12月2021

12月の例会=報告

12月例会
令和3年12月19日(日)

三条実美のもとにのこされた大河津分水関係文書-明治2年の分水鑿割計画をめぐって
東京大学史料編纂所学術支援専門職員  杉山 巖 氏

<講演要旨>
 『信濃川鑿割分水一件書類』(宮内庁宮内公文書館所蔵)は、大河津分水工事に関わる明治2(1869)年の原文書5通が綴じ込められ製本された史料である。その一部が『新潟県史 資料編13』に掲載されているが、それは『大日本維新史料稿本』所収の写しから載録されたものである。私はかねがね原文書の所在について心掛けていたが、宮内庁宮内公文書館での原文書閲覧・調査の機会を得ることができた。本日はこの5通の文書の性格や伝来についてお話ししたい。
 5通の文書は次のようなものである。
文書1 明治2年7月 「越後府信濃川分水鑿割願写」
文書2 同年7月18日「越後府権判事坂田潔伺」
文書3 同年7月 「民部官伺」
文書4 同年9月 「越後府知事壬生基修上表」
文書5 同年 「民部省見込書」
 信濃川の洪水は古くから越後の民を苦しめており、越後府はその水害を防止したいと考えた。だが分水工事にかかる経費は試算によると160万両であり、越後府はその捻出案として越後府に入る5ヶ年分の税金を使用したいと新政府に願い出た(文書1)。
 しかし新政府からの返答はなかなか来なかった。そのため越後府権判事坂田潔(旧高鍋藩士)は新政府に対し速やかな決定を求めた(文書2)。新政府の民部官では分水開鑿は必要であると考えたものの、その経費として5ヶ年分の税を越後府に委任することはできないと考えた。会計官も同じ考えで、民部官と会計官との合意による分水工事不許可の決定が下された(3文書)。
 この決定を遺憾として越後府知事壬生基修は自ら上京し、右大臣三条実美に知事辞職願を提出した(文書4)。分水工事不許可の決定が下され知事として職務を続けることができないという考えであった。この壬生の辞職願は漢文体で当時の公文書の文体とは違っており、壬生自身が作成したものではなかった。作成者は旧白根市出身、漢学者・歴史学者星野恒である。壬生とのつながりとともに彼の回想記から判明できた。不許可の決定を下した新政府は越後府に「これまでの治水・防水にさらに努める」ように促した(文書5)。
 この5通の文書が宮内庁に伝来した背景は、三条実美の年譜を編纂するため「三条公行実編輯掛」が設けられ、同掛が原文書そのものを収集していたためである。そのためこの5通の原文書もそのまま製本され「三条公行実編輯掛旧蔵本」のうちの一つとして伝来したものである。分水開鑿が現実の課題として動き出した当初の関連文書であり、第1次分水工事の開始期の状況がよくわかる史料と言えよう。