3月2015

2月の例会=報告

2月例会
平成27年2月8日(日)

新潟市・沼垂町合併100周年記念展「沼垂」を見る
新潟市歴史博物館学芸課長 小林隆幸氏

〈講演要旨〉
「お蔵の松」はかつて沼垂小学校に植えられていた松で、周辺地域の一つのシンボルであった。そこは古くは新発田藩のお蔵があった場所である。
この沼垂は「渟足柵」として「日本書紀」大化3(647)年条にはじめて記された地名である。旧和島村八幡林遺跡から発掘された木簡に「沼垂城」とあり、沼垂が実在したことは確実である。越後国の成立や国府の所在地などとの関連からも注目され、また近年発掘された木簡や牡丹山諏訪神社古墳の発見など、沼垂周辺地域一帯のさらなる解明が期待されている。
中世史史料にも沼垂が登場している。たとえば永正15(1516)年伊達家文書の中に「のたりのわたしもり」が出てきており、「義経記」や京都醍醐寺の僧侶による「北国下り遣足帳」にも登場している。そして上杉景勝と新発田重家との対立の際にも沼垂が重要な拠点となっていた。
江戸時代は新発田藩の中心的な港として発展していったが、四度の移転があった。信濃川・阿賀野川の流れによる侵食の影響が大きかったと考えられるが、信濃川を挟んだ新潟町との訴訟が繰り返された。港の権益問題、中洲帰属問題、廻船入港問題等々、訴訟はほとんど沼垂側の敗訴で終わったが、沼垂町と新潟町の対立はながく続いた。
近代に入り、明治19(1886)年、萬代橋が完成した。萬代橋により沼垂と新潟が結ばれ鉄道の敷設も計画された。同30年北越鉄道沼垂駅が開設されたが、その開業前には鉄道爆破事件などもあった。同31年山の下と合併、大正3(1914)年に沼垂町と新潟市の合併が実現し、その後も信濃川右岸一体にかけて商業施設や工場群が建設され、また近代的港湾としても整備され、さらに大きな発展をみせていった。
このながい沼垂の歴史について、今回の企画展を観覧し、より一層理解を深めていただければありがたい。
(沼垂に関係した古い写真を映像で観賞し、その後企画展の会場に移動して「沼垂展」を観覧した。)