1月2019

新春講演会=報告

新春講演会
平成31年1月6日(日)

地域歴史文化遺産と大橋新太郎・種田山頭火
新潟大学教授 矢田 俊文 氏

〈講演要旨〉
 新潟大学附属図書館所蔵の鶴吉村文書と木村家文書は、ともに地域歴史文化遺産として重視したい貴重な史料である。
 鶴吉村文書は旧鶴吉村(十日町市)庄屋家が所持していた古文書で、その中に明治期の新潟県治報知がある。県治報知には県令の布達が記されており、その布達内容から、たとえば毘沙門堂での裸押合いは猥らであるので統制が必要である、蒸菓子(饅頭ノ類)の製商にも免許鑑札が必要である等々、当時の村々の生活実態を掴むことができる。
 また、同文書の中には「明治二十年度千手校実費支払簿」や「同出納決算」などがあり、これらの史料を分析してみると興味深い点が浮かびあがってくる。それは十日町や小千谷地域の商店が優位でありつつも、大橋新太郎が長岡を拠点にして千手校に小学作文本、尋常科習字本、小学校用軍歌唄本などを納入し、さらに教科書や生徒出席簿、試験表、卒業証書などの学校用品を販売していることである。これはおそらく長岡洋学校で事務掛となっていた父佐平の仕事内容を子供である新太郎が知っていたからであろう。そしてその必要な備品や消耗品を彼が的確に把握していたことが、後の事業の発展につながっていった背景になっていたと考えられる。
 木村家文書は近世の平林村(村上市)の庄屋文書を含む厖大な文書群であるが、その中に種田山頭火の自筆書簡がある。それは昭和初期、村上地域で無季自由律俳句グループ「渚の会」が存在していたことが大きい。「渚の会」は昭和6年から同13年頃まで句誌『渚』を発刊し創作に励んでいた会で、『渚』の編集を担っていたのが村上本町小学校に勤務していた木村善蔵(雅号、良二)である。
 木村良二は山頭火や自由律俳句の全国誌『層雲』同人らと文通し、山頭火から『渚』の感想などが寄せられていた。昭和8年12月の木村良二宛山頭火の葉書には、『渚』送付のお礼と年の瀬を迎えた現在の心境を記した前書きとともに、「けさもしぐれる 足音は郵便やさん」の句が記されている。山頭火は自身の俳句における前書きは句の構造の一部と考えていることから、この良二宛の葉書は大変重要なものである。昭和11年6月には交流のあった山頭火を村上に招き、良二はじめ「渚の会」の5人が集い句会を開いている。
 以上、鶴吉村文書と木村家文書の事例を紹介したが、どのような史料でも磨いていけばさまざまなことがわかり、そして重要な事実が判明していくといえるのではなかろうか。

講演会終了後、恒例の新年会が行われました。当会名誉会長の中原八一新潟市長、歴史文化課長小澤昌己氏から激励のご挨拶をいただきました。

矢田俊文新潟大学教授



中原八一新潟市長



小澤昌己新潟市歴史文化課長

12月の例会=報告

12月例会
平成30年12月16日(日)

デューク・エリントンと新潟地震
新潟市美術館学芸員・本会会員 藤井 素彦 氏

〈講演要旨〉
 今日は新潟市の戦後期についてお話したい。
 来年(2019年)の1月19日に新潟市で第33回ジャズストリートが開催されるが、このイベントには毎回「デューク・エリントンメモリアル」の名称がつけられている。デューク・エリントンはジャズの巨匠である。
 私はなぜ新潟で毎年ジャズの催物が行われているのか不思議でならなかったが、新潟の街中を歩いてみてジャズを聴かせる店が多いように感じた。ある意味で新潟は都会であると感じた。それはおそらく新潟の人々が家の中だけにいるのではなく、家の外で過ごす時間や空間が多いのではないのか、その時間や空間にお金を使う文化がまだ残っているのではないかと感じた。新潟はジャズが身近にある街といっていいのではなかろうか。
 1964年6月19日、エリントンとそのオーケストラが日本に向けてアメリカを出発したが、その三日前に新潟地震が発生していた。地震発生時セオフィラス・アシュフォードが新潟アメリカ文化センターの第9代目の館長として着任していた。また同年3月には星とよ子さんが館長秘書となっており、二人はともにジャズが好きであった。このアメリカ文化センターは戦後GHQ民間情報教育局所管の図書館からはじまり、アメリカの文化を日本国民に知らせ理解を深めてもらうという趣旨で設けられ、新潟には1948年に開設されていたものである。
 館長アシュフォードは地震で甚大な被害を受けた新潟の街を見て、来日中のエリントンに連絡をとり新潟地震救済の話をした。その話を聞いたエリントンは快諾し、7月8日新宿の厚生年金会館でチャリティーコンサートを実現させた。エリントンはすでにハワイ公演の予定が入っていたにもかかわらずそれをキャンセルし、チャリティーコンサートを実現させたのである。聴衆約2,000人、収益金の約96万円が新潟市に寄付された。新潟市は1966年国際親善名誉市民条例を公布、施行し、同年5月ライシャワー駐日大使立会いのもと、条例施行後初めての国際親善名誉市民章をエリントンに贈呈した。
 1970年1月エリントンは三度目の来日をはたし全国各地で公演したが、1月10日新潟県民会館でも公演が行われ、多くの新潟市民が彼の演奏を聴くことができた。
 エリントンは1971年、旧ソ連でも22回の公演を行ったが、1974年75歳で死去した。彼の人生は働き詰めの人生であったが、すぐれた音楽家であり、同時に高潔な人生でもあったといえよう。(エリントンが実際に演奏している映像も見ることができた。)