8月2013

8月の例会=報告

8月例会
平成25年8月18日

「長谷川雪旦と歩く『北國一覧寫・越後路の旅』」
本会会員 齋藤倫示 氏

〈講演要旨〉
 長谷川雪旦の『北国一覧写』を見ながら、雪旦が歩いた越後路をたどってみたい。
 今回紹介する『北国一覧写』は新潟県立図書館所蔵・米山堂出版復刻版であるが、米山堂出版復刻版は北海道大学附属図書館等々にも所蔵されている。国立国会図書館所蔵本・デジタル資料には、『北国一覧写三 越後・信濃』『同四 信濃・上野・武蔵』があり、『同四』の最後に雪旦の旅程と紀行文が記載されている。
 その旅程を見ると、江戸の千住から奥州街道を通り北上・仙台・瀬木までが『北国一覧写一』、赤湯温泉から新潟までが『同二 出羽・越後』、新潟から弥彦を通り野尻・長野までが『同三 越後・信濃』、上田から上野・武蔵、そして江戸への帰着までが『同四 信濃・上野・武蔵』と想定され、『北国一覧写』はこの4冊で構成されていたことが考えられる。
 新潟県立図書館所蔵・米山堂出版復刻版は『同二 出羽・越後』に相当するもので、天保2(1831)年8月赤湯温泉―なぜか「赤十温泉」と記されているが―に一泊した雪旦は、小国を経由し下関、乙村の乙宝寺、築地を通り松ヶ崎を過ぎて、「元町ヨリ廿九日夕七ツ時(4時頃)」新潟に到着している。新潟で4泊し、現在の東堀、本町、大川前通りであろう新潟町の家並み、会津屋の様子、海老屋久助楼上の図、亀田鵬斎が記したと思われる「環珠亭」の扁額、そしてイナダやスズキの煮付、タイ・コンニャク・ネギの料理、ヒツナマス、アンカケトヲフ等々、当時の新潟町の生活や風俗、文化を詳細に描写している。
 この新潟町については、三浦迂斎の『東海濟勝記』、清河八郎の『西遊草』、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』からも知ることができるが、新潟の人間では気がつかない事柄を旅人の視点で描いており興味深い点が多い。
『北国一覧写』をはじめ、各図書館に所蔵されている「旅行記」など、とくにデジタル資料を利用しながら、同時に多くの方々と情報交換をしながら、今後も古い時代の文化や歴史、生活等々を探求していきたいと考えている。

7月の例会=報告

7月例会
平成25年7月21日

「地名は旅をする」
本会会員・(財)北方文化博物館理事 神田勝郎氏

〈講演要旨〉
 昨年5月『横越の地名を歩く―岐阜県から山形県まで―』という1冊の本を出版することができた。その後新たに発見された資料もあり、今回それらも含め横越について、映像を見ながら紹介していきたい。
 横越という地名は、岐阜・福井・富山・新潟・山形の各県にあり、合計9か所確認できる。この横越の地名すべてを訪ね見ることができたが、いずれも川があり橋があり、川の流れと集落の位置関係などから横越という地名がつけられたのではなかろうか。新潟市の横越には横雲橋があるが、新潟県令楠本正隆の命名で、大河阿賀野川に雲がかかっているような大きな橋という意味であろう。
 また、横越という地名は、文禄5(1596)年直江兼続覚、永禄7(1564)年醍醐寺僧侶の費用帳、1530年代の高野山清浄心院越後過去名簿の記事中にも登場し、中世史料からも横越集落の成立を知ることができる。
 横越沢海の日枝神社境内に秋山好古書の忠魂碑がある。秋山の資料が400点余愛媛県松山市に残されているとのことで、今年の3月松山を訪問した。秋山が高田13師団長になる半年前、宮中午餐会に招待された時の招待状を確認することができた。松山出身で横越に関係する人物として洲之内徹がいる。彼の著書『気まぐれ美術館』の冒頭に横雲橋が登場している。また、大河津分水路補修工事を成功させ、地域の人々を救った宮本武之輔も松山出身の一人である。
 横越が生んだ碩学として、民俗学の小林存と社会学の建部遯吾をあげることができる。小林は会津八一や相馬御風など多くの人々と交流し和歌や著書を残している。建部も良寛堂発案者の佐藤耐雪や相馬御風との交流があった。横越の五ノ堀用水近くに小林存生家と建部家旧宅が並んで建っている。
 横越沢海の北方文化博物館とアメリカのカリフォルニア州サラトガ市箱根財団(箱根庭園)が、平成23年に姉妹庭園の関係を結んだ。横越が国境を越えて世界各地とつながっている。
 人は旅をする。地名もまた旅をする。地名を訪ねながら旅の楽しさをより一層感じてもらえればありがたい。