1月2016

新春講演会=報告

新春講演会
平成28年1月10日(日) 会場:新潟会館

1964年新潟地震を新史料から考える―白山小学校児童の作文綴に即して―
講師 新潟大学准教授 中村 元 氏

〈講演要旨〉
日本近現代史研究の中で災害史研究がどのようになされてきたのかについて紹介したい。
災害史研究において、その対象の中心は1923年の関東大震災であった。なかでも帝都復興計画と虐殺問題が関心の焦点であった。しかし、関東大震災80周年を経て、当時の防災体制、震災発生時の消防や医療、罹災者の救援活動、人々の具体的な行動等が注目され、さらに震度記録の発掘、文献・日記や各種数値データの検証など、研究動向に新たな傾向が見られるようになった。
そして特に1995年の阪神・淡路大震災以降、災害への関心の高まりとともに、災害教訓の実証的な検討、災害と社会への視野の広がり、文理融合による分析など、災害史研究がより深化し進展していったと考えられる。
新潟地震の研究については、新潟市歴史博物館「新潟地震展」(2014年)が重要である。地震の被害のみならず写真や8ミリ、文書記録など、地震の記録の在り方やその後の都市の変化に注目し、その視点は今の災害史研究の動向と響き合うものであった。
新潟大学災害・復興科学研究所の「歴史地震展」(2014年)も重要である。そこでは新潟大学が所蔵する様々な資料・文献が展示され、特にアンケート分析による検証では、新潟地震における情報源としてトランジスタラジオが大きな役割を果たしたことに注目している。それはちょうどトランジスタラジオが普及する時期と重なっており、新潟地震から高度成長期の日本社会を垣間見ることができる。
また、新潟大学災害・復興科学研究所により白山小学校への史料調査がなされ、同小学校の新潟地震災害関係史料の発見へとつながっていった。地震発生後3か月が経過した9月に書かれた児童の作文綴も関係史料の一つである。全児童804名中6年生3クラス131名の作文を分析してみると、避難の具体的状況がよくわかる。どこへ避難するのか、集合するのか分散するのかなど、地震直後の先生、児童それぞれの認識や行動には大きな相違があり、クラス差もあり混沌とした状況であった。その混沌とした現場の状況とそれに対応した先生方の尽力を作文綴から読み取ることができる。
そして新潟地震写真記録の冒頭に残された高橋恒夫校長のメッセージも貴重である。
「“歴史を大切にする”ということは、正しく伝えるために資料をきちんと残すことです。」
災害の歴史を伝えるために資料を残そうとする意思に基づく保存―それは新たな新潟地震研究の可能性とともに、様々な体験記録を残すことの重要性を提起していることでもある。

講演会終了後、恒例の新年祝賀会が行われました。当会名誉会長の新潟市長篠田昭氏からご多忙の中ご出席いただき、激励のご挨拶をいただきました。

12月の例会=報告

12月例会
平成27年12月19日(土)

「横越の焼山へ墜落したB29―少年Kが見た70年前の大事件―」
講師 本会会員・(財)北方文化博物館理事 神田勝郎氏

〈講演要旨〉
昭和20年7月、米軍のB29が焼山に墜落した事件があった。墜落したB29の搭乗員は捕らえられ護送されたが、その墜落と護送の二つの場面を私は目撃している。今日は私(少年K)が目撃した情報を皆さんに紹介したい。
7月20日の深夜、米軍機5機による新潟港沖への機雷投下が行われた。投下後5機が阿賀野川沿いに会津方面へ飛行中、万代島から撃った高射砲弾がその一機に命中した。私は当夜家の庭に出て、炎上した飛行機の火の光が少し分かれ気味に焼山方面に落ちていったのをはっきりと目撃している。
撃墜されたB29の搭乗員は11人。4人は死亡し7人はパラシュートで脱出したが捕らえられ、日本軍の憲兵隊に引き渡された。その米兵を乗せたトラックが横越村役場前で一時停止した時、地元の一女性がノコギリで米兵に襲いかかろうとした事件があった。この事件は様々な形で紹介されているが、私は一女性がノコギリを持って家から出てきたのは目撃しているが、「荷台に乗り込んだ」「トラックに乗って切りかかった」という表現はあたっていないと考えている。
B29の墜落事件、米兵護送に関する報道や報告について、中には誤解され、事実とは異なる内容で伝えられている部分が見受けられる。「ほんとうの真実」を私なりに後世の人々に伝えていく責務があると感じている。
墜落したB29を見たいということで、臨時の渡し舟まで出されたが、その一艘が転覆し、9人の死亡者が出た。9人の中には小学校の幼い児童も含まれていた。
またB29の搭乗員で死亡した4人の遺体について、当時の横越村長伊藤威夫氏が横越村在郷軍人会長佐藤基一氏に相談、焼山区長目黒啓一氏に依頼し焼山の墓地の一角に埋葬することにした。この丁重な埋葬の経緯については昭和56年8月、横越村農協有線放送で報道されたことがあったが、その記録が幸いにも残されており、当時の状況を知るうえで貴重な資料となっている。
終戦から4か月後の12月11日付け「新潟日報」記事を見つけることができた。その記事は高田進駐のカナデイ中尉を長とする調査隊が焼山を訪れ、地元民の国境を越えた人類愛によって埋葬された墓に詣で冥福を祈ったという記事である。敵国の兵士ではあっても丁重に埋葬したことは人間として当然の行為であるといえるが、現代に生きる地元民にとって大変ありがたいことであったと今実感している。