3月2024

3月の例会=報告

3月例会

令和6年3月17日(日)

師範学校を卒業した人々の『戦中記』について―昭和一六年三月卒業生を中心にして―

本会理事 山上 卓夫 氏

<講演要旨>

 昭和62年6月刊行の『私たちの戦中記』は、新潟師範学校を昭和16年3月に卒業した紀一会の会員が、太平洋戦争の最中にそれぞれが体験したことを書き綴ったものである。文章を寄せた63名のうち6名を紹介する。まず、中心人物の北上芳樹氏。氏は卒業の翌年に舞鶴海兵団に入隊、第2期師範徴兵となる。氏によれば、かつて師範学校出身者は卒業後6か月間の兵役に服すれば、以後の兵役義務はすべて免除されていたという。しかし日支事変後、昭和15年卒の人たちから一般の徴兵と同じ取扱いを受けることになった。氏の文章から「こんなはずではなかった」という思いがうかがえる。氏はソロモン海戦で死線をさまよう体験をしたが、直後の帰郷先では教師が碁に興じるなど楽天的な空気が漂い、戦地との落差を感じたという。氏はその後、舞鶴海兵団少年練習兵普通学の教員となり、終戦を迎えるが、氏のように海軍関係機関の教員となった人々も多い。この戦争で戦没した新潟師範学校卒業生は多いが、なかでも昭和15年から17年卒業生の戦没率は際立っている。ノンフィクション作家の保阪正康氏は「学徒の頭脳が必要だった」という軍事課将校の言を紹介し、大学生や師範学校卒業生の多くが戦争の犠牲になったと指摘する。

 次に山崎仁一郎氏。氏は館山海軍砲術学校卒業と同時に少尉に任官し、北千島の占守島防空隊指揮官となった。そこで捕えられた米軍捕虜が櫛を離さず持っていることに驚いたという。そして、「たとい戦争とはいえ、同じ人間同士が殺し合わねばならないということは全くおかしなことではあるまいか」と綴っている。次に池田一男氏。氏はフィリピン沖海戦後、滋賀海軍航空隊の甲種予科練習生の教員となった。滋賀では、自分が軍艦の兵隊であったことがすぐに察せられたという。目つきが常人とは違っていて、戦争の中で、軍隊の中で、いつの間にか人間性を失ってきている自分に気がついて、慄然たる思いに陥ったという。氏はその後、新潟県史編さんにも関わり、『新潟県農民運動史(戦前編)』という大著をものにしている。次に杵渕浩氏。氏は卒業後、新潟市関屋小学校教員となったが、まもなくインパール・コヒマへ従軍。攻撃中、右肘関節部に激痛を感じた。氏のすぐ前にいた中隊長と隣にいた上等兵は戦死し、自分は捕虜となった。次に治田稔氏。氏は私(山上)の母のいとこに当たる人で、コヒマで戦死している。治田氏の義弟である嘉村正規氏から提供を受けた父・弟・妹への書簡が「戦場からのたより」として紹介されている。最後に田原智城氏。氏もインパールに従軍。この戦闘で同級生や先輩の多くが戦死し、残った紀一会員は余田・杵渕と自分のみで、「戦闘とは食う飯も飲む水も無くなるものであることを知る」と述懐している。終わりに、師範学校卒業生たち戦中派は「戦争は駄目だ」ということを若い人に伝えたいという信念を持ち、文章を書いているように思う。