3月2016

2月の例会=報告

2月例会
平成28年2月20日(土)

「新潟開港」と水野千波」
講師 本会会員 杉山節子氏

〈講演要旨〉
明治元(1868)年11月、明治新政府の外国官(のちの外務省)権判事に任命され新潟に派遣された水野千波とはどういう人物であったのか、そして彼が新潟港発展にどのような影響を与えたのか、史料を見ながら報告したい。
水野千波は幕府勘定吟味役根本善右衛門の子息として生まれた。天保13(1842)年彼が17歳の時、同じ勘定所役人であった水野小左衛門の養子となった。彼は勘定所公事方の役人として昇進し、評定所留役などを経て慶応2(1866)年外国奉行並に就任した。その3か月後神奈川奉行となり幕府瓦解の同4年4月まで横浜の開港事務を管掌、幕末外交の最前線に立ち、様々な問題を解決していった人物である。
新潟出張を命じられた彼は明治元年12月新潟に到着、同3年正月までの1年余り新潟に滞在した。彼が見た当時の新潟港は信濃川の土砂が堆積する良港とは言い難い港であった。この状況に対し彼は船着き場と運上所(旧新潟税関)を設置し、市中からの荷物輸送のための道路(現在の湊町通)を建設した。これは彼が横浜で2代目運上所と馬車道を整備した経験に基づくものであった。この他港湾施設の警備、灯台の設置、艀(送り船)の造船など多くの施策を行った。これらの施策の背景には、横浜の整備に携わった彼が新潟を横浜に準じた日本海側の「ミニ横浜」ととらえていた点が大きかったのではなかろうか。
水野の外交交渉、行政手腕がうかがえる一例が新潟の米騒動であろう。これは明治2年10月、イギリス商船が新潟から箱館へ米を輸送しようとしたため、米の値上がりを懸念した零細都市民が反発、騒動をおこした事件である。彼は県当局と交渉して警備を強化し騒動を鎮静化させたが、外務省には報告しなかった。一方、事態を重くみたイギリスは新潟の武力を増強することを要請した。外務省は驚き水野に事態の説明と対策案の提出を求めたが、彼は、騒動は流言飛語に基づく小規模なもので暴動ではないこと、警備の強化により沈静化したことなどを回答した。この回答の内容からいたずらに事を荒立て日英の外交問題になることを避けるという彼の姿勢がうかがえる。
新潟離任後の水野は東京の本省に戻り調整型的な外交手腕を発揮した。そして福岡県参事や裁判所判事として勤務した。下級の旗本から自身の才覚によって昇進し、横浜の開港に携わった水野であったからこそ、1年余りの新潟出張中に新潟の開港を進めることができたと言える。
近代港湾都市新潟は水野によって設計された「日本海側の横浜」という認識に立ち、多くの歴史的遺産を活かしつつ「未来の新潟」を創造していくことが重要と思われる。