8月2021

8月の例会=報告

8月例会
令和3年8月21日(土)

村の教育からの問い~旧佐渡郡羽茂村全村教育~
前佐渡市立南佐渡中学校長 知本康悟 氏

<講演要旨>
 かつては「村を育てる教育」が行われていたが、現在は「村を捨てる教育」となってしまっているのではないか。戦前は農業を中心とする第1次産業就業率が高く、それに対応した「村里の教育」が行われていた。「村里の教育」とは、家と村を担う一人前の良き村人を育てる教育であり、「地域(村)の子どもは地域(村)で育てる」という姿勢に基づいている。これに対し「学校教育」とは、近代国家の形成と工業化を担う人材(労働者・兵士)を育てる教育である。「学校教育」により得たものも多いが、なくしたものもある。学校教育と地域教育が一体となり「地域社会に、人間形成のための新しい共同の関係をどうつくるのか」が課題となる。そのヒントを、日本社会と地域と教育の転換期である1930年代から1950年代の羽茂村の地域と教育の歩みに探ってみたい。
 この期間を3つに分けてみる。まず第1期は1930年から1945年であり、戦争の時代の「村おこし」の時期であった。この時期には、農山漁村経済更生運動の中で、柿の特産品化とともに村立羽茂農学校の設立という二本柱が立てられ、以後「柿づくりは人づくり」「村づくりは人づくり」という「村おこし」の考えが羽茂村の中に浸透していった。
 第2期は1945年から1950年代前半であり、戦後羽茂村の地域文化運動の時期であった。1945年に歌人藤川忠治が東京から帰郷し、『歌と評論』が復刊された。これを起点に歌会から羽茂村文化会などの地域文化運動が生まれていく。翌1946年には酒川哲保が京都から帰郷し、羽茂村夏期大学が開催されるようになる。地域文化運動には戦地から帰った羽茂農学校の卒業生たちが集い、夏期大学には藤崎盛一や糸賀一雄、諸橋轍次、羽仁もと子、奥むめおをはじめ、一流の講師陣が集った。
 第3期は1950年代半ばから1960年であり、羽茂村全村教育が行われた時期である。昭和29年に村内五か村が連合し、小中高一貫の教育を計画し、さらに幼児及び一般成人をも加えて全村教育をめざして出発した。教員育成のために村で立ち上げた内地留学制度、子どもを理解する手始めとしての精神衛生研究会の発足、村費教員の雇用など、先駆的な制度が進められた。こうした動きは母親の学びへと展開した。母の会が立ちあげられ、母の会読書会へ、さらに幼・小・中・高母の会研修会へと発展していった。これは地域に根ざした教育活動であり、30年間継続したのである。こうした「村つくりの教育」に指導的な役割を果たしたのが酒川哲保であり、村を育てる学びの共同体という彼の考え方は羽茂町長となった庵原健に継承され、その実践は民俗学者宮本常一に絶賛されるに至る。
 以上とりあげた羽茂村の教育からの問いへの答えとして、「村つくりの教育」に学び、主体性をもった「村を育てる学力」を目指して取り組む必要があるのではないか。