9月2013

9月の例会=報告

9月例会
平成25年9月15日

「明治14年『高知新聞』に載せられた新潟のすがたと人々」
本会会員 石橋 正夫 氏

〈講演要旨〉
明治初年から14~5年頃まで、明治新政府は軍隊や税制の確立、殖産興業を目標とし近代国家建設の施策をすすめていった。しかしそれが旧士族などの反発をまねき不安定な時代でもあった。とくに明治14年は自由民権運動が大きな高まりを見せた年であった。
新潟出身で自由民権運動家の一人山際七司は、板垣退助・中島信行に新潟への遊説を請い、板垣・中島等は明治14年9月25日東京を出発した。高崎・長野・高田・長岡を経て10月11日、一行は新潟に到着した。この板垣・中島等の遊説に同行し、その見聞を「東北載筆録」として『高知新聞』に掲載したのが坂崎斌(さかん)である。11日から14日までの新潟滞在の記事を読むと、当時の新潟の様子や坂崎がどのように新潟を見ていたのかがよくわかり大変興味深い。
長岡から新潟へは川汽船安全丸で信濃川を下り、同年夏の大水害に言及し、与板・三条・小須戸を過ぎて新潟市街に近づくと、県庁・裁判所・税関・各学校等の赤い屋根瓦や白い壁に注目している。一行は並木町荒川太二の家に滞在し、坂崎は前年から新潟英語学校の教師をしている弟の直道を訪ね、日和山に行ったり、旭町の招魂社で戊辰戦争戦死者の土佐藩士を弔い、白山公園にも足を運んでいる。
13日は行形亭で懇親会が催され、鈴木長蔵・荒川太二・斎藤喜十郎・鍵冨三作・八木朋直・白勢彦次郎など新潟の有力者が出席している。ちょうどこの日は東京にいる山際七司から、北海道開拓使払い下げの取り消しと明治23年国会開設の詔についての電報が届いた日でもあった。また坂崎は新潟の芸妓の姿を描写し「7~8割が京風、2~3割が関東風」などともを記している。一行は10月14日新潟を発ち、水原・会津若松・仙台・白河を経由し11月6日東京に帰着している。
坂崎は高知の『土陽新聞』に「汗血千里の駒」を連載し、坂本龍馬を世に出した人物でもある。高知は自由民権運動発祥の地として有名であるが、当時の新聞は勉学の一教材としても使用されていた。そして『高知新聞』を見るとイギリスの国内事情について触れている記事があり、高度な内容の記事が掲載されていることなど注目すべき点が多くあるように思われる。