6月2017

5月の例会=報告

5月例会
平成29年5月21日(日)

小林存を追う
  ―新潟市学校町天神様の小林存歌碑をスタートに―
本会会員 大谷 晴夫 氏

〈講演要旨〉
新潟市学校町の天神様境内に、小林存の「里川にメダカ掬ひて遊びたる遙かなる日のまぼろしに立つ」の歌碑がある。これは田澤喜一氏が個人で建てた歌碑であるが、私は幼少の頃から学校町に住んでおり、また小林存も学校町に住んでいたということで興味を持ち、彼を追いかけている一人である。
今年は小林存生誕140年、没後56年になる。小林存の業績や人物像、年譜等々については、すでに多くの人々により明らかにされているが、私は彼の佐賀中学校教師時代の年代についてはっきりさせたいと思っていた。それは川崎久一『小林存伝』の年譜に「明治29年11月県立佐賀中学校の英語教師として赴任、31年同校を辞して帰郷」と記さているのに対し、大正12年2月4日発行の「東北時報」小林存「自叙伝」には「明治三十一年二月赴任、三十四年春辞職」と記されているからである。
そこで私は佐賀県立佐賀西高等学校(旧県立佐賀中学校)に問い合わせたところ、同校の「教員履歴」には「明治三十二年一月十六日赴任、三十三年六月十八日辞職」と記されているとのことであった。実際明治32年1月21日の「新潟新聞」に「小生今回佐賀県第一尋常中学校へ赴任し爾今左記の處に寓居す…佐賀市会所小路吉田方 一月二十一日 小林存」の記事があり、また佐賀県第一尋常中学校栄城会「栄城」第6号(明治32年4月30日発行)にも「小林存 佐賀県第一尋常中学校教諭心得ヲ命ス(一月六日)」とあり、小林存の佐賀中学校赴任は32年1月であることがはっきりした。私は佐賀市へ行き、彼の下宿先住所を確認し、感慨にひたりながら歩くことができた。
小林存の新潟居住地については何回かの転居があるが、昭和2年の「新潟新聞」記事に「学校町北辰学館向小路」、同9年の記事に「学校町二番町」とあり、昭和に入り学校町に居住していたことがわかる。北辰学館向は岡本小路近辺のことで、山田又一の随筆集『ひとりしずか』には小林存、山田穀城(花作)、広橋足穂が居住していた「学校町文芸小路」として紹介されている。小林存は昭和14年から19年まで(17年という史料もあるようであるが)町内会長を務めていた。
小林存一家の写真が残されている。「存さんは三世代いっしょに住んでいた。楽しく過ごしていた」と聞いている。今回は小林存の思想的中味に触れることができなかったが、今後も彼を追いかけながら究明していきたい。

講演終了後、この会に参加されていた蒲原宏氏(本会名誉会員)に、司会者より「小林存についての想い出などをお話しいただけたらありがたい」という要望があった。(以下、蒲原氏のお話の要旨)
小林存の活動や研究、業績を振り返ってみると、内容が多彩で豊富、いずれも優れたものである。特に民俗学の研究や「高志路」の編集、発刊には偉業というべき面があると思う。私は「高志路」の編集のお手伝いをしたことがあるが、どのようなやりくりで財政が執行されていたのか、今も不思議な感じがしている。おそらく小林存という「人間性」でやりくりされていたのではないかと想像している。
病気で倒れられた時、私は主治医の一人として当時の病院で治療に当たったことが印象深く思い出される。70歳前後から短歌を詠まれたが、短歌の面でも大変才能があったと思う。今あらためて偉大な人物であったと実感している。