4月2023

4月の例会=報告

4月例会

令和5年4月15日(土)

豊臣期上杉家と京都・伏見・大坂 -上杉家の留守居と人質を中心に- 

講師:新潟大学人文学部准教授 片桐 昭彦 氏

<講演要旨>

 豊臣期の上方での上杉氏家中の実態や動向については、分からないことが多い。上杉家が他の武家・公家・寺家などと交わした書状が殆ど残っていないためで、断片的に散在する史料からみる。上杉景勝は、天正14(1586)年初上洛、秀吉に臣従。同16年再上洛、京都に邸地付与、17年妻菊や女房(人質)らを連れ上洛、文禄3(1594)年秀吉の上杉邸御成り、翌年伏見に転居、慶長3(1598)年景勝会津へ国替え、同5年家康、会津の景勝を討つため下向、関ヶ原合戦に敗れ景勝は米沢へ減封された。

 千坂景親、景勝の正室菊、直江兼続の妻子に関する史料から上杉家の上方での動向を探ってみよう。千坂対馬守景親は京都・伏見の留守居役、文禄3年知行2,176石であったが、会津国替えの際は5,500石。天正13年景勝が秀吉への太刀・馬の贈物の供に千坂対馬・村山安芸、翌14年の秀吉茶会の供に直江山城・千坂対馬と記されている。『宇野主水日記』天正14年6月条に景勝が門跡(顕如)への太刀1腰・馬1疋献上の使者として千坂対馬守参上とある。また『晴豊記』(公卿勧修寺晴豊の日記)には天正18年1月から2月に銭、酒、藤戸のりなどの贈答例などもみえる。天正19年閏正月6日の上杉・直江両人へ茶湯の振舞、広間にて千坂ら15人相伴とあり、直江兼続に継ぐ扱いをされている。この『晴豊記』は天正18・19年と文禄3年以外は残っておらず、残存部分だけでも千坂景親の記事はかなりあり、豊臣家や京都の公家・寺社との交流のため留守居としての活動が推測される。関ヶ原後も上杉家の赦免を願って奔走していた。

 景勝の正室菊は、武田晴信の娘、天正6年景勝が勝頼と同盟を結ぶ条件として婚約。菊は天正18年以降、京都で勧修寺晴豊夫妻や妹准后(後陽成天皇母)と音信・贈答を通し交流。『晴豊記』には天正18年8月から翌19年2月までに4回、上杉内記(菊)から蝋燭、伊勢エビ、柿、鮒など賜の記載がある。また、菊は妙心寺住持の南化玄興に帰依し、玄興は甲斐の恵林寺滞在など武田家との縁あり、晴信25回忌、勝頼17回忌の供養を菊とともに伏見で行い交流を重ねていた。

 直江兼続の妻子も上洛、文禄4(1595)年に9才の娘が吉田神主兼治の猶子となっている。文禄4年7月、8月の『兼見卿記』(兼治父の兼見の日記)には、直江の息女猶子のことや祝儀を使者源左衛門が持参のこと、直江内儀への御礼、贈答品などが詳細に記されている。文禄4年に直江兼続も伏見に転居しており、菊や千坂も共に移ったと思われる。慶長5年12月兼続娘は上杉家の行末を案じ、春日社に燈籠代黄金2枚を進上した。この頃、娘や乳母は大坂滞在と思われる。慶長5年9月から翌6年3月には家康は大坂に居り、上杉家赦免の折衝を続けた千坂景親も大坂にいた。同6年5月春日社の燈籠油料を寄進した兼続の妻せんも大坂にいた。

 豊臣期の上方における上杉家の動向について、公家や僧侶の日記や寺社の記録などの断片的な史料を収集整理することが重要で、景勝や兼続妻女の動きも貴重な史料となっている。