12月2020

12月の例会=報告

12月例会
令和2年12月20日(日)

新潟県官員録出版ことはじめ
東京大学史料編纂所学術支援専門職員 杉山 巖 氏

<講演要旨>
 江戸時代の幕府や朝廷の職員録は木版で刊行されているが、いわゆる「藩」の職員録はまず刊行されることはなく、明治時代になって地方版の職員録も刊行されるようになる。今回は新潟県の職員録が刊行され始めた経緯を探りたい。
 慶応4(1868)年閏4月に政体書が発布され、府・藩・県の三治制となった。府は幕府の御料所(天朝御領=直轄領)のうち都市部、藩は大名の私領、県は天領のうち農村部を指す。
 江戸幕府の職員録は「武鑑」、朝廷の職員録は「公家鑑」があり、幕府には2万人以上の職員がおり、ある程度の需要が見込まれたことが出版の要因となった。なかにはハンディ(小型)の武鑑や町人が年始代わりに配布した一枚刷りの武鑑もあった。町人が求める背景には、係争問題が発生した時の訴訟の窓口になる三奉行も記載されている事も関係した。地方の大名には手書き、書写したものが伝わっている。例外的には御料所の司法・行政を担当した代官や管轄の大きな郡代の職員録が「県令集覧」として出版されている。
 明治政府の初期は頻繁に官職の制度や役職が変化した。明治元(1868)年には各種職員録が多数出版された。版元は京都の村上勘兵衛、武鑑を刊行していた出雲寺万次郎など。明治元年12月には『官員録』を村上勘兵衛・井上治兵衛が刊行。なかには官職制度が頻繁に変わるため製本に至らず反故になった職員録も多く、明治9年に出雲寺が刊行した教科書『初学地理書』は明治6年太政官正院の職員録を刷った紙を再利用して使われている。また書き込みのある反故紙が使用された例もある。
 明治に入り新潟県の職員録で最も古いものは、明治4(1871)年正月の『新潟県職員録』である。新潟奉行所役人で新潟県官吏となった福原家に伝来するもので(現新潟市歴史博物館保管)、明治4年未正月に久須美喜内が刊行している。初刷りと後刷りがあり、明治3年と思われるものは「徒刑守久須美喜内」とあり、明治4年のものは「仲方久須美喜内」とある。久須美喜内は新潟奉行所の足軽であり、明治3年に徒刑守(刑務官)、4年には仲方(交易税業務)となっている。『公文録』には「当県官員掌中録、便利ノ為メ、別冊ノ通、徒刑場御彫刻為致候条、此段御届ニ及ヒ置候、以上、庚午十一月五日 新潟県 弁官御中」とある。則ち官員掌中録(小型版)を刑務所の労役を使用して木版彫刻させたので弁官に御届けします。庚午(明治3年)11月5日。と記録されている。明治3年に刑務所の監督者であった久須美喜内が、労役を使用して新潟県初の官員録(職員録)を出版・刊行したものが初めである。翌4年に改訂版刊行、以降県の官員録は数種出版され、明治7年には金属活字も出版された。