6年の「御用留」をもとに幕末に新潟湊へ来航した異国船の状況についてお話ししたい。
 嘉永6(1853)年のアメリカ合衆国のペリー来航後、日米和親条約で下田・箱館、安政の五力国条約(修好通商条約)で神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港した。こうした状況下で、諸外国は新潟湊が貿易港として適当かとうかを判定するために調査船を派遣した。
 「御用留」によれば、安政6年4月22日七ツ時新潟湊にロシア船ジキット号が入港し、ボートを下ろし信濃川河口水深を測量し、流作場・山の下に上陸し本町通・大川前通を遊歩し帰艦した。新潟奉行は鶏・山芋などの食料を与えた。23日オランダ軍艦バーリー号が来航し、信濃川河口水深調査を実施、願隨寺で新潟奉行所役人・外国奉行支配調役と会談した。庄屋熊之助は曽根代官所へ報告、番屋建築、長岡藩から者頭・目付・扶持渡奉行・藩兵など30人ほどが来て、庄屋・組頭宅などへ分宿した。その後、諸役協力・私費支出などにより、熊之助は藩から褒美を受領した。
 アメリカにかわって日本貿易の中心となったイギリスは、クリミア戦争でロシアと戦う中で、極東での日本の戦略的重要性を重視し、海軍が海図作成を進めた。8月にはイギリス船の新潟湊来航が予見され、「御用留」によれば、9月に入ると長岡藩からの者頭・目付・船奉行・足軽・小者などの関屋村での分宿割り当てが作成され、30日には38人が宿泊し、10月2日に帰城した。
 10月9日四ツ時新潟湊にイギリス軍艦アクティオン号とタブ号が来航する。小舟で3人が上陸し、願隨寺で会談し、10日四ツ時頃に出帆した。13日・15日に新潟湊先に現れたが強風のため新潟湊に入港できなかった。長岡藩から防備要員が急遽駆け付けた。イギリス側史料として海軍測量士のブレイクニーの『中国と日本の沿岸で-40年前の-』には、新潟湊の水深が浅く出入港が至難であること、日本側の作成した沿海図が極めて正確であることに驚嘆、評価していることや2隻の船のスケッチや航跡図などが記されている。
 安政6年の関屋村では、度重なる風水害や幕末の政情不安の中で、庄屋を中心にたくましく生き抜いていく村人の姿を「御用留」から読みとることができる。