3月2022

3月の例会=報告

3月例会

令和4年3月19日(土)

有力廻船問屋が起こした不渡り -北前船を揺るがした当銀屋の経営危機-

当会理事 横木 剛氏

<講演要旨>

 前回講演(令和2年2月「廻船問屋当銀屋の成長と北前船」)のおさらいをする。当銀屋は当初与板備前屋の新潟出店で宝暦6(1756)年に廻船問屋加賀屋津右衛門の株を取得して営業を行っている。廻船問屋には三つの柱があり、取引口銭(仲介手数料)と手数料収入・利足収入が収入源、手数料・利足収入とは廻船・船頭の世話や主として米取引の金融利足を指す。そして仲金(税金)納入である。また当銀屋は加賀粟崎の木谷藤右衛門の強大な資金力によって廻船問屋業を拡大させ、湊町や近郷商人からの商品確保や貸付を行った。

 今回幕末の当銀屋の経営内容をみると、嘉永期には年間10万両ほどの取引があった。嘉永3(1850)年暮の突合(損益表)には売口銭約500両(取引高33,000両)、買口銭約1,000両(取引高67,000両)、益金合計6,017両、損金4,900両で1,100両の延金(利益)が出ている。この経営状況を貸借計算でみると、借(資産)項目では貸付金約8,500両、古貸付金が8,000両、俵物蔵入帳取替が約21,500両、有り金約6,300両など。貸(負債・資本)では先祖からの譲金10,000両、預り金(北前船などからの預り金)16,900両、延金(利益)2,700両などとなり、資産合計49,000両で貸借計算が一致している。

 利益の差が異なるのは、貸借計算の古貸付金は回収見込みのないいわば貸倒金でありこれが資産に計上されているためである。古貸付金は天保期決算で1,200両と初めて現れ、幕末期には1万両までに膨らんでいる。一方、嘉永8年の決算では当銀屋の現金は800両ほどに減っている。この不良債権とともに高崎藩一の木戸陣屋・長岡藩・新潟奉行など領主層への融資、長岡藩の能登黒島の廻船主からの資金融通の肩代わりも重なっている。

 ここで当銀屋と能登黒島の北前船船主との取引紛争が起こった。慶応4(1868)年新潟湊は戊辰戦争の戦場となり、信濃川の洪水による凶作など商業取引が困難となり、翌春の米積出しも期待できず、廻船は新潟湊以外に向かった。同年12月能登黒島の廻船主14名が加賀藩物産方に新潟当銀屋との不差引で商売に差支え、資金1万両の援助を歎願した。その中心の角海家角屋孫左衛門は700石積廻船4艘を所持、当銀屋最大の取引相手であった。角屋孫左衛門は当銀屋の負債(5600両)返済を分割し、明治3(1870)年には2万両の資金を援助、当銀屋は担保として家財や五十嵐浚明の屏風や円山応挙の掛軸等美術品を差し入れている。やがて当銀屋は業務を縮小し、債務は漆屋(嶋吉次郎)に引き継がれていく。

 近世の廻船問屋についてこれまで漠然としたイメージで語られていたが、経営の中核は廻船の商品売買の仲介である。その金融活動は北前船から廻船問屋へ、そして湊町商人へと流れていくことがわかった。この流れがうまく廻らないと廻船問屋も窮地に陥り、北前船の資金を取り込んだりして廃業にもつながっていく。当銀屋が新潟湊で問屋株を取得して開業したことと衰退していった理由や背景の類似性がみられる。