5月2019

4月の例会=報告

4月例会
平成31年4月20日(土)

新発田歩兵百十六連隊少尉弦巻辰三郎氏について
-日中戦争、家族への手紙を中心に-
本会理事 山上 卓夫氏

〈講演要旨〉
 数年前笹川玲子さんから父弦巻辰三郎氏の24通の戦地からの手紙を見せてもらった。
 第13師団は明治38年に青森で編制、同41年に高田に移り6千名余の軍関係者が居住。この師団には中国留学生蒋介石、レルヒ少佐、師団長に長岡外史・秋山好古がいた。
 大正14年国際的な軍縮で13師団ほか4師団が全廃、村松30連隊が高田に移転した。昭和12年盧溝橋事件によって4師団が復活、新発田には歩兵第116連隊が発足。この将校職員表には、片山聞造・小川原潮栄・金子孝信・富山富一、市橋長市・井上慶証など県人の名前が見え、弦巻辰三郎氏は昭和12年に少尉と記載されている。
 弦巻辰三郎氏は昭和12年7月26日から同13年10月5日までの間、24通の手紙を妻りき子、父留蔵、子玲子・憲哉など家族宛に書いている。
新潟毎日新聞(昭和12年11月7日)は「両腕に負傷、弦巻少尉」の記事を載せている。氏は中央大学卒業後、新潟医大附属医院勤務中の12年7月応召、新発田歩兵第116連隊に編入、添田隊に属し上海大場鎮の激戦で名誉の負傷とある。入院した呉松病院から出した手紙は昭和12年10月27日付けで妻りき子宛のもので、戦場と負傷の状況が詳細に書かれている。銃創により3本の指で書かれ文字が乱れている。
 新潟新聞(昭和13年11月8日)は、我が郷土部隊は頑強な敵と戦い10月14日に大別山の新店に入城、将官では10月11日に2氏戦死・4氏負傷、10月12日では2氏戦死・4氏負傷とあり、12日の戦死者の一人として中尉弦巻辰三郎をあげ、氏の戦死は壮烈を極め小隊を指揮し、真先に進撃と記載している。享年32歳。
翌14年3月10日の新潟毎日新聞は、支那事変戦没者17柱の新潟市葬の記事を掲載。弦巻辰三郎氏は「関屋步大尉」となっており、この頃はまだ市葬を行う余裕があった。辰三郎氏が大別山頂から両親に宛てた昭和13年10月5日付けが24通最後の手紙となった。玲子の手紙がうれしかった、中尉に昇進し第9中隊長となった、大別山で相当の戦死者を出した、漢口陥落を御持ち下さい、僕は益々元気、皆様御達者でサヨーナラと書いた。
 講演の最後に映像での紹介があった。家族4人の写真、蒲原神社金子孝信氏の自画像ほか写生画、辰三郎氏が就学前のレイコ・ケンヤも読めるようにカタカナで書いた手紙、新潟市葬における父留蔵の挨拶など。
辰三郎氏の手紙は戦局と時代を反映したもので戦場地名も記されて驚くが、それにもまして、父・母・妻・子への想いが溢れている。戦争に関する史資料は保存・保管され、繰り返し伝えていくことが大切と考える。