4月2019

3月の例会=報告

3月例会
平成31年3月16日(土)

近世新潟町における廻船問屋津軽屋
本会副会長 菅瀬 亮司 氏

〈講演要旨〉
 新潟町の廻船問屋津軽屋(高橋)次郎左衛門家は天明年間(1781~88)、老朽化した長岡藩関屋御蔵の新潟町移転を引き請け重きをなしていく契機となったようだ。その後唐物抜荷事件で財産を費消し明治21年横浜に転居した。関東大震災で関係資料を消失し不明の点も多いが、津軽屋の様相について絵図なども使って説明したい。
 抜荷とは密貿易のことで幕府は厳しく取り締まったが、新潟では天保6(1835)年と同11年に事件が発生した。とくに2回目の事件により津軽屋大番頭民蔵や当銀屋善平などが入牢、その後も吟味が続けられた。この事件が以降、同家の衰退につながっていく。
 大問屋としての津軽屋は文化7(1810)年の「大問屋申立」に名前が登場している。その後も大問屋として活動し、新潟町奉行の次、検断の上の地位にまでいった。津軽屋繁盛の基礎は6代目次郎左衛門の天明期と考えられるが、9代目の時には新潟町打ちこわしにあい、11代目は抜荷事件に連坐するも放免、14代目は新潟の家屋敷を手放し横浜へ転住するなど、様々なできごとがあった。
 津軽屋の屋敷については天明年間、他門通に面した八間小路上角で、大川前四之町と本町通四之町の通し屋敷、間口13間余、奥行46間、地子高は2石7斗2合6勺であった。また享保16(1731)年改めの「家別書附」に「津軽屋次左衛門」の表記屋敷があり、これが津軽屋の屋敷記載の初見であろう。近世期の新潟町絵図や地子帳などから、「高橋次郎左衛門」の表記家屋や「高橋次郎左衛門外屋敷」の記載を見ることができ、津軽屋の外屋敷数は120戸とまではいえないが、かなりの屋敷数を所持していたことがわかる。
 津軽屋は三日市藩や村上藩、長岡藩などに大名貸を行い、また天保年間の「越後国持丸鑑」(当時の長者番付)に「東前頭五」として登場している。しかし2回目の抜荷事件以後津軽屋は桜井勘蔵家から資金を借用していたのではなかろうか。嘉永3(1850)年新潟横町浜蔵5か所、白山嶋蔵2か所を売却し、結果的に以前の高橋蔵が桜井蔵に変わっている。
 津軽屋の廻船業を石見国温泉津の「木津屋客船帳」から見ることができる。越後の湊からどれだけの船が温泉津に入津したのか、その「客船帳」によれば、18世紀後半から19世紀前半まで新潟湊からの廻船入津総数は108艘、そのうち53艘が津軽屋の廻船であった。53艘の平均水主数は7.6人で、津軽屋は定紋九曜星の船旗で廻船10艘程度を所持し、日本海を舞台に広く活動していたと考えられる。
 以上、津軽屋の歴史をたどってきたが、長岡藩との関係などよくわからない部分も多い。今後もご教示をいただければありがたい。